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「あざとさ」と「真実」の狭間で……

「意外と腹黒いんだねぇ」
若い時からよく言われた言葉だ。
眼鏡をかけていた時なんて「腹黒メガネ」なんてあだ名をつけられていたこともある。
今ならパワハラなんじゃないか? なんて思ったりするが、どれもこれも私にとっては勲章みたいなもので悪い気はしていない。
「あざとくて何が悪いんですか?」
最近、バラエティー番組なんかでよく聞くフレーズだが、個人的には「まったく悪くないでしょ! むしろ素敵です!」なんてもろ手を挙げて称賛してしまう。だって、本音なんて早々見えるものでも見せるものでもないと思っているし、世の中渡っていくのに純粋無垢の無防備な状態ではすぐに潰されちゃうって思うから。「あざとさ」って一種の知恵みたいなもので、物事をそれなりに深く考え、対峙する相手のことを鋭く観察していないとうまくいかないスキルだと私は思う。なんなら、たとえその言動が「あざとさ」からのものであったとしても、それでこちらの気持ちやテンションがあがり、幸せな気分になるのであれば、どうぞどうぞ思いっきりあざとっちゃってください! って思ってしまう。だって、それって私が喜ぶツボみたいなものを理解していないとできないことだし、それだけ観察し、わかってくれたということなんじゃないかって思っちゃうから、「なんか自分みたいな人間にそれだけの時間を費やしてくれてあざます!」って感謝すら覚えてしまう。
もちろん、「あざとさ」や「計算高さ」を露骨に見破られれば、相手は不快感を覚え、そもそもの狙いや目的を達成することが難しくなる。つまり、あざとさがこけたとき、信頼を失うという危険性が内包されているわけだ。
『うまく決まれば信頼と愛情を得ることができ、こけたり外れたりすれば信頼と信用を失う』
なんて恐ろしい劇薬! まるで美しい薔薇のようではないか!
あ、だから『あざと可愛い』テレビの中の人たちはみんな美人ぞろいなのか?!
綺麗な薔薇には棘がある……
お後がよろしいようで。

まぁ、そういうわけで、腹黒い私としては「あざとさ」に対して一定のリスペクトをもっているわけだが、最近、耳を疑うような「NEWあざとさ」に遭遇したのである。
ある夜のこと。春から中学生になる息子が不意に聞いてきた。
「中学になったらナイシンってあるんでしょ?」
「そうだよ。内申ね。学校の成績と授業態度を点数化したものね。高校受験の時に影響するやつだよ。それがどうしたの?」
「それ、“オール5”をとる方法があるって知ってた?」
「え? そんなの簡単じゃん。定期テストで全部満点とればいいんじゃないの?」
「パパ。違うんだよ。それだけじゃダメなんだよ」
「え? じゃ何すりゃいいの?」
「なんかね、友達に教えてもらったんだけど、授業中に積極的に手をあげて発言して、授業が終わった後も先生とコミュニケーションをわざととりにいって、提出用のノートには先生が授業とかで発言したことを必ず1個以上は書いておくこと、なんだってさ」
「え、 めっちゃあざといじゃん……。でも、なんでそれが“オール5”になる方法なの?」
「中学って教科ごとに先生が変わるから、先生の印象に残る生徒じゃないと成績が良くならないんだって。だから、先生の記憶に良い印象を残さなきゃいけないから、休み時間とかにも先生のとこに行った方がいいらしいんだよ」
「え、ちなみにさ、その友達って誰にそんなこと教わったの?」
「塾の先生だって」

おいおい、どうなってんだ? あざとさってこういうところに使うの?
あまりの衝撃に、新調したばかりの新明解国語辞典(第八版)を開いてみる。

あざと・い(形)〔関西方言〕〔「あ」は接辞〕㊀浅はか(小利口)な点が目につく様子だ。㊁あくどいところがって、悪い印象を与える様子だ。>

ふむふむ。いやいや、まさに辞書通りじゃないか。
いやしくも教師という中学生を指導し教育するプロに対して、“オール5対策用コミュニケーション術”なるものが通用するとでも? しかも、印象の強い弱いだけで内申が左右されるほど内申の質ってお粗末なものなの? もう私の頭の中は、情けないやら憤りやら怒りやら、複雑な思いでごちゃごちゃになって、感情が煮立って爆発してしまいそうだった。

