ある男が会社を辞めるまでの話。

あるところに、Aという男がいた。男はS大学を卒業し、S県の物流会社に社内SEとして就職した。仮に社名をM物流としよう。

M物流に就職したAは、1年目から様々な経験を積んだ。既存システムの管理、社内のPCの管理、外注するほどではない小規模なソフトの開発。同じ部署の上司、先輩もおり、外部のシステムコンサルタントにも助けられ、Aは何年、何十年、会社がある限りここで働くものと思っていた。

そんなAにもいくつかの不満があった。給料と休みである。

給料は19.5万円だった。確かに大卒初任給という意味では極端に悪いわけではない。しかし、数年年上の先輩と話していると、Aが思っていたほど先輩の給料は良くなかった。というか、交通費を差し引いたら何千円かしか変わらなかった。Aは驚いた。あんなに技術的にも人間的にも大人な先輩の給料がそんなものなのかと。また、寸志や賞与というものは貰えなかった。結果として、辞めるまで一度も貰えなかった。とはいえ1年目のひよっこだったAはあまり深く考えないことにした。

休みについては、隔週土曜日は出勤日だった。年間休日は105日だった。Aの父は完全週休2日だった。つまり年間休日は125前後である。それ自体は不満もあったが、上述の給料に対してもう少し上乗せがあってもいいのでは?と考えるようになった。

ちょうどそんな頃、Aを含め7人いた同期は3人にまで減っていた。ある者は1ヶ月で辞め、またある者は3ヶ月で辞め。部署が違うのでいろいろあるのだろう、Aはそこまで疑問を感じることはなかった。

入社1年目が終わる頃、Aにある辞令が出た。ある物流業務委託の案件を獲得したから、そこの立ち上げとして1~2ヶ月出向いてほしい、と。結果的に半年以上いることになるのだが、このときのAは当然それを知らない。

業務委託先をB株式会社としよう。B株式会社はAの家から自転車で会社に行き、一旦車を借りて、合わせて1.5時間ほどのところにあった。会社で次期社長と噂されるCさんと合流し平日は毎日B株式会社に行くことになった。既存の業務を抱えながら。

全く違う職場に行くのだから、業務の引き継ぎはするものではないかと思った方もいるだろう。それはもちろんそのとおりだ。実際、8割以上の単純な業務はバイト、別部署の人、先輩や同期に引き継いだ。残りはというとそうはいかなかった。うまく引き継ぎ資料が用意できなかったのだ。頻度も低く、お金も絡むので下手なことはできない。引き継ぎはいずれするとしても、しばらくは自分がやったほうがいいだろう、Aはそう思っていたのだ。これについては後々Cさんにとんでもない怒られ方をすることになる。

B株式会社から業務委託を受けたのは、幸か不幸か、繁忙期の直前のことだった。B株式会社の商材は明確に繁忙期と閑散期があった。もしも増員がなければ、日が昇る前から日が沈むまで働いても終わらないような、土曜も日曜も使ってもまだ終わらないような繁忙期である。

CさんとAは想定できる限りの準備を、繁忙期に向けてしてきた。出荷作業が少しでも速くなるように在庫を整理し、配達員が納品先を効率よく回れるよう策を練り、そして栄養ドリンクを毎日のように飲んだ。

Aはしかし、社内SEだったのではないか?なぜ現場の仕事をしているのだろうか?そう思った方もいるだろう。現場を知ることもまたSEの仕事だと言いくるめられたのだ。「言いくるめられた