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笑い妄想と不謹慎笑い

もしこうだったら面白い

私はアラフォーになってから、それまで通っていた美容室に行くのをやめ、1000円床屋にて髪を切るようになった。とろろが諸事情で1000円よりも少し高いチェーン店のカットハウスにいま落ち着いている。何かを得るには何かを手放す法則がある。いまの自分の力では、すべてを望む状態にするのは無理。そんなお約束のパターンの世界に自ら選んで生きている。

千円床屋とちがいココは散髪の前後に髪を洗ってくれる。それもココに来る理由の一つ。今日はなぜか客が少ない。直ぐに声をかけられた。まず髪を切る前に髪を洗うコーナーへと移動する。床屋に通っていた頃は頭を前におじぎして髪の毛を洗うのがセオリー。それだとシャワーの水が頭から顔に降りてくる。だから眼をギュッとつむっていた。けど美容室は座席を後ろに倒す仕組みですよね。最初すっごく違和感だった。しかしながらこの方が理に適っている。

いつもの様に仰向けに倒され、顔に一枚タオルの様な布をパラッとかぶされた。「ん?」ちょっと臭う感じがする。「クンクン」私は犬になった。美容理容の商売とは清潔も売りだと思う。まさかタオルの使いまわしは無いだろう。

私は『不謹慎笑い』をする癖がある。正確には想像笑いを我慢すること。今回この臭い布の件で妄想してしまった。


■ パターン1

客:「すいません」

店員:「どうされました?」

客:「ちょっとこの布、臭いんですけど・・」

店員:「あぁ・・それはきっと前のお客様が『さっき餃子を食べてきた』って話されていたからではないでしょうか?」


あたかも使いまわしが当然と言わんばかりの表情で、淡々と仕事をこなしながら当たり前の様にその臭いモノを顔にペラっと顔にかぶせる。「ニヤッ」しかも知っていて、わざとやっている。あるいはクールな表情で雑に布を顔に投げつけオンザフェイス。「ドントタッチミー!」まるで不機嫌なベッキーがやる様な姿を想像したら笑いそうになった。そんな、お約束なコントだ。


■ パターン2

店員:「シャンプーしますからイスを倒しますね」

グイ~ん

店員:「眼をつむってくださ~い。失礼しま~す」

バサッ

客の内なる声:ん?臭い!。それと、何か重いな・・

店員:「ハイ、お疲れ様でした~」

顔をおおっていたモノを店員が取り、手に持ったモノをよくみると、それはパンツだった。


ん・・こうして文字にしてみると、大して面白くない。やはりあの場、あのシチュエーションだから笑えたのだろう。そして、もしニヤリと笑いでもしたら、きっとオカシナ人と思われるのだろう。

他には、かぶされたタオルを外されると、『世にも奇妙な物語』の様な別世界とかも妄想した。店員達が同時に振り返り私を見て笑うシーン。

笑ってはいけない場面だから面白い

不謹慎笑いといえば他にやってしまう妄想もある。笑ってはいけないシチュエーションのときに、「笑ってしまう事が起きる空想」をしてしまう癖をやめられない性格なのだ。お葬式では、お坊さんがずっこける。木魚を面白く叩く。唱えるお経が途中から何かの歌に変わる。例えば演歌の『兄弟船』や、ZARDの『負けないで』とか。しかもデスボイス。お焼香の時、ある人が前の人の頭を突然本気で平手打ち。葬儀中に突然、不倫相手が入れ代わり立ち代わり怒鳴り込んでくる。あるいは、静まり返る中、突然、犬の遠吠えをするおじいいさんなど。

そして二十代前半のころ、そこまで親密ではない友達が亡くなった。そのとき、仲の良い友人数人と、裏の方でクスクスと笑いをこらえていた。お経の歌がとてもユニークで、それを友達がアレンジして笑いに変換したからだ。けどいざお焼香の番が回ってきて、遺影を目の前にしたとき、男泣きで涙をこらえるのに必死だった。ニートと化した彼は、離れの部屋で一人息を引き取っていたという。そしてその亡くなった友人の所に来る人間は私だけだったらしい。そんなの知らなかった。当時私は遅ればせながら、半ニートから抜け出し社会人になり落ち着いていた。だから気がかりだった。私にも何かできることは無かったのかと自分を責めたのが、その涙の訳だと思う。

そして私が若いかりしころ父が亡くなった。そのとき駆けつけてくれた友人達は、クスクス笑いながら「悪い!ドリフのコント思い出しちゃった。本当にごめん!ぷっ」と吹き出すのを我慢しながら、遺体の前に立っていたことがある。さっき話た友人たちだ。なぜか私は怒る気はしない。本当に正直になやつらだ。しかしながらもう笑えそうにはない年齢になってきた。ちなみに私は最近ZARDのYouTubeを久々に観て号泣したことがある。親の立場に成り代わり共感したからだと思う。

なぜそんな思考になったのか。子供の頃『全員集合・ドリフ』や『オレたちひょうきん族』を見て育ったせいかも知れない。会社でもたまにある。おえらいさんの居る会議とかでも、ありえないシチュエーションを空想してしまう。もう笑いをこらえるのに必死。ちなにみ私は、テレビのニュースやドラマを自分の中で『もしもシリーズ』に変換してまう。「もし、こうだったら面白いのに」と。それを人に話て笑いをとるのがやめられない。これもクリエイティブなのだろうか?

本来、物事には善悪は無く、その時々によって良くも悪くもなるものだ。西アフリカのガーナの葬式は、村中に響き渡る爆音で明るい音楽を一晩中、流し、葬儀に来た人々は、音楽に合わせて朝まで踊り続けるという。

そしてアインシュタインはこう言っている。

常識っていうのは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことさ
想像力は、知識より大切だ。知識には限界がある。想像力は、世界を包み込む。

自分を正当化して見ました。

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