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障害の受容って、「人間のB級品として生きる覚悟」なんて意味とは、違うのよ

(2022年3月に書いたものを手直しし、再掲します。)

「あの人は障害の受容ができていない」ということばを時々聞きますが、このことばの意味を

「人間のB級品(ジャンク品)として生きる覚悟ができていない」

という意味で使う人がいます。
…それ、とても差別的な発想だと思うんですよね。

「できない奴はできないままでいい。従順であることだけを教えておけばいい」

こう言い放ったかつての臨教審のお偉いさんは、よほど劣等感が強かったのだろう、と思ってしまいます。
差別感情って、劣等感の裏返しなんですよねぇ。
このことばに引っ掛かりを感じる私も、劣等感が強いです。
役立たず、穀潰し、愚図、生かしちゃおけねぇ、おまえなんざライオンのエサだ、等々、周囲と比較され、さんざん罵られてきましたので。
今でも、周囲と比較されたり競争させられたりする場には、とても恐怖を感じます。
その上に従順を強要されたりしたら、
「私は家畜ではない!」
という、強烈な怒りと憎しみが沸いてしまいます。

私に障害があることがわかったのは、大人になってからです。
障害が判明したことで、どうして子供の頃から周囲の子たちについて行けなかったのか、とても納得できたんですよね。
個性では収まらないレベルで、変わってるし、テンポが遅く何かと弱々しいし、集団も苦手なのですが、それでも自分の事を「ジャンク品」とは思っていません。

たぶん、臨教審の先生も、ご自身をジャンク品とは思っていなかったでしょう。

これって、何をもって人を「ジャンク品」と選別するのか? という価値基準の相違なんですよね。

上記の臨教審の先生は、
「企業の中枢や、上級公務員として国家運営に関わる者には高度な教育が必要だけれども、そうでない者は、ただただ従順な労働力であればいい。」
という価値観で、労働力として使いづらい(例えば、組合活動で企業に逆らう人、とか)を、極力作らないようにしたかったんですよね。

自身の感情を理解したり、相手と交渉したりするには、どうしても教養が必要になります。
教養なしに感情も含めた表現をすると、単純に暴力になってしまいますから。
教養って、それなりに質の良い教育と薫陶がなければ身に付かないんですよ。

この先生は、一般大衆に余計な教養をつけさせず、従順こそが美徳だと子供の頃から教え込めば、唯々諾々と命令に従うだけの労働力を増やすことができる、と考えたのだと思います。
しかし、一般大衆から教養を取り上げる・教養を培うことを否定する、ということは、民主主義の崩壊すら意味してしまうんですよねぇ。。。
2024年の都知事選の様相を見れば、実感として解ると思います。

この人にとっての「ジャンク品」とは、「効率の良い国家運営に適さない個体」ということだったのでしょう。
一般大衆を単なる労働力と捉えていて、「生きて、生活している人間」だとは全く思っていなかったのでしょうが、その考え方で教育を組み立てると、現代国家を成立させるのに適さない「ジャンク品」を「大量生産」してしまうことになるんですよねぇ。。。

人間って、労働力である以前に、自身の感覚・感情を持った生き物である「一人のヒト」、なんですよ。

労働って、自他双方が生きやすくなるための行為なので、「自分」が無かったら「労働」も無いんですよ。
一人のヒトとして全うな扱いを受けずに幸福なんてあり得ないし、不幸な労働力(≒奴隷)ばかりを大量生産して安定的な国家運営をするなんて、できる訳ないですよねぇ。

もしかしたら、優秀なリーダーさえいればその他大勢は人間以下でも大丈夫、それこそが効率性、なんて思っていたのかもしれませんが…。
国家運営うんぬん以前に、そもそもの人間観がオカシイ、と思います。

この基準で線引きをすると、障害のあるなし関係なく、ものすごく大量に「ジャンク品」が発生してしまいます。

私としては、生き物に上等も下等もない、と感じています。

「障害者」というのは何かと「健常者」よりも下等と見做されるのですが、上等とされる健常者の頑迷さに
「どうしてこんな簡単なことがわからないのだろう???」
と思うことがしばしばあります。

「どうしてこの人は、自身の感情や立ち位置を俯瞰できないのだろう???」と…。

コレって、たぶん、私の障害特性としての言語優位が働いていて、嫌味ったらしいのかな、とも思うのですが、いつも私を見下している優秀な人ならバカな私がわかることくらいわかって当然だろ? と思ってしまうのですよね。
だけれども、その簡単なことが理解できない健常者は、私なんかと違いバリバリ稼げるんですよ。
私には全くできないことを、テキパキこなすことができる。
つまりコレ、どっちが上か下か、なんてことは意味の無い比較なんですよ。

これ、あらゆる立場の人に当てはまると思います。

どんなに無能そうに見えたとしても、その人をバカにできる立場の人なんていないし、その逆もそう、なんですよね。
比較なんて、基準を動かしてしまえば、どこまでも相対的なモノなんですよねぇ。

そう考えると、障害の受容って、単純に
人間としての限界の理解
なんだと思うんですよ。

人間は神さまじゃないので、なんでもできる訳じゃないです。
これ、誰でもわかっているはずなのに、忘れてしまいやすいことなんですよね。
経済は永遠に成長する、とか、人類はどこまでも増殖する、とか、科学技術は自然を全てコントロールできる、とか…。
普通に考えたら無理であることがわかるのに、欲望を満たすという目的を見つけてしまうと、タガが外れちゃうのよね。
障害のあるなし関係なく、人間の脳みそが抱えた特徴なんだと思います。

障害者から見て、優秀な”はず”の健常者にも、当然限界があります。
限界があることは、異常ではなくて「普通のこと」なんですよね。
障害があると、大勢の人がなんてことなくやっていることが出来なかったりする。
極端に限界が狭い場所にあったりする。
確かに、みんなが簡単にできることができない、というのは、とても不便です。
なので不便ながらも工夫をして生活をするわけですが、その工夫をみっともないとか馬鹿馬鹿しいとか生意気だとか、否定したがる人って、結構多いんですよねぇ。

「できないクセにやろうなんて、思いあがるんじゃないよ」と。

これ、臨教審の先生のことばと同じです。

自分の限界を見たくないから、他人の限界を指摘して、他人に無能というレッテルを貼りたい。
自分に限界があるのは、他人が足を引っ張るからだ、と思い込みたい。

…悲し過ぎますよ…。

障害者に限ったことではなく、人間って、自身の限界が理解できていれば、可能性はいくらでも見出すことができるんじゃないか、と思うんですよね。
限界の内側での工夫の仕方は、数限りなくある、と感じます。

障害の受容=限界の受容って、逆説的に上手く使えば、無限の可能性を見つけられるんじゃないか、と思いますよ。


◆上田 敏 「ここで、以上の各種の議論を参考にしつつ筆者自身の定義をのべておこう。すなわち、障害の受容とはあきらめでも居直りでもなく、障害に対する価値観(感)の転換であり、障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずることである、というのが筆者の定義である。」(上田[1980:209])

出版社 ‏ : ‎ 青木書店 (1983/6/1)
発売日 ‏ : ‎ 1983/6/1
単行本 ‏ : ‎ 316ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4250830187
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4250830181


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