noteは自己満足のためにやる
最近よく考えてることが二つある。
一つはコンテンツの消費、もう一つはPOISON。
主婦の夕食の料理にかかる平均時間は約50分らしい。
どこで調べて、その調査がどれほど信憑性があるのか?という話になるのといちいち話が進まなくなってめんどくさいので、この記事ではそういう事として話を進めたい。
どうしてもこの部分に引っ掛かる人は、この先の文章を読んでも私とは一生分かり合えないと思うのでブラウザバックして自分のために有意義なインターネットサーフィンを楽しんでほしい。
話は戻るが主婦の夕食の料理にかかる平均時間は約50分らしい。
思い返せば自分の母親が夕食を作る時も約50分程度だし、同棲している彼女に夕食を作ってもらう時間も大体それくらいなのかなという気もする。
料理にかかる時間に対して食事時間は15分~30分といったところだろうか。
料理というコンテンツを「作る人」の消費時間に対して、「食べる人」の消費する時間は基本的に短い。
この話を考えるようになってから男子にありがちな早食は料理を作る側の人がかわいそうだなと思うようになり、なるべく味わうようにしてご飯を食べるようにしている(目安は冷めないうちに食べる)。
小学生でも理解していることだが、「いただきます」や「ごちそうさま」などの言葉はそういった生産者や調理者に向けての感謝の言葉なんだなぁ~と今更再認識する。
年齢的にも消化機能が衰え始めているのでゆっくりよく噛んで食べるというのは結果として良い。
社会で生きるってことは気を使うってことだ。
目上の人と会話をするときはです・ます調で会話をしなくちゃいけないし、無言の時間があれば空気を読んで間を埋めたりしなければならない。
友人や知人間ではです・ます調は使わないにしろ、文脈にそれと同じかそれ以上のリスペクトを含ませて付き合わないと、大人同士の貴重な自由時間を割く付き合いである以上は成立しないかなと思う。(当然そこまで気を使わなくても良い関係性もあると思うが)
少し前までは無法地帯だったネット上での付き合いも徐々に匿名性がなくなってきたり、モラルやマナーが整備されつつあり現実世界以上に言動に気を付けてなければいけなくなってきた。
最近は休日の午前は健康に気を使ってなるべく散歩しているが、一人で外を歩いてても油断をすれば警察官に職務質問を受けるし、子供や年頃の女子なんかが近くにいれば不審者として通報されないように距離を開けたり別ルートに移動したりしている。
つまり周囲に気を使うことは職場では当然だし、年齢を増すごとにプライベートの時間でも求められることが多くなっている。
簡単にいえば『POISON ~言いたい事も言えないこんな世の中は~』状態だ。
反町隆史氏は1998年にこの息苦しさを読み取り、歌にして昇華しているんだから大したもんだよ。まったく。
つまり「noteは自己満足のためにやる」ってこと
料理の時間の話とPOISONの話は創作活動においてコンテンツの消費は諸行無常であるってことだ。
受け取る側からは感謝の弁はあるにしろ、食べたものは二日後にはなにを食べてたか覚えていないのが一般的であり、そこの反応に創作者が期待するのは健全じゃないなと思う。
なにより私自身がそんな他者に感謝というか讃頌されるほどのクオリティの高い物は作れないし、本業でもない物にそこまでカロリーを向けることはしない。
むしろ、このnoteが世の中に向けてある程度好きなことを書いても見られていない性質を逆手に取って日々のPOISONを解毒できる空間である事を最大限に利用していきたい。
そういうわけでnoteを始めた頃に比べて散文がちになっていたり、これ誰に向けてるんだって記事があってもそういう事なんですよ
真っ直ぐに向きあう現代(いま)に
誇りをもつために
noteも必要なのさ
完☆