Twitterの声をニュースに使うな。

Twitterの声をニュースに使うな。
まじで。

最近、朝テレビで流れているニュースやネットニュースではよく

「Twitterでは『○○~』という声が投稿されています」

という文言を耳にする。今日(2021/8/14)に「都民ブチ切れ」という見出しでTwitterトレンドに上がっていた元となったYahoo!ニュースでも「ネット上では~と指摘が入っている」という言葉が使われていた。このニュース自体にもいろいろツッコミどころがあるのだが、それは置いておくことにする。とにかく、最近のニュースではTwitterに呟かれた言葉をまるで1000万人にインタビューしてまとめた市井の意見のように気軽に使っている。

Twitterの声は、マスメディアからしたらとても便利だろう。手軽に市井の声を拾うことができ、ある話題についてどんな感情を抱いている人が多いのか、ワードをサーチしてスクロールをするだけでなんとなくわかる。インターネットは自分の感情を思ったままに吐露する壺なので、実際に聞くインタビューとは違って、フィルターなしのありのままの言葉を手にすることもできる。「こういう感情の人もいるんですよ~」と提示すれば、それが一種の同調を産み、説得力を帯びるようにもなる。

でも、だからこそインターネットの声をマスメディアに使って欲しくないのだ。

そもそも私はTwitterを、「自分の感情のままに、好き勝手にやる身内ネタ」だと思っている。例えていうのならば、学校の教室の隅っこに集まる陰キャの会話である。(ここでいう陰キャとは、クラスの中心におらず、特定の趣味に傾倒し、同じような思考回路ばかりをもつ限られた少数の友人だけとコミュニケーションをとる思考の偏った人間、をなんとなくイメージして欲しい。私の偏見のにこごりではあるが、目をつぶって欲しい)

陰キャの会話は本人たちからしてみれば、それはもう本当に楽しい。自分の好きなことだけを、好きなままに、時には知らない人たちからしたら絶対に伝わらないルールと言葉遣いと慣習に溢れている。話の内容は誇張されていればいるほど面白く、過激であればもっとよく、狂人であればなおよしとされる。(例:5000兆円欲しい。上司を引き裂いて殺してやりたい。ガチャでいっぱい万円課金した。など)(何度も言うが、私の偏見だ。全部が全部の陰キャの会話がこうというわけではない)インターネットが発達する以前では、これらの場は教室の隅っこや、ごく限られた一部のサイトに留まっていたのだろう。

しかし、Twitterができたことによって、これらの会話は誰もが目に留まる場所で行われるようになった。鍵アカウントと呼ばれる、身内にしか見えない場所で会話を行っている人もいるかもしれないが、鍵をつけていない場合は、どんなにフォロワーが少なくとも、いくら誰も見ていない海に流したと思われる言葉でもサーチに引っ掛かり、ツイートを消さない限り永遠に残り続ける。だが気分は教室の隅っことほとんど変わらない状態で会話を続けられる。

何が言いたいかというと、Twitterの会話は、自分の言いたいことを何のフィルターも、責任感も、出典もなく、高度に発達した慣習の中で繰り広げられる他言語だということである。しかも、その他言語は人によって持っている意味も定義も違う。手に負えない自分と周りの知人だけがもった言語形態、究極の内輪ネタなのである。何を言っているかわからないと思うが、私はインターネットで繰り広げられる会話をこれくらいの認識で読み取っている。自分の知らないジャンルのツイートはもう異国を超えて他惑星くらいの認識だ。

文明も文化も違う人が、ツイートという同じ盤上で刻む言葉は他の人からしてみたら、全く違う受け取り方になる危険性を常に孕んでいる。

例えば、以下のようなツイートを見たことがないだろうか。


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※上記のツイートは私がTwitter風のメモ帳アプリでそれっぽく書いたものである。

背油に野菜とチャーシューがたっぷり乗ったこってりラーメンにつけられたツイートは「スタバ」。背油のラーメンとオシャレの最先端を行くスタバという文言は一見何の関係もないように思われる。しかし、ラーメンの画像にスタバ、もしくは全然違う名詞(女子力、丁寧な一日、健康食品)などつけるツイートは文字通り溢れるように投稿されている。

