ハンガンカムイ

樺太引揚者である亡き祖母が遺した手記を手がかりに、北海道、東京、サハリン(旧樺太)で引…

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樺太引揚者である亡き祖母が遺した手記を手がかりに、北海道、東京、サハリン(旧樺太)で引揚や樺太での暮らしを知る方々にお話を訊いてまわる。 祖母の手記をもとに聴き取り・調査内容を加え、祖父母が体験した樺太引揚、シベリア抑留、戦後千歳での暮らしをできる限り忠実に書き遺していきたい。

最近の記事

第10話 エピローグ―手記を遺すにあたり

 8月になると、毎年のことながらいろいろなことが思い出され、複雑な心境になる。もちろん全てが忌まわしい記憶というわけではない。様々な悲劇や苦労のなかに喜びもあった。しかし、愛着ある場所が失われたこと、家族と引き離されたこと、夫の受けた仕打ちなど、戦争がなければこんな思いをせずに済んだのにという悲しさ、悔しさを消し去ることはできない。今は樺太へ観光で行けるようだが、そこはもうかつての「樺太」ではなく、ロシアなのだ。変わり果てたその地に、行ってみたいという気にはどうもならない。

    • 第9話 三船遭難事件

       そして時は流れ、4人の息子は皆成人し、長男のところに孫もできた。1982年、我が夫はこの世を去った。胃がんだった。シベリア抑留から帰還してこの32年間、夫はさまざまな病になり、通院が欠かせない半生だった。気丈に振る舞い、仕事にも精を出していたが、やはりあの4年間は大きな禍根を残したのだ。2年前より、シベリア抑留者に対する慰労品として銀杯と書状が贈られるようになったので、仏前に供えた。私は心から、お疲れさま、ゆっくり休んでくださいと、先に逝ってしまった夫へ向けてつぶやいた。

      • 第8話 根無し草の終着点―活況増す札幌へ

         1957年、千歳基地からアメリカ空軍の戦闘部隊が撤退し、1959年に飛行場は正式に日本の航空自衛隊へ移管された。結果として、米軍相手の商売は軒並み廃業せざるを得ない状況に追い込まれた。私たちの商店は何もアメリカの軍人だけがターゲットだったわけではなく、日本人向けにも米や調味料などを販売していたものの、ここ数年の米軍基地の大幅な縮小にはやはり打撃を受けた。子どもたちの教育環境が良くなったのは好ましいことといえども、これでは生活が立ち行かない。もともと、千歳の街の環境の子どもへ

        • 第7話 沈みゆく陽、昇る陽―米軍の撤退と家族の変容

           こうして私たちの暮らし向きはかなり良くなっていった。そして、私たち夫婦はこの千歳の地で新しい命を授かった。次男・浩の誕生だ。樺太で長男が生まれて1年経った頃、日本が戦争に敗け、私たち家族がばらばらになったこと、命がけの密航、長い年月を経ての再会とここまでの道のりが走馬灯のように駆け巡り、私は生まれたばかりの浩の小さな小さな頬に自分の頬を寄せた。もう二度と、大事な家族と離れたくない。神様、どうかこの幸せが壊れませんように。そう強く願った。  その頃の千歳といえば、治安の悪さ

        第10話 エピローグ―手記を遺すにあたり

          第6話 米軍占領下の千歳へ

           私たち家族が分断され、そして再会を果たしたこの間、敗戦国日本は連合国軍―実質アメリカの占領下に置かれていた。日本中に、アメリカ軍が進駐していた。  現在は空港の街である北海道の千歳にも、1946年4月に7,000人のアメリカ進駐軍がやって来た。千歳には戦時中、海軍の基地があった。連合国軍は日本の「非軍事化」「民主化」を政策として掲げており、堂々とそれらの設備を接収し、拠点とした。さらに1949年には、仙台に進駐していた部隊が交代でやって来て、翌年朝鮮戦争が始まると彼らは朝鮮

          第6話 米軍占領下の千歳へ

          第5話 警察官の夫はなぜシベリアへ抑留されたか

           その後、樺太で何が起きていたのかを聞いた。1945年8月、私たちを乗せた船が出た数日後に樺太を発った引揚船が、正体不明の潜水艦によって撃沈され、多くの日本人が亡くなったとのこと。それを聞いて戦慄が走った。自分たちが乗っていた船が被害に遭っていたのかもしれないのだ。自分たちの幸運に感謝すると同時に、命を落とした人々を思い胸が締め付けられた。また、8月末にはソ連軍と日本軍は停戦協定を結び、日本軍は武装解除をしたのだが、秋にかけて元軍人はシベリアへ戦争捕虜として連行されたのだとい

          第5話 警察官の夫はなぜシベリアへ抑留されたか

          第4話 命がけの樺太への逆密航

           樺太からは何の音沙汰もないまま年が明けた。私たちが青森に引き揚げて半年が過ぎた1946年3月頃、樺太から一通の手紙が届いた。密航船で樺太から引き揚げる人に養父母が頼んだもので、しわくちゃで字が滲んでいた。その様子が、その航路の険しさを物語っていた。その手紙を一読した瞬間、どんなことがあっても息子と二人稚内まで出て、密航船で樺太へ渡ろうと、私は決意した。  手紙の内容は、養父母はソ連人相手に旅館を続けている、夫は昨年10月頃ソ連に抑留されたというものだった。もし来るなら、稚内

          第4話 命がけの樺太への逆密航

          第3話 終戦―それが私たちの戦争のはじまり

           かたやこの頃日本は大変な窮地に追い込まれていた。成人男性のみならず、学生である男子も戦線に立つようになった。特攻隊と呼ばれる部隊が戦略も何もなく命を捨てるように体当たりさせられた。そしてこれらをすべて英雄視するような放送が、ラジオから流れていたのである。物々しい雰囲気は樺太にも伝わっていたが、私たちの暮らしそのものはそれまでと変わらなかった。しかし、1945年8月6日に広島、9日に長崎に原爆が落とされたとラジオで聞いた時には、これはいよいよ大変なことになったと危機感を覚えた

          第3話 終戦―それが私たちの戦争のはじまり

          第2話 海を渡った血縁のない家族

           本斗尋常高等小学校卒業後、私は養家を離れ、樺太の中心地である豊原にある樺太庁立豊原医院へ入所し、看護婦の資格を取得した。私は特に看護婦になりたかったわけではない。当時は女性が家業以外に就く職業として代表的なものが看護婦や産婆だったのである。「これからは女も働く時代が来る」そう言う母の勧めで看護婦の学校へ通ったが、資格を取った者すべてがその道へ進むわけではなく、私も南名好へ戻り、家業である希望館の帳場などの手伝いをした。ただ看護学校時代の友人関係には大変恵まれ、その後も長く交

          第2話 海を渡った血縁のない家族

          第1話 私が樺太で養女になった理由

           大正12年(1923年)9月24日、私、藤本リョウは岩手県岩手町にある柏樹山明円寺という曹洞宗のお寺に生まれた。日本が関東大震災という悲劇に見舞われた直後だ。日本が貧困にあえぐ中、日本は北海道や1905年日露戦争で日本領となった南樺太ほか満州、台湾などの植民地、あるいはハワイ、南米等へ「土地を与える」として、移民政策を推進した。移民情報は口コミで全国へ広がっていき、東北地方からは多くの人々が農業移民として北海道や樺太へ移り住んでいった。  人々の移動とともに、「お寺さん」も

          第1話 私が樺太で養女になった理由