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第9話 三船遭難事件

 そして時は流れ、4人の息子は皆成人し、長男のところに孫もできた。1982年、我が夫はこの世を去った。胃がんだった。シベリア抑留から帰還してこの32年間、夫はさまざまな病になり、通院が欠かせない半生だった。気丈に振る舞い、仕事にも精を出していたが、やはりあの4年間は大きな禍根を残したのだ。2年前より、シベリア抑留者に対する慰労品として銀杯と書状が贈られるようになったので、仏前に供えた。私は心から、お疲れさま、ゆっくり休んでくださいと、先に逝ってしまった夫へ向けてつぶやいた。

 だいぶ後になってから分かった話が2つある。1つは、養父母には私の前にもう1人、養女がいたということだ。1970年、養母が他界した際、仏壇に供える過去帳に「昭和7年1月 松田八重子 享年9歳」との記載を見つけて初めて知ったのだ。昭和7年と言えば、私が松田家の養女になった直前のことである。自分が松田家の唯一の娘だと思い今日まで生きてきた私にはこの事実は衝撃的なものであった。が、私も幼い息子を亡くした経験があるからか、当時の養父母の心情が手に取るように理解できるような気がした。亡き我が子と同じような年恰好の子どもを見れば、否が応でも面影を重ねてしまう。当時養母が私にかけた「リョウちゃんがうちの子になってくれればいいのに」という言葉は、つい口をついて出てしまったものなのだろう。当時の私が八重子さんの存在を知っていたら、自分はその子の代わりに過ぎないと思い、反発を覚えていたに違いない。自分も愛しい我が子を亡くす経験をし、年齢を重ねた今だからこそ、この事実を受け入れることができたように思う。

 2つ目は、1945年、私たちを乗せた船が出た数日後に撃沈された船に、私の実の姉が乗船していたということだ。その船は小笠原丸という船で、逓信省の職員、家族の引き揚げのための船であったそうだが、一般の住民も押し掛け1,500人を超える乗船者を船いっぱいに乗せて大泊港を出港した。ひとまず稚内へ寄港し一般の乗船者を下ろした上で小樽を目指すこととなっていた。小笠原丸が稚内の桟橋に接岸したとき、桟橋には列車を待つ引揚者があふれていた。この日までにざっと7万人の引揚者が稚内に送りこまれていたので、稚内は飽和状態になっていたのである。そこへさらに小笠原丸の乗船者たちがぞろぞろと下船していく。その中には、後に横綱となった当時5歳の大鵬もいたという。ただ、全ての一般住民が稚内ですんなりと降りたわけではなかった。小笠原丸が小樽へ向かうことを知っている者はいくら呼びかけても降りようとしなかった。結局、稚内で降りたのは870人だけであった。無理もなかった。いつ乗れるか分からない列車を稚内で待っているよりも、このまま乗っていれば明日には小樽に着くのである。船長はやむなく残りの乗船者をそのまま載せて小樽へ向かった。
 午前4時頃、突然「魚雷音!」と叫ぶ警備兵の声が響いた。激しい衝撃音とともに、乗船者は床や壁にたたきつけられた。船は浸水し、船首を空高く突き出しほぼ垂直に近い形で、ものすごいスピードで沈んだ。乗船者は海に放り出され、波間に漂っていた者に容赦なく機銃掃射があった。地元・増毛の漁師によって生き残っていた者は救助され、遺体も引き揚げられた。死者は641名、その中に私の姉も含まれていた。そして生き残った者はわずか61名だったということだ。こうして撃沈された引揚船は3船あり、第二新興丸は留萌沖、泰東丸は小平沖に沈んだ。亡くなった人は1,708人にものぼるという。
 そして3船を攻撃した潜水艦は長らくのあいだ国籍不明の船とされていたが、1992年になってソ連軍のものだということが分かった。その背景には、アメリカ、イギリス、ソ連の間で密かに結ばれた「ヤルタ協定」があったらしい。ソ連は南樺太、千島列島の領有を米・英に要求していた。米・英はこれの要求に応じる形で、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。日本の降伏にはソ連の協力が欠かせないと考えていたためである。1945年2月のことであった。
 その後、5月にドイツが降伏し、8月6日に広島に原爆が落とされた。終戦の気配が迫るなか、ソ連は参戦の機会を逃すことを恐れ、8月9日長崎に原爆が落とされるのと同時に日ソ中立条約を破棄し、日本へ宣戦布告 11日に樺太へ侵攻した。
 この協定に基づいてソ連のスターリン書記長は米・英に承認された南樺太、千島列島にとどまらず、北海道北部留萌と釧路を結ぶ線以北までをも領有する予定だったというのだから驚きだ。この件をアメリカに要求し拒否されるも、北海道・留萌港上陸計画を遂行した。この計画のため、3船を攻撃した潜水艦L-12,L-19は留萌港及びそこへの接近路を探索、航行中の敵の船舶は全て撃滅するとの任務を与えられていた。そこにちょうど遭遇してしまったのが引揚船3船というわけだ。
 この一連の事件は三船遭難事件として悼まれ、泰東丸が沈んだ小平沖に慰霊碑が建立されている。何とも奇遇なことに、三男・敏雄に嫁いだ香津子さんはこの小平のある留萌管内の出身であった。私は長い時を経て、この小平の慰霊碑の前で姉を追悼することができた。時は平成という新しい時代を迎え、戦後45年が過ぎようとしていた頃である。


北海道留萌郡小平町の三船遭難慰霊碑

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