「死なないで」って生きている意味がない人間にもかけてもらっていい言葉なんだろうか。就活サイトを見て、考える

私はずっと死にたい。中学生くらいの時から、今に至るまで本当にずっと死にたいという感情と共に生きてきた。

しかし、世の中では「死にたい」という言葉で検索をかけると、TwitterでもYahooでも、

「一人で悩まないで」

「あなたの気持ちを聞かせて」

と出てくる。自殺に対する様々な対策がなされていることから、この世の中では自殺は悪とされているとわかる。自分から「死にたい」と思うのはどこか頭や心の具合がおかしいから。だからそれを直してあげなければ。そのようにして、世の中は自己否定の感情を否定する。

どんな人だって生きてていい。どんな人にだって生きる資格はある。

そのような優しい言葉で世界はできている。

果たして、本当にそうだろうか。

ここで「死にたい」の検索ワードを変えて、「就活 ES」と打ってみよう。

そこでだされる回答は、今まで生きてきた人生の総決算である。

サークル、インターン、ゼミ、多様な友人関係、がんばったこと、先輩とのつながり、学園祭での実行委員、自分の性格、友達との自己分析、面接練習……。

見るだけで目を背けたくなるような情報が、洪水のようになって私の目に飛び込んでくる。胃液がせりあがってくるような焦燥に包まれ、震えるような嘔吐感が這い上がってくる。

どれも、私には全部ないものだからだ。

私は人と話せない。人と友達になることが本当に苦手なのだ。コミュニケーションができなから、どんな場所でも属することができない。サークルも、部活も、全てやめてしまった。

初めて会う人を目にすると、言葉が浮かんでこない。でも沈黙は苦痛だ。なにか話さなければ、という気持ちだけが先行して言葉だけが飛び出してしまう。余計なことや、調子外れのことばかり話してしまって、ああ、あんなこと言わなければよかったと、一人になったときに岩のように重い自己嫌悪に襲われる。

人に話しかけようとすると、思考が止まる。会話を続けることができない。自分が話すことによって相手の時間を奪うことに狂いそうなぐらい申し訳なさを感じる。わからないことがあって先輩にLINEをすることさえ、申し訳なさすぎて、指先が振るえる。

とにかく、自分がその場に存在することが申し訳なくてしょうがない。

この考えが、中学生のときからずっとあるのだ。

このままじゃいけない。どうにかして対人関係を克服しなければ、と春先になると私は必死に努力しようとする。

しかし、部活やサークルに所属して1日目。もう知らない人と顔を合わせることが恐怖で仕方がない。同じ学年の人とうまく話せない。そうこうしている内に、もう他の人たちはお互いに打ち解け、友達になり、そうして仲の良い楽しいサークルがつくられる。

どもり、なにもできず、他の人がただ仲良くなるのを眺めていた私は、次に集まる日程のことを考えることさえ苦痛になって、やめてしまう。

そうやって、あわあわしていたら1年間が終わっているのだ。(大学2年生から新しいサークルにはいろうとしたが、コロナで新歓が終わり、慣れない環境とストレスで虚無になっていたら2年生が終わった)

バイトでも同じような感じで、人と話せずめちゃめちゃ陰気な人間として過ごしていた。しかも不器用で、仕事の効率も人に比べて本当に悪い。バイトを通じて、私は本当に仕事ができない人間だとわかった。

このような、協調性と積極性の欠けた、なんにも努力していない人間は、『ガクチカ』からものすごく遠いところにいる。

学生時代に頑張れたことなんて、ない。環境に馴染もうと努力しても、結局誰とも仲良くなれず、全部やめました。とでも書くのか?効率が悪く、改善しようとしてやっと人並みに仕事ができるようになりました、とでも書くのか?そんなこと、書けるわけない。企業の求めている人物像から、私は交わらない位置にいすぎている。

つまり、就職は絶望的。また、仮に働き始めても人間関係はきっとうまくはいかないだろう。

自分の生きている意味が本当にわからない。

コミュニケーションもとれず、効率も悪く、努力をしても人に追いつくことができない。なにもできない。ただ、息をしているだけ。

こんな人間が、世界に必要なのだろうか。

必要のない人間の「死にたい」を精一杯引き留めてくれる理由はなんなのだろうか。

資本主義の日本では、利益を追求して成果を生み出す。よりよいサービスを提供することによって、お客様から対価をもらい、それが給料となって還元されるのである。線と線で繋がった、正しい社会の在り方だ。

だからこそ、職場では有能な人物が求められる。

円滑にコミュニケーションをとり、積極的に物事を動かして、より会社に恩恵を与えてくれる人物こそ、社会が必要としている人間なのだ。

しかし、どう考えても私はその人物像にあてはまらない。

自殺をした人のニュースを報道し、「周りに相談することで楽になれることもあります。一人で悩まないで」と悲痛そうに訴えるキャスターも、迫真の文章力で伝達する記者も、朝のニュースを見て心を痛めるサラリーマンも。

どんな人だって、仕事のできないコミュニケーションもロクにとれないやつが同じ職場にいたら嫌に決まっているのだ。どんなに優しい言葉をかけようとも、心の中では苦笑いをしているだろう。

それよりは、快活で、明るくて、学生時代も仲間と部活に励み汗を流した素敵な人間と仕事をしたいと思うだろう。効率が良く、業績を上げられる人と一緒にいたいだろう。それが普通だ。

私は、自分の無能さを知っている。

私は前者で、人に「大丈夫大丈夫」となだめてもらう側なのだ。そのことが申し訳なくてしょうがない。

同じ時間をかけても、人が10できるものを私は5しかできない。

グループディスカッションや、エントリーシートでは10できる人間を探しているのだろう。それが、社会に求められる人間だ。それならば、私は私自身がいらないと思う。

自殺を止めようとする社会と、人に求めるもののある社会にはこの乖離があると思う。

どんな人だって生きてていいけど、近寄りはしないで。

これが、本音なのではないだろうか。しかし、生きている限り、お金は稼がなければならないし、私が近寄らなければいけない人はでてくる。

そのことが、本当に申し訳ない。人に迷惑をかけるくらいだったら、死んでしまいたいと思う。

生きている人間の価値は、平等ではない。

私よりも、もっと仕事ができて、快活で努力のできる人間はたくさんいる。そちらを取る方が、社会にも、企業にも有益だ。それは紛れもない事実だ。人よりなにをするにも時間のかかる私は、社会の負担となってしまう。だから私はずっと死にたい。

それでも、私は決心がなくてまだ死んでない。本当に憶病で、意気地がなくて、クズな人間だ。一体私は何をしているんだ。本当に自分が嫌になる。

私は、「死なないで」と声をかけてもらうような、生きる価値ある人間だと、どうしても思えない。

本当に私は生きていていいのか。

眩しいくらいに光を放つYahooで打ち込んだ就活の検索結果を眺めながら、死にたさで心が満杯になって、あんまりに重い気持ちで、また動けなくなる。どうしたらいいのかが、本当にわからない。

「死にたい」と検索をかける。

「一人で悩まないで」とでてくる。

それは、私にかけてもらっていい言葉ではないな、と思っている。


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