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成河ルキーニ @ 2019年版の考察

東宝エリザベート自体は長年にわたり上演されてきましたが、成河さんがルキーニとして出演されたのは2016年版と2019年版の2回。その中でも2016年版はDVDやブルーレイとして映像販売されていますので当時ご覧になっていなくても後日に映像で御覧になった方々も多いかと思います。ただ、私個人としては2016年版のルキーニと2019年版のルキーニは演劇として別物かな~と思いますので、映像で残っていない2019年版のルキーニ像について残しておきたいと思います。(個人の感想です)
なお、具体的なことは書いておりません。役柄に対する考察といったところでしょうか。


もう、あれから2年経っちゃってますので記憶を辿り辿りですが。
物凄く大雑把な色分けをするなら、2016年時代は「エリザベート」のストーリーテラーとして、ルキーニの役割を全うすることが第一目標。何せ東宝ミュージカルの中でも一二(イチニ)を争うオバケ作品ですから場を動かすだけで大変でしたよね、多分。その経験を踏まえた上での2019年版。

一言で言うと、劇作家のクンツェさんが史実の「ルイジ・ルキーニ」という存在と当時の社会や民衆の憎悪という歴史の黒い一面を結び付けて「エリザベート」という作品の中に落とし込んだのが劇中のルキーニという存在で、その「当時の社会におけるハプスブルグ家に対する民衆の憎悪」という実像の無いものを自分の演技を通して観客に解りやすく具現化したのが2019年版における成河さんの「ルイジ・ルキーニ」だったんじゃないかなと感じました。

その第一印象を言葉にするなら、2019年版の成河さんのルキーニは「冷酷な知能犯」でしょうか。
精神病院や霊廟の後、最もシシィが精神的なダメージを負うであろうタイミングとやり方を見計らって事を起こしている。その計画に至るまでの観察眼や思考力・計画力のどれをとっても非常に頭のいい愉快犯(ただし性格は悪いかなw)なんですよね。
とかく「狂ってる」と評されることの多かった成河ルキーニですが、少なくとも2019年版に限って言えば私には「狂って」観えたことは一度もありませんでしたし、例えば霊廟の場面の後でシシィを激写するルキーニがその成功に狂喜して見えるのは、狂っているからではなく彼にとってシシィが嫌がることが大好物だから。まさに「してやったり」の喜びなのかと。

じゃあ、劇中のルキーニは何故、あれほど執拗に、何の縁もないシシィに対して、そんな嫌がらせをするのか?

それは(あくまでも劇中での話ですが)当時のハプスブルグ家の中でシシィはその象徴的な存在であったことと、中世の王政末期の時代、社会の中で爆発寸前であった特権階級に対する民衆の怒りという構図を、特権階級=シシィ、搾取される側である民衆の怒りと反逆=ルキーニ、に重ね併せて、当時の「王政末期という時代」を描こうとクンツェさんがなさったからじゃないか、と私は感じました。
でも、ルキーニは思想のある革命家ではなく、その行動の元となるのはあくまでも憎悪の発散。だからミルクの場面でも革命家達のように民衆と共にあろうとはしないし、民衆を騙して私利を得る側に回る。憎悪という概念の具現化だから何処にでも出没出来るし、場によっては肉体という実体が存在していたりいなかったりするのかも?しれませんね。

民衆の中に居るかのようで、常に何処からも離れている傍観者。
その「傍観者」という距離感、ハプスブルグ家の人々からも、民衆からも、革命家からも、どこからも離れ交わらない、交われない、異質な存在。何故なら彼は人間ではなく人間の形を借りた憎悪という感情だから。そこが演劇として明確に現わされていたのが2019年版の成河さんのルキーニだったように思います。


「エリザベート」は宝塚が最初であった経緯もあり、その後、東宝で上演されることになってからも「トート閣下とシシィの愛」という基本路線が続いてきたように思いますが、その上演の歴史の中で一度、「エリザベート」という史実を基にした作品が持つ社会的な背景をクローズアップした切り口でも作品を立ち上げることが出来るんじゃないか?という試みが2019年だったのかな?と感じましたし、その切り口が私には新鮮で面白かったです。そして同時に、その「社会」という切り口は2019年で綺麗に立ち上がったように感じられたので、十分にその姿は見えたし、見終えたかな、とも思っています。