【怪異短篇】渓流釣り(後編)

僕は、すぐに歩みを止めた。

砂山を助ける…。それは間違っていない。

だが、砂山は助けを呼びに行くから変わってくれと言っている。

怪物は、砂山と引き換えに僕が欲しい。

僕が砂山と変わったらどうなる?

怪物を僕を連れ去るかもしれない。

砂山が帰ってくる保証はあるか?

僕は突然自分が哀れに思えて笑えてきた。

この期に及んでお人好しが過ぎた。

考えてみると、いい機会だ。

今まで、僕の育った環境を恨み、僕の能力を環境のおかげだと遠回しに当てこすりしてきた砂山。

正直なところ、僕はこいつの妬みや貧乏人根性に嫌気がさしていた。

第一、なんでこの貧乏人は自分と変わってくれなんてほざくんだ?

それはつまり、自分がいち早く安全な所に移動して…お人好しの僕を犠牲にしようとしているだけだ。

いつもそうだ。

僕を妬み、嫉み、ハングリーだかなんだか知らんが張り合ってくる。

僕は、その必死に迫ってくる姿が疎ましい。

僕が負ければ、こいつは僕の環境を非難し、僕の尊厳を傷つける。

僕の心は決まった。

この妬みの塊を…僕の人生における疫病神を

排除すべきなんだ。

僕の顔を見て、不穏な空気を察したのか…

砂山の顔が引きつり始める。

残念だが、僕は「走れメロス」ではない。

僕は踵を返して怪物に言った。

「そいつを食ってろよ、バケモンが。僕は帰るぜ」

怪物は気味の悪い木の板を被ったまま、絶叫した。

「待ってくれーーーーーーー!」

砂山も絶叫する。

僕は全力で走った。

高価な釣り具ももういらない。

今必要なのは命だけだ。

後ろの方で布を引き裂くような音が聞こえた。

同時に、液状のものが地面にビシャッと落ちる湿った音も聞こえる。

僕は走る。

恐ろしい猿のような咆哮が聞こえ、何かが僕の頬をかすめて飛んできた。

頭部だ。

髪の長さからして砂山であることに間違いない。

だが、僕はしっかりと確認する余裕もない。

その頭部を蹴飛ばすように全力疾走した。

限界まで走ると、深い、流れのはやい下流へつながる沢へ飛び込んだ‥‥。

結果として僕は助かった。

砂山は今現在も発見されていない。

学校周辺や街の商店街には、彼を「さがしています」と写真入りの行方不明手配チラシがあちこちに張ってある。

僕は、近所の神社や寺、歴史資料館などを探し回って「よこし」の正体に迫った。

ほとんど伝承に近いものだが、少しだけ触れているものがあった。

曰く、あの滝のある場所は、全て「穢れ」ている。

悪い、歪んだ神様が住んでいる。

犠牲者が望むものを寄こし、近づいてくるのを待っている。

まるで「釣り」のように…。

あの正体が何なのかは分からない。

サルなのか、不審者なのか…

ただ、僕の目には、既知の存在の…領分を越えていた気がするのだ。

僕はもう渓流釣りもやめた。

張り合ってくる奴もいない。

僕は恵まれた環境で、ただ怠惰に日々を楽しく過ごしている。

成績は落ち、情熱を注いだ釣りやスポーツもしなくなった。

ある意味、砂山の存在が、僕にいい影響を与えていたのだろう。

今は酒を飲んで、博打をして、女をひっかける自堕落な遊びを始めた。

親の金と力を使えば、少々のことは実現できるのだ。

僕は現状が非常に楽でいい。楽しい。

妬んでくる邪魔者は消え、自分が思うように、手を抜いて気楽に振る舞えるこの世界がたまらなく楽しい。

僕は砂山が死んで本当に良かったと思っている。

つまらない張り合いや向上心といった面倒なものを捨て、甘い怠惰にたゆたう生き方を覚えたのだから。

その点は、あの怪物に感謝している。

【おわり】

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