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「あー、自分日和ってんな」って思ったときに

在宅ワークが導入されてから音声コンテンツを聴きながら仕事をすることが増えた。radikoでラジオを聴き、spotifyで流行りの歌をランダム再生、podcastでろくに知らない人の話に関心し、知識が深まる。

今年の春、ジェーン・スーさんがパーソナリティを務める「ジェーン・スーの生活は踊る!」を初めて聞いた。そこで紹介されていた本に興味を持ち、そのままamazonで予約。9月の発売を楽しみにしていた。

そして届いたのが梨うまいさんの「悔しみノート」だ。

スーさんのラジオへの投書がきっかけで生まれた本書。著者の梨うまいさんは、役者なのか演出家なのか作家なのかはよくわからないが(役者もやっていたよう)、とにかく演劇にまつわる何かをやっていた人。そしておそらくまだ若い。

彼女の毎日は映画やドラマ、音楽、小説といった世に出た作品たちへの悔しみで溢れていて、才能の溢れる人を前に、身内だけで褒め合う生温い舞台を前に、わきあがる悔しみをひたすらに綴る。

彼女の悔しみは”嫉妬”とはどこか違う。

その言ってしまえば中二病感満載の日記が面白く、そしてまぶしく、ヒリヒリとした彼女の才気あふれる言葉に、結果、私は悔しみを抱く。これだけの才能があふれ、それを番組に投書し、出版の権利を得た彼女に悔しさを抱く。

結局自分の中で燻っているのは何もしないのと同じ。

そんなことはわかっている。いるかわからない受け取り手に向けて、まるで空と対峙するかのように言葉を投げる。

それはたしかに宛先のない言葉かもしれない、でも自分の外に投げたことには変わりない。どんな場所であれ”外”に投げれば棒に当たるかもしれない。

投げたものと投げていないものでは圧倒的な違いがある。とにかく投げた、そんな彼女に私は悔しみを抱くのだ。

ただただ自分の心を書き殴るだけでもそれが作品になる場合と、ならない場合の違いはなんだろう。

彼女が紹介する作品たちを実際にみて同じように文章にできるだろうか。
10代の私だったら私なりに同じ熱量で表現することができた気がする。
でもいまの私はどうだ?

忘れていたアツくてむさ苦しくて、でも冷めてもいて、それでも圧倒的な自意識過剰さはあって……そんなぐちゃぐちゃした気持ちがないまぜになって発することができるエネルギー。

確かにあの頃の私にはそのエネルギーがあったじゃないか。

そんないつの間にか埃をかぶっていたぐちゃぐちゃを呼び覚まさせてくれる一冊だ。あー、自分日和ってんなって思ったときにまた、きっとこの本を開くだろう。

あぁぁぁ悔しい。


ちなみにこの記事は、3年前に書いて下書き保存してたやつ。ちょっと直して公開してみました。

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