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第4話 命がけの樺太への逆密航

 樺太からは何の音沙汰もないまま年が明けた。私たちが青森に引き揚げて半年が過ぎた1946年3月頃、樺太から一通の手紙が届いた。密航船で樺太から引き揚げる人に養父母が頼んだもので、しわくちゃで字が滲んでいた。その様子が、その航路の険しさを物語っていた。その手紙を一読した瞬間、どんなことがあっても息子と二人稚内まで出て、密航船で樺太へ渡ろうと、私は決意した。
 手紙の内容は、養父母はソ連人相手に旅館を続けている、夫は昨年10月頃ソ連に抑留されたというものだった。もし来るなら、稚内の自分たちの知人を訪ねて来ても良いとのこと―。驚きとともに、今すぐにでも行きたくて、居ても立っても居られない気持ちになった。深浦でお世話になっている方々には、せっかく引き揚げてきたのに道中何かあったらと引き留められた。岩手の東岩和尚も、私の身を案じる気持ちと、行って息子たちの様子を見てきて欲しい気持ちとが入り混じっているのが伝わったが、やはり私を引き留めた。ただ、手紙を読んだ瞬間の私の決意は変わることはなく、皆の反対を押し切って稚内へと発った。

筆者が乗船した稚内-サハリン(旧樺太)間を結ぶフェリー「アインス宗谷」から望む稚内港

 稚内へ来て2,3日した頃に樺太へ出る船があった。乗る人皆でお金を出し合い、樺太に着いたら船はソ連人に取られてしまうのだそうだ。同乗者は樺太に家族のある奥さんや子ども等30人ほどだった。本斗か真岡に着く予定らしかったが、出発時からのしけのため、だいぶ南に下った宋仁に流れ着いた。ソ連人に助けを求め、ついに樺太に上陸した。
 私たちは取り調べのためトラックに乗せられて真岡へ向かったが、春先の樺太は雪解けの時期で、道路事情はすこぶる悪い。一日では真岡にたどり着けず、途中我が故郷とも言える南名好に立ち寄った。私たちは皆ずぶぬれだったので、ひとまず着替えをと私の家に皆を案内したところ、ザタラフキンというソ連人の村長が滞在していた。養父母とはおよそ8か月ぶりの再会であるが、なんだかもう10年以上も会っていないような思いがした。それほどに長男と二人、深浦で皆の引き揚げを待つ日々は長く感じたのである。長旅で腹を空かせているだろうと養母は私に「何が食べたい」と尋ねた。「白いご飯とみそ汁が食べたい」と言ったところ、養父と二人でほかほかのご飯が盛られた沢山の茶碗と、味噌汁を鍋ごと持ってきてくれた。「我が子だけに食べさせるわけには」とその場にいた密航者全員の分を用意してくれたのだ。その時の様子は今でも鮮明に覚えている。養父母の人間的な大きさ、優しさを改めて実感した出来事だった。翌日私たちは真岡へ向かい、そこで簡単な取り調べを受け、それぞれの家へ帰された。
 振り返ると、我ながらよく樺太へ行ったものだと今でも思い出すだけで身震いがする。海は大しけで、途中何度も死ぬかと思った。船はよくわからないが、サンパという木造の漁船のようなもので、車のエンジンを着けたとても簡単な造りのものだった。屋根がないので凶器のごとき波しぶきがざばん、ざばんと容赦なく打ち付けてくる。時間は定かではないが、10時間以上かかったのではないだろうか。長男も1944年5月誕生、翌年8月終戦とともに青森へ引き揚げ、翌々年4月再渡樺と生まれてから目まぐるしい日々を送った。船中よくおしっこもせずに我慢したものだ。記憶にはないだろう。


祖母松田リョウの手記表紙

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