このツイートには、オシャレでリア充(死語だな)が御用達(としていると陰キャの中でイメージされている)スタバという言葉にあえて、こってりして明日のカロリーも体重も健康も全く気にしないようなラーメンの写真を載せることによって「いやいや全然違うじゃん」というセンテンスが含まれている。

だから別に、本当にこのツイートをした人がラーメンをスタバと思っているわけでもなく、スタバを飲んでラーメンの写真を間違えて投稿しているわけでもないのである。だから、リプ欄に「それはスタバではなく、ラーメンの写真ですよ」なんて言おうものなら、「クソリプ」というレッテルが張られ、一瞬のうちに投稿主からブロックされるであろう。

本当に、ただ単に「そういうもの」なのである。

Twitterには、このような「そういうもの」が把握できる人間がまじで誰もいないほど溢れている。

回転寿司のお湯がでる写真に、「これ何をするところなんですか……?」と書いたり、午前3時34分に334と投稿したり、推しの新規絵に対して「パリコレに進出した……?」とツイートしたり。誰も回転寿司のお湯が出るところの機能を知らないわけではない、334という出来事があったわけではない、パリコレに推しがいないことなんて知っている。ただ、ネットをやっていく内に身につけた慣習というものがTwitterにはある。

そして、この慣習は教わって学ぶものではない。Twitterに重ねられたものを見て知らず知らずのうちに身についたものだ。

だから、Twitterの言葉は信用してはいけないのである。

その言葉は、誰かの内輪ネタかもしれない。なんかのジャンル、界隈では普通に使われているスラングかもしれない。

しかし、ニュースという公の場で「意見」として使われた瞬間、そのスラング性は消え失せる。前後の文面も、誰がツイートしたのかもわからない状態で、文言通りにしかその文面を受け取ることしかできないのだ。

アイドルの新規写真に対して、「可愛すぎる!天使!」というツイートは、その主がそのアイドルのアンチで皮肉としてツイートしたものかもしれない。天使、とはもしかしたらその界隈ではヘイトするときに使われているスラングかもしれない。ある政治家に対してのツイートに「さすがです」と書かれていたら、その言葉は悪事を皮肉にした意見なのか、本当に賞賛しているのかわからない。

しかも、トレンドをタップして、「話題のツイート欄」に流れてくるツイートはいいねの数であったり、リプ数であったり、新着順であったりと、規則性がほとんど不明だ。目にはいるツイートに偏りが生じる恐れはある、というかほとんど偏っているだろう。

そもそも「いいね」は別に「いいね」と思っているから押しているわけではない。Twitter上の意見では反対が多いように見えても、明確なリソースもなく、自分が真反対の言葉を使うことによって異なる意見を言っているのかもしれない。しかし、その慣習やスラングや前後性がわからず1ツイートで鵜呑みにしてしまう人がいる。町中でわーわー言っている言葉をすぐに信用する人はいないだろう。しかしそれが文字になってもっともらしく書かれた途端、謎の信憑性を持ち始める。だから怖いのである。

Twitterの言葉は信用していい世間の意見なんかでは決してない。ましてや、マスメディアでまるで参考文献のごとき使われる媒体ではない。「一意見」だとしたって、顔も声もわからない空間で放たれた危険性の高い言葉を、同調をかけるがごとく使って欲しくない。

また、上記の通りインターネットは内輪ネタと誇張で溢れているのだから、その言葉をまんまテレビで使うのはふさわしくないだろう。誰だって、クラスの前で自分の内輪ネタを先生が発表し始めたら恥ずかしいという感情を抱くはずだ。言葉も過激になりがちだ。ニュースを伝えるにあたっては、適切な言葉を適切な温度感で、しっかりとしたソースをつけて欲しいと願っている。

Twitterの言葉は本当にただの個人の意見でしかないし、言葉通りに受け取ることが前提ではない特殊な空間で発せられている。

だから頼む。

Twitterの声をニュースで使わないでくれ。




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