煮立って煮立って少し冷めてきた時に、ふと、別の思いが湧いてきた。

「もしかして、本当にそうなのかも?」

ひょっとして、その塾が教えた“内申点オール5対策コミュニケーション術”なるものは、現実として本当に通用してしまっているのではないだろうか、と。
学校の先生は、「積極的に見える生徒」に好印象を持ち、「内向的で積極性を表に出さない生徒」のことは印象すら残らず忘れ去ってしまうという現実が学校現場で起きてしまっているのではないのか、と。
だからこそ、塾は真面目に生徒に「これが真実!」とばかりに、あざとさ満点のコミュニケーション術を教え込んでいるのではないか。それも、志望校に合格するという目的のためだけに……
もしそれが真実ならば、とっても寂しい気持ちになってしまう。
学校って、そういう所だったっけ?
中学校の先生が言ってくれた「努力していれば誰かがきっと見てくれている。だから諦めずに頑張れよ!」っていう言葉に支えられた私にとってみれば、世の中の“先生”に対する信頼は今も昔も高いままだ。
だけど、現実は違ってきているのか……
むしろ、先生も見破れないほど、あざとい“内申点オール5対策コミュニケーション術”は巧妙で、真実に感じてしまうほどのクオリティなのかもしれない。
そうだとしたら、志望校に合格するという目的のための「手段」が、生徒の「本音」になってしまい、「真実」に変わってしまったとも言える。

難しい。実に難しい……。
生きる知恵としての「あざとさ」は大人が使うものだという私の固定概念は、もはや捨てざるを得ないのかもしれない。
そう。子どもだって生きる術を身につけながら成長するのだから。

「あざとくって何が悪いんですか?」

いや、何も悪くないです。悪くないのですが、まだ、あともう少し、体当たりでぶつかってもいいんじゃないでしょうか……
いや、あともう少しでいいんです。目的とか効率とか無視して、無駄なことだとしても自分の気持ちのまま動きたいように動いてみてもいいんじゃないでしょうか……

人生は長い。
寿命を延ばす術もたくさん研究され開発されている。
人間の知力と体力をこれまで以上に鍛えておかないと、人生100年時代を最後の最期まで心身ともに健康で生き抜くことはできないのではないかとさえ思ってならない。

そんな時、知力の鍛え方とは何なのか。
あらためて考えていかなければならないのかもしれない。

自戒の念を込めてひとつだけ考えたことがある。
「プロがプロとして在り続けること」

どんな巧妙なテクニックをもってしても、プロの目は騙せない。
プロが素人をはねのける強さが、また次のプロを育てる。

あざとくていい。でもプロの目は真実のみを見抜き続ける。

そういえば大学時代、喫煙所に足しげく通って仏語の先生と単位欲しさに必死で仲良くなったことがある。評価が厳しくて有名な先生だった。ちょっと近寄り難い雰囲気もあり、みんな敬遠していた。ならばチャンスあり! とばかりに、調子よく先生に近づき、一緒に煙草を吸いながら世間話に花を咲かせた。ついには、食堂でコーヒーまでご馳走になるほど、先生との距離は近くなった。これで単位も安泰! 私は疑うことなく年度末の成績発表を迎えた。結果は「D(不可)」で単位を落とした。
あんなに仲良くなったのに? 何かの間違いではないかと目を疑う私。たしかに勉強は中途半端だった。それでも先生は自分をひいきにしてくれるはず! と信じてやまなかった。愚かすぎた。浅はかだった。
翌期、喫煙所で先生は明るく声をかけてきた。
「文法はきちんと押さえないとね! もう少しだったよ! あと2,3点ってとこだったな。次、頑張って! いつでも質問にいらっしゃい」

プロは真実を語り、自らの仕事に真摯であり続ける。
厳しさとは、優しさでもある。

思いっきり跳ね返された私は幸せだった。

先人は言う。
『過去と他人を変えることはできない。変えることができるのは自分自身だけだ』

棘のない綺麗な薔薇を望むのではない。
棘のあるそのままの薔薇を扱える人になればいい。
そのためには棘があることを知る目を持つこと。
棘を理解したうえでその美しさを受け入れること。

プロフェッショナルでありたい。
まだまだ道半ば。だけど決して諦めず、自らを見限ることなく、その道を挑み続けたい。

いつか「あざとさ」を跳ねのける厳しさと優しさを持てるように。
刺々しさの中にある真実を見抜き、心に刺さった棘をも抜ける人間になれるように。

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