生まれて初めて心のカウンセリングへの電話をかけた。泣いてもいいんだと思った。

2021年3月3日、生まれて初めて心の問題に関するカウンセリングに行ってきた。その時のことをメモするために書く。まずは予約をするときのこと。


春休みにはいって、毎日不安と焦燥感だけが募っていた。

何もしないで、どんなことにも無気力になってしまって、朝起きても、勉強している時でも「早く死にたい」としか考えられなくなった私は(詳細を書くとバカみたいに脱線するので省略)、大学の学生相談室に電話をかけた。

きっかけも理由も特にない。なんとなく、大学にそういう施設があったということを思い出したのだ。

小さな生き物になって、暗い籠の中に閉じ込められて、行く先々が全部ダンボールのようなものによって遮られているような、真っ暗な感覚。

ただ寝て、起きて、食べるだけの機械になって、何をするにもやる気がなくなってしまった私はどうにかして、その暗い籠から抜け出したかった。なんでもいい。なんでもいいから、ヒントが欲しかった。どうしたらいいかわからないことに、答えが欲しかった。

ダメもとで、大学のホームページを開き、電話番号を打った。

耳に残る軽いコール音が2~3回響く。電話はすぐに繋がった。スマホを通じて流れてきたのは、優しそうな女の人の声だった。名前と学籍番号、どのような案件かを聞かれ、簡単に答えた。確認がとれたところで、新たな質問が問われた。

「では、どんなことが不安なのか教えてください」

電話越しでも話すのか、と少しだけ驚いた。私は一瞬息を吸って、答えた。

「とにかく不安が強いんです。コロナで大学も行けないし、誰とも話せないし、孤独だし、不安がすごくて、もう…………死にたい……って……感じで……」

死にたい理由の整理はできているはずだった。noteですでに3000字とかで5本くらいにまとめているはずなのに、いざ言葉にしようとするとしっちゃかめっちゃかになってしまった。不安→死にたいに至るまで、なにも説明することができずに、勝手に涙があふれてまともに話すことが困難になってしまった。

苗村育郎先生の『自殺の内景』で読んだ、≪泣きじゃくる大学生≫そのままになってしまっている自分に、心の片隅で滑稽さを覚える。これでは何も伝わらない。

しかし、スマホ越しの受付?の女性は、

「うん、うん。つらかったね。うん」

とひたすらに優しい声で相槌を打ってくれた。その声の柔らかさが、申し訳ないと感じるとともに、本当に救われた。嬉しかった。

「誰かに話しを聞いてもらいたいとかだったら、料金のかからないカウンセリングもありますけど、どうしますか?」

泣きじゃくる私に、女性が優しく声をかけてくれた。『お金がかからない』という部分に惹かれて(私はお金を使うのが怖い)、そちらに最初はお願いすることにした。そのまま電話でつないでくれるらしい。

保留音である、アレンジされたクラシックがまた受話器越しに流れる。そこから、また違う人の声に代わり、日程の調節をした。

私が電話をかけたのは2月末。すでに2月の予定は埋まっているらしく、6日後?の3月3日にすることにした。予定の埋まり具合から、私以外にもカウンセリングが必要な人がいるのか、というシンプルな驚きをもつ。

スマホのスケジュール帳にカウンセリングの時間と場所をメモして、「失礼します」と言って、電話を切った。

まだ溢れるのが止まらない涙を少しずつ落ち着けながら、私はとても変な気分になった。

あまりにあっけなく終わったから。

考えてみれば当然なのだが、歯医者や眼科などと同じように。名前を言って、簡単な症状を話して、少し遠い日程ではあるが、あっけなくカウンセリングの予約はとれてしまった。

それまで一人でぐるぐると死ぬしかない。死ぬしかない。と呟いていた私の心の中が、ホテルの一番小さい照明くらいの光量で照らされた気がした。

私が電話越しで嗚咽をしながら泣いて、死にたいというワードをだしても、受話器越しの女性はいたって冷静であった。驚くことも、困惑することも、戸惑うことも、もちろん叱責することもなく、相槌をうち、私がどこにかかるべきなのかを教えてくれた。

これはすごいことだと思う。

涙を流すというのは、日常生活では忌避されるべきことだ。

友達が悩みを相談していて、感情が高ぶって相手がふいに泣き出してしまったら、その友達はまず、

「泣かないで」

と言うと思う。

また、卒業式や文化祭のステージが終わった後。よく泣いてしまう女子がいたと思う。(あくまで想像だ)そのときに、近くにいた先生や友達は必ず

「なに泣いてんの~~も~~泣かないでよ」

と自身も涙を流し、笑い声交じりに嗚咽する相手の背中をさする。

けがをして泣いている子供も、母親は「泣かないで」と言い、お菓子を買ってもらえず、ぐずる子供にも、「泣いているんじゃないよ」と大人は言い聞かせる。

ニュアンスや、態度は置いといて、泣いている人物がいたら、周りの人たちはとりあえずその涙を止めようとする。

それはただの慣習的、もしくは決まり文句的なもので、細かい意味はないのかもしれない。

しかし、カウンセリングにかけた電話の向こう側の人、予約をとってくれた人は私に1回も

「泣かないで」

ということはなかった。

電話をかけた後に思ったことは、「泣いて話をしてもいいんだ」ということだった。

今まで、声にだして自分が死にたいと言ったことはなかった。自分のことをしゃべると、自然と涙が止まらなくなって、収集がつかなくなってしまう。相手を困らせてしまう。勝手に涙がでるほど自分の体が自分ではコントロールできなくなってしまっているのに、生きる意味がないなんて言ったら、引かれてしまうのではないかという怖さ。

そしたら私は一体何に悩んでいるのか。

私だけがおかしいのか。

こんなことで悩んでいる私は一体なんなんだ。

ずっと抑制したことが、私が悩んでいることを話すという行為が、カウンセリングの予約をいれた3月3日にできるのだ。

泣いてもいいんだ。

スケジュール帳にかかれた、薄い緑色で色付けされた『カウンセリング予約』の文字。

私はその日が少しだけ楽しみになった。


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