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障害者から見たトランスジェンダリズムの不合理性

2024年7月10日、下記の判決が出ました。

この判決自体は、当然、訴訟を起こされた方の個別の事情を考慮してのものです。
この方は性同一性障害ですし、全てのトランス自認の人に無条件で適用されるものではないのですが、今後「この道」が開けてしまう懸念があるのも事実です。

私には発達凸凹(神経発達症=いわゆる発達障害)があるのですが、その立場から見て、以前からトランスジェンダリズムは不合理だ、と感じていたんですよ。

トランスジェンダリズムって、個人の障害や特性を否定する思想なんじゃなかろうか…? と。
そのあたりのモヤモヤを書き出していこうと思います。


◆ 心身二元論?

トランスジェンダリズムって、「心と身体は別々に存在する」という「心身二元論」でできているんですよね。
永遠不変の自我と、滅びる肉体、という、ある意味キリスト教的な価値観を基準にして出来ています。
なので、身体ではなく「心」こそが実体の本質だ、という考え方なんですよね。
心で判断する性別は正しいけれど、身体で判断する性別は間違っている、と。

ところで。
身体と心って、切り離せるのでしょうか。
私は、コレ、生物である限り無理!と思うのですが…。
トランスジェンダリズムの根幹にある「正しい心」と「間違った身体」って、いったい何なのか。
それが成り立つなら、「間違った心」と「正しい身体」も成り立つのか…?

…コレ、ねぇ…
ある意味「障害の存在否定」になってしまうんですよ…。

障害って、当然、身体に起こる不具合から来るものなんですよね。
精神疾患を「心の病」などと言いますが、本来は脳という身体の一部である臓器が不具合を起こすことで、認識が偏ったり歪んだりする病気のことを、精神疾患・精神障害などと言います。
過重なストレスがかかった時、認識の幅が狭まる(考えが視野狭窄的になる)のも、「これ以上のタスク処理はできない」と判断した「脳=身体」が起こす、ごく自然な自己防衛反応ですよね。
これが続いたり酷くなったりすれば、抑うつ状態になります。
タスクをこなす能力には当然個人差がありますが、その個人差って「個体差」、つまりその人の身体に備わった体質の一部で、心の持ちようとか根性とかの問題じゃないんですよ。
精神的な病って、結局は身体の状態や反応から来る病であって、心に問題があるからかかる病気じゃないんですよねぇ。

しかし、心身二元論を基準に考えると、心と身体は切り離すことができるとされてしまいます。

これまで、精神的な疾患を「身体とは関係ない・心の問題」と考えることで、病者・障害者がどれほど追い込まれてきたことか…。
曰く
ウツは甘えだ!精神を鍛えれば治る!!
…………
治らんがなっ!!!( ノ ゚∇°*)ノ"

心頭滅却すれば火もまた涼し、かも知れませんが、火を涼しいと思い込んで触り続けたら、重度の火傷で死亡しますよ。
身体が死亡しても「心だけ」で生き続けられるのでしょうか…?
宗教などの世界観ではあり得るかもしれませんが、現代の医療としては、心身二元論は否定されているんですよ。
心って、要するに「身体の中で起こる現象」なんですよね。
心と身体は切り離せないんですよ。

本人にとって、どれほど不都合な身体であったとしても、それがその人特有の「限界」。
その限界を知ることを、【障害の受容】と言ったりしますが、健常者にも当然限界があり、それを知ることが生きることの豊かさを享受する前提条件だと、私は考えます。

↑参考:以前にあげたブログです。

トランスジェンダリズムが基礎とする【心身二元論】に、私は【生物としての人間の否定】と、どのような希望でも人間の開発する力で叶えられると思い込んでしまう【脳の暴走】を感じてしまうんですよ。

脳の暴走って、人体の構造として陥りやすい「自滅への罠」だと私は思っているんですよね…。

◆ ジェンダーに対する違和感と性別違和は別のモノ

今回の裁判の原告は性同一性障害の方ですが、いわゆる「トランスジェンダー」と名乗る人たちの大多数は、性同一性障害ではない人、なんですよねぇ。
性同一性障害については私にはよく解らないので何も言えませんが、「ジェンダーに対する違和感」というのは、感覚として解る気がします。

ジェンダーってざっくり言うと、性別そのものではなく、「社会的な役割としての男らしさ・女らしさ」の事ですよね。

この、「社会的な役割」というところが重要なんだと思うんですよ。

私は発達凸凹があり、周囲にうまくなじめないまま生きてきたのですが、トランスジェンダーを自称する人の中に、神経発達症の傾向のある人が多いことが、とても気になるんですよ。
私の場合は、「男の子文化・女の子文化」以前に「人間のコミュニティ」にうまくなじめなかったので、単純に「ヘンなヒト」なのですが、
人間のコミュニティに違和感はないけれど、男の子文化(女の子文化)にうまくなじめない男の子(女の子)の場合、「自分は性別を間違えているんじゃなかろうか?」と感じてしまうこともあるんじゃないか、と思うんですよね。
この場合の問題の本質は、性別の違和ではなくて、マジョリティの文化になじめない「外れ値」の特性をもつ個体であること、なんですよね。

これ、別に特性が外れ値だって良いんですよ。
それがニューロダイバーシティというものなのですから。
無理に「どちらかの文化」に合わせる必要はないはずです。
けれどそれでは疎外感は埋められない。
だから、頑張ってどちらかの文化へ帰属しよう、と考えたとしてもおかしくはないと思います。

以前から思っていたのですが、トランスジェンダーを名乗るMtoFの人たちの言動からは、性別としての女性になりたいわけではなくて、「女性的といわれる文化的立ち位置」に対するあこがれのようなものを感じるんですよね。
たとえば、「かわいい女の子になってキラキラ・チヤホヤ・キャッキャウフフをやってみたい」という感覚。
…これ、別に「女性」にならなくてもできるんですよ。
男性のまま「キラキラ・かわいく」すればいいと思うのですが、たぶんそれをやると、男性文化からはじき出されてしまうんですよね。
だから「女性にならなければいけない!」という思い込みになってしまうのかも知れませんが、それって、「性別としての女性」ではなく「社会的立ち位置・ジェンダーとしての女性」になることを望んでいるんですよね。
更に言えば、性別としての女性にとって「キャッキャウフフ」は全く持って必然ではない、ですし、ねぇ。

どこまでも「身体的な性別」ではなく、「社会的な帰属・承認」の問題なんだと感じるのですが、どうなのでしょう。
無理に「女性」になるのではなく、「MtoFというジェンダーの人」として社会に承認されて生きることができれば、問題は無くなるのではないのでしょうか?

以前、別ブログでトランス女性に対する疑問を書いた時、MtoF当事者と思われる方から
「トランス女性は日々パス度を上げるため大変な努力をしているのに、それを認めようとしないのは差別だ」
という意味のコメントをいただきました。
この方にとってはやはり、努力を認めて欲しい、という、【承認】の問題が大きいんですよね…。

もし、根本的な問題が性別違和ではない人まで「性別自体をトランスしなければ!」と思い込んでいるのだとしたら…
それは不幸なことではないのでしょうか…?

◆ LGBとTQ+は分けて考えないとダメ

LGBTQ+、というように、一括りで言われてしまっていますが、本来は別の問題なんですよね。
LGBは、どういう人をパートナーにするか、の問題。
家族として生活をするための社会的権利の問題です。
けれど、TQ+には性的な表現や性癖なども含めたあまりにもいろいろな問題がひっくるめられている。
生活上の社会的権利を獲得したい(LGB)、と、性別・性行動の自由を保障して欲しい(TQ+)、と言い換えると、ますます「別のもの」になると思います。
なのだけれど、この辺りを整理しようとすると、虹色旗の人たちは、
「定義すること自体が差別だ!」「ノーディベート!」
と話にならないんですよ…。
結局、論理的な話になってくるとトランス擁護がしきれなくなる、ということなのかと思います。

とにかく、一括りにすることで本当に困っている人に不利をもたらすようなことになるのは、絶対に避けてもらいたいです。

◆ 『特性』は変えられない

マジョリティである健常者は言い難いと思いますが、ままならない身体を持つ障害者ならば、ある程度言っても理解してもらえるのではないかと思い、書きますが…
『最初から身体に備わった特性=性別は、変えられない』です。

どんなに不都合であっても、障害者は健常者にはなれません。
ある程度の治療はできても、【全くの健常者と同等】にはなれないんですよ。
どれほど医療技術が進もうと、外れ値は最頻値に改造できない、と思います。
「生き物」としての人間の限界は、当然あります。
自然の全てをコントロールする能力など、未来永劫人間には備わらない、と思います。
同様に、性別も、他の性別の人に近い外見にすることはできても、最初から身体に備わった性別を、別の性別にすることは、できません。
それが気に入ろうが気に入るまいが関係なく、それこそがその人個人に備わった【限界】であり、【アイデンティティ】であり、【尊厳】なのだ、と私は思います。

無理に他者に合わせたり、リードされる(身バレする)ことに怯えながら女性の振りや健常者の振りをするのではなく、気に入らない特性を持ち合わせたままの自分自身で生きることこそが、多様性のある生き物=人間としての尊厳ある生き方だ、と私は思っています。

それが元々のダイバーシティの理念、ですよねぇ。

◆ 思想と現実は「別モノ」

「自己決定権」と言うと、自由意志で何でも選択できる素晴らしい権利、と思われがちですが、実際には、何でも選択できる訳ではないんですよ。
当然ながら選択肢は、自身が認識できるものの範囲に限られてしまいます。
その人が置かれた環境と認知能力よって、選択肢の範囲は決まってしまうんですよ。
なので、洗脳や霊感商法のようなことも、割と簡単にできてしまうんですよね。
他の選択肢の無い環境に、その人を囲い込んでしまえばいいのですから。

つまり、自由意志や自己決定を両手放しで信頼するのは、結構危ないことなんですよ。
特に「何々が絶対欲しい!」というような欲望に駆られている時は、冷静な判断ができなくなっていたりします。
現実に欲望のバイアスがかかって、視野狭窄を起こしたり、実際とは違うモノが見えたりしてしまうんですよねぇ…。

それに、自由意志で欲望を達成する・自己実現するにしても、他者の尊厳を毀損するやり方はダメなんですよ。
欲望が満たされないのは、差別ではないんですよ。
被差別の状態って、安全が確保されない・生命の維持が困難になるような、欲望を持つどころではない状況のことなんですよねぇ。
欲望が満たされないから自殺する、というレベルではなく、生活が成立しないから生きられない、というレベルなんですよ。

でね。
「思想」って、その人の理想や欲望を実現するための指針なのだけれど、当然そこにはバイアスがかかっているのよ。
どんなに素晴らしいモノであっても、そうなんですよ。
「現実」そのものではない。

つまり、その思想に共鳴できない人から見ると、とんでもない空想だったりするんですよ。
けれど、共鳴できる人にとっては、これ以上ない素晴らしいモノに見える。
…なので、コレ、政治的意向で煽るのにモッテコイな道具になるんですナ…
ちょっとアブない一面もある。

その危なさを解った上で楽しむならば、それでいいと思うんですよ。
だけれども、実際にこの問題に巻き込まれている人のほとんどは、そうではない、と感じます。

全ての差別に反対する、という言葉は、誰にとっても良い事のように見えますが、
「では、その差別とは?」
という問いに対して、これを唱える人々は
「問う事自体が差別だ」
という答えしか返しません。
コレ、おかしいですよね。

つまり、この思想って、整合性が取れなくても構わない宗教のようなモノ、なんですよ。

宗教は、自分に合ったものを信じて構わない、それこそ内心の自由です。
だからこそ、それは科学でも医療でも法律でもない、他者を従わせることはできないモノなんですよね。
「嫌だ」と言っている人を、「嫌がるのは差別だ!」と糾弾する権利などないんですよ。
強引な布教ももってのほか。

そして、思想に心酔している人たちを煽って利用するのは、とても卑怯なやり方だ、と思います。

歴史的に見ても、被差別の問題がこじれるのは、政治的に利用されてしまう・させてしまうからだ、と思うのですが、どうなのでしょうか…。

◆ 本人が本人として生きられるように

私が願うことは、健常だろうが障害だろうがトランスだろうが、本人が本人として生きられる世界であって欲しい、ということです。

女に(男に)化けて身バレに怯えて生きるトランス、とか、健常者に化けて過緊張のあまり潰れる障害者、とか、そういう「マジョリティに無理して化けるマイノリティ」の辛さは、もうウンザリなんですよ。

そして、マイノリティが生きる上でどうしても必要になる【合理的配慮】。
これは、マジョリティの側に無理がかからない範囲でなければ成立しないんですよ。
社会はどうしても、最頻値に合わせて出来ています。
もしこれを、外れ値に合わせてしまったら、大多数の人が運用できなくなってしまう。
マジョリティが生きられないような世界になったら、マイノリティなどそれこそ消されてしまいます。

で、マジョリティの側にも、自身の限界を知った上で生きて欲しい、と思うんですよ。
マジョリティが生き辛くギスギスしていると、マイノリティはもれなくいじめられるんですナ。
マジョリティが不幸だと、マイノリティは不幸100倍なんですよ。

どうか、この点を忘れないでください。

書かせていただきありがとうございます。





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