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第5話 警察官の夫はなぜシベリアへ抑留されたか

 その後、樺太で何が起きていたのかを聞いた。1945年8月、私たちを乗せた船が出た数日後に樺太を発った引揚船が、正体不明の潜水艦によって撃沈され、多くの日本人が亡くなったとのこと。それを聞いて戦慄が走った。自分たちが乗っていた船が被害に遭っていたのかもしれないのだ。自分たちの幸運に感謝すると同時に、命を落とした人々を思い胸が締め付けられた。また、8月末にはソ連軍と日本軍は停戦協定を結び、日本軍は武装解除をしたのだが、秋にかけて元軍人はシベリアへ戦争捕虜として連行されたのだという。続いて、樺太全土の警察官もシベリア送りとなり、その中に夫も含まれていたと。手紙のやり取りは何とかできるのだが、それによると彼らは極寒の彼の地で鉄道の建設などのため強制労働をさせられているのだと…。何ともやるせない思いがした。樺太住民のために最後まで引揚業務に奔走した警察官が、我が夫が、なぜシベリア送りにならなければならなかったのか。戦争捕虜といって、軍人ではないのに…いや、軍人の方々とて好き好んで戦線に立っていたわけではない。皆、日本という国に強制的に徴用されて戦線という死の淵に立たされ、戦争が終わったと思ったら今度はソ連という国に強制的に徴用されて飢餓・重労働・酷寒という死の淵に立たされているのだ。何とか早く無事に帰ってきて欲しい―私は祈るよりほかなかった。

 1946年11月米ソ引揚協定の締結により、樺太に残っていた日本人の公式の引き揚げが12月から始まり、町ごとに順々に引き揚げ命令が下りた。1948年6月、私たちの暮らす南名好にもいよいよ引揚命令が下り、養父母ともども函館を経由して再び深浦へ落ち着いた。翌年1949年12月2日、ついに夫はシベリア・ナホトカ港から、京都の舞鶴港へ引き揚げ、深浦の私たちと合流した。4年にわたる抑留生活で、夫の頬はすっかりこけ、生気を失っていた。「生きて帰ってこられただけでもいい」そう夫は言っていたが、何とも居たたまれない。
 1945年8月20日、夫ら本斗署の引揚疎開業務に当たっていた巡査4人は、甲板上マスト周辺までぎっしりと人を乗せた引揚船を見送り、約7,000人の本斗町在住老幼婦女子ほぼ全員の疎開輸送を終えた。北方真岡方面に上がる戦火で赤くなった空を望み不安を抱えながらの出港となった。夫らは、本斗南方の内幌以南の疎開を内幌港で行おうと内幌へ移動したが、疎開輸送船の入港もかなわず、本庁との連絡機能も失われてしまった。内幌に駐留したソ連兵に交渉したり、南名好にも赴いたが、成果は上がらなかった。
 疎開業務を終える前、本斗署の警察官たちは、真岡にソ連軍が進駐したことを受け、この本斗への進駐も有り得るとして、その対応について協議していたのだそうだ。夫らが引揚疎開業務を終えた8月20日、本斗沖にソ連の艦船が停泊したのを確認すると、署長らは打ち合わせ通り白旗を立てて戦勝を祝する品を積んだ船を出した。ソ連側は大変喜んでそれを受領した。その後も街をあげて歓迎パーティーを開くなど、警察が中心となって大いに日ソ交歓に尽くしたのだそうだ。
 10月になり、夫ら内幌にいた巡査たちもやむなく本斗署へ戻った。その頃、ソ連軍の部隊長が「君たちは旭川に召集され、自由の身となる。署員全員を集めてくれ、私から直接話したい」と本斗警察署長に言い、署員は嬉々として集まった。そこへ、銃を持ったソ連兵が警察署員を包囲し「日本の船がないから、ソ連船で北海道へ連れて行ってやる」と、警察署前に横付けにしたトラックに乗るよう命令した。樺太に残る家族に別れも告げられないままトラックは焼け野原と化した真岡に着き、警察署員はそのままソ連船に乗せられた。何が何だか分からないが、これで妻や子と再会できるのか…でも、何だか様子がおかしい。真っ暗な船内に閉じ込められ、甲板に上がることは許されなかった。外の風景は見えないが、どうも、航路は北海道に向けて南下している感じがしないのだ。夫の胸には期待以上に不安の暗雲が立ち込めていた。「ゴゴゴゴ…」どうやら船はどこかに着岸したらしい。数時間ぶりに外へ出てみると、そこには荒涼とした林が広がっていた。ここは、日本ではない。そのことは北海道に行ったことのない夫でもすぐに分かったらしい。そこはシベリアであった。船を降りると警察署員は収容所に連れていかれ、そこで厳しい取り調べの日々が続いた。ソ連軍は日本の警察を特に憎んでいたようである。特高警察を設けて、共産主義者をはじめとした当時の天皇制政府に対する反体制派を取り締まっていたことが原因らしい。苛烈な取り調べは5,6日も昼も夜もなく、パンの一切れも与えられず続いた。これまでの経歴や警察署での職務内容、警察署員名簿を持ち出して他の署員のこと等について仔細に訊かれた。とにかく彼らは、夫らを反ソ分子と決めつけ、捕虜にしたかったのだろう。その後彼らはそれぞれの収容所(ラーゲリ)に送られ、強制労働させられることとなった。
 抑留された後のことについて夫は進んでは口を開かなかった。ただ、断片的に聞いたところによると、夫は樺太にほど近いロシア極東のハバロフスク地方の収容所を転々とし、森林伐採などの労働にあたっていたそうだ。冬には-20℃にもなる極寒で凍傷になりながらも休みなく働かされたことや、一斤の黒パンを何人もの捕虜がミリ単位で分けたものが一日の食事だったこと、蛆虫のわく不衛生な環境で生活していたので感染症で亡くなっていく捕虜仲間を雪に埋めた話など、彼の口から語られる体験は聞いているだけでも辛いものだった。あまりにも壮絶な体験だったため、語りたくなかったのだろう。あるいは、生きるか死ぬかの状況で、意識が朦朧とし記憶が定かではないのだろう…。私は、ただただゆっくり休んでほしいという思いでいっぱいだった。


松田松作の引揚証明書


厚生労働省へ開示申請して判明した松田松作の抑留地

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