【短篇ホラー】ある警官の帰還

坐骨市。

もうこの街には決して戻りたくなかった。

警官を拝命して6年、ずっと「坐骨市」で働いてきた。

事故事件は多く、夜寝る間もない。

人員の限られた地方警察において、繁忙な中心都市は過酷だ。

ただ過酷なだけではない。

この街の持つ、不吉な「澱み」のようなものが嫌だった。

日に日に寂れてゆく街並み、閉鎖的で無気力な市民、傍若無人な地名士、そして…得体のしれないもの。

私は同僚や家族に、しばしば話した。

坐骨市はどこかおかしい。

人の失踪、怪死、不自然なまでに頻発する事故…まるで、街が人の生き血を啜るように命の灯が消えてゆく。

だが、誰も不思議に思わない。

違和感も覚えない。

「大きな街だからさ」

皆そう答えて済ませる。

「木沢巡査、霊感持ちですか?」

そうからかう同僚もいた。

私は一年ぶりに異動で、坐骨警察署へ戻ることになった。

ようやく、あの街を抜け出たと思ったのに。妻と、幼い子とともに、戻ることになったのだ。

異動日の前日、家族は一足先に坐骨市のアパートへ入った。

私は、引越し前の手続きや明け渡しで遅れて入ることになった。

日は暮れ、暗い中車を走らせていた。

坐骨市に入る。

アパートまでは、あと5分ほどだ。

その時、妻から電話があった。

おそらく夕食の算段だろう。コンビニでもよってほしいとか。

「あなた…。さっきからね…誰かがノックするの。ドアを」

妻が言う。ハンズフリーイヤホンから聞こえる声は、やや怯えている。

「だれだい?」

「分からないの…。ドアスコープを見るんだけど、だれもいないのよ」

「勘違いじゃないかい?」

「そんなはずないわ。もう5回目くらいよ。

ノックがあって、私が覗いても誰もいないの」

「チェーンロックを掛けて、見てみたら?」

 

幼い息子の愛らしい喃語が聞こえた。

「それが…チェーンロックの先端が錆びついて…台座から取れないのよ。チェーンロックできないの。開けたほうがいいかしら?」

私は背筋が寒くなった。

何の変哲もない普通の街なら、私は笑って妻にインターホンを使うよう勧めただろう。

だが、ここは山口県坐骨市なんだ。

「インターホンも壊れてるのよ」妻が不安げに言う「玄関開けてみるわね」

「だめだ!」私はつい強く言った。「あの…不審者だといけない。そのまま待っとくんだ。僕もすぐ着く」

「早くお願い」妻が言う「何かおかしいの。ノックの強さも次第に…ひっ!」

妻が叫んだと同時に、ドアを激しく叩く音がした。

年季の入った防火扉を強く叩く音だ。

「あなた…」妻が泣きそうな声でつぶやく。

私は通報する事を考えた。

だが、もう家まで2、3分だ。

坐骨市内なら、パトカーが到着するまで平均で6分ほど。

イタズラの可能性はなかろうか。

私は少し躊躇した。

引っ越し早々、妙な騒ぎを起こす家族が来たと…坐骨の住民に思われるかもしれない。

「動かなくていい、もう一度強く叩いたら、通報する。君は絶対に開けるなよ」妻に言った。

「私…見てみるわ。犯人の顔を覚えておく」妻が言う。

「やめるんだ、何もしなくていい!」腹の底から、恐怖心と吐き気が湧き上がった。

妻を失いたくはない。

「大丈夫…ドアスコープからよ。絶対に開けないわ…おおよしよし、ちょっとまっててね」妻が、幼子をあやしながら立ち上がる音が聞こえる。

「やめろ!」私は叫んだ。だが、妻には声が届いてない。

数秒沈黙があった。

妻の叫び声が響いた。

私は、心臓が引き裂かれそうな感情に襲われた。

だが、すぐに妻が言った。

「あなた…どういうこと?あなたじゃない…制服姿で…でも、血に塗れて…笑ってる…顔は血だらけよ…あなた、電話してるのよね?まだ家に着いてないわよね?」

妻が困惑する声で言う。

「私…もう見たくない…」ドアスコープから離れたようだ。

背中か首筋まで寒気が広がる。

なぜそんな事になるか分からない。

私はここにいる。

家まではもう一分もないが、到着してない。

なぜか血まみれの制服を着た私が…私の新居の前にいる。

妻の悲鳴と、ドンドンとドアを叩く音が聞こえる。

早く戻らねば。

妻を守らなければ。

たとえ相手が坐骨の怪であろうとも…。

「あれ!?…いない…どうして」妻が唐突に言った。「あなた、やっぱり何もいないの!」

再びドアスコープを覗いたのだろう。

私は、ちょうどアパートの駐車場へ着いた。

車から飛ぶように降りて、自分の号室へ急ぐ。

いた。

私の号室のドアを、手を振り上げてノックしようとする者の後ろ姿が見えた。

だが、それは私ではなく、スキンヘッドで、ゆったりとした服を着た大柄な人物であった。

「この野郎!」大声を出してその者に飛び掛かかり押さえつけた。

驚くほど力が弱かった。

すぐに地面に倒れた。

それは太った女だった。

服は見覚えのある格好だ。

市内の、急性期精神病棟の患者服だ。

院外に抜け出した患者だったのだ。

女は叫び声を上げると、寄り目になって泡を吹き始めた。

私はため息をつくと、身体を横に向けさせ回復体位を取らせた。

なんてことだ。

彷徨う病人を押さえつけてしまった。

着任早々に…。

私は救急を呼んだ。

救急が来るまで、私はその女性の様子を見た。

泡を吹いてるのは、本当に泡でなく、それらしく見せた唾液のようだ。

キチンと呼吸もしている。脈も正常。

「あなた!」号室から少しだけドアを開けた妻が覗いた「その人の…いたずらだったのかしら?」

「君は僕が見えたといったね」

「本当なの!」妻が強く言う「血まみれのあなただった…でも、見間違いよね。ごめんなさい。心細かったから…何かの思い違いしたのかも」

僕は何も言わなかった。

妻がデタラメ言うとは思えない。

なぜならこの街は坐骨市だからだ。

救急が到着し、手際よくストレッチャーに女を寝かせた。

救急隊員が微笑んで言った。

「先程、坐骨警察の方から入院患者の行方不明手配が回ってきたばかりでしたよ。早く見つかって良かったです」

ストレッチャーが持ち上げられた。

その瞬間、女はカッと目を見開き、ゾッとするような大声で言った。

「おかえり!おかえり!おかえりいいいいぃ!」

私の膝は笑い始め、唇も震えていたと思う。

制服を着ていなくて良かった。

救急隊が震える警官を見て訝しむところだった。

女はそのまま運ばれていった。

私は脚を引きずり、ドアの前に立った。

帰ってきたのだ。この街に。

坐骨の街が、私の帰還を待っていたのだ。

ドアを開けると、薄暗い居間に妻と子供が身を寄せ合って小さくなっていた。

私の顔を見ると、ぱっと顔をほころばせた。

街の蠢きに飲まれてもいい。

ただ、この二人だけは何があっても守りたい。

ひとつ大きくため息をつき、私は微笑んだ。

「ただいま」

妻が微笑んだ。

「おかえり」



【おわり】

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