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第8話 根無し草の終着点―活況増す札幌へ

 1957年、千歳基地からアメリカ空軍の戦闘部隊が撤退し、1959年に飛行場は正式に日本の航空自衛隊へ移管された。結果として、米軍相手の商売は軒並み廃業せざるを得ない状況に追い込まれた。私たちの商店は何もアメリカの軍人だけがターゲットだったわけではなく、日本人向けにも米や調味料などを販売していたものの、ここ数年の米軍基地の大幅な縮小にはやはり打撃を受けた。子どもたちの教育環境が良くなったのは好ましいことといえども、これでは生活が立ち行かない。もともと、千歳の街の環境の子どもへの影響を憂い、次なる地へ移ることを考えてはいたが、いよいよ行動に移さなければならない時が来たと感じた。
 この頃の日本は高度経済成長の真っただ中にあり、都市部に人口が集中し始めていた。北海道でも札幌に人が流入し、札幌の街は活気に満ちていた。人がいるところへ、景気の良いところへとゆくのが商売人である。1960年、私たちは札幌を新天地とすることを決めた。
 ここでは米軍の特需はないし、既に大型スーパーやデパートまであるので、元の商店のような商売ではやっていけない。この頃、5人に1人が運転免許を持つようになり、贅沢品だった自動車も庶民の手が届くものになりつつあった。実際、トヨタのカローラやコロナなど、コンパクトカーが札幌の街を行き交っていた。ただ、修理する工場がないのか、頑張って買ったはいいものの直すお金がないのか、ぶつけて凹んだまま走っている車や、エンストして立往生している車もよく見かけた。ここに目を付けたのが、我が夫である。「自動車の修理を商売にしたら、儲かるんじゃないか」元々家のラジオや電話なども自分で直していたので、機械いじりは得意な方だとは思っていたが、触ったこともない自動車の修理を商売にしようとは、なんともチャレンジ精神旺盛というか、無謀というか…。そうと決めたら行動の早い夫は、早速札幌駅の北、北24条に工場を借り、そこで細々と自動車修理の仕事を始めた。それだけではどうなるかわからないので、私たちは千歳で貯めたお金で札幌一の繁華街、「すすきの」のほど近いところに一軒家を買い、そこを自宅兼下宿とした。下宿営業は養父母と私の元々の家業であるので、これなら何とかなると踏んでいた。この好立地もあって、すすきので働く人々や学生など、多様な賃借人が次々と集まって、あっという間に満室になった。夫も自分の腕に自信がついた頃、もとの工場の少し北の麻生の土地を買い、自動車修理工場を開業した。これが当たって、夫の修理工場は繁盛した。当時普及していたとはいえまだまだ高価なものであった自動車も、こうした商売をやっている縁で我が家へやって来た。なかなかに贅沢でモダンな暮らしぶりであったと思う。我が家には風呂こそなかったが、玄関を出て100mほどのところに屯田湯という銭湯があったので、北海道の寒い冬でも身体が冷える前に家に帰って来られた。樺太時代に懇意にさせてもらっていた人たちも大勢札幌に暮らしており、ここはそうした人々の集い場となった。下宿に集い場、あの頃の南名好の希望館が戻ってきたようだった。ああ、ここが、私たちの終着点だ。生来根無し草の私であったが、そう直感した。


麻生の自動車修理工場


我が家の自家用車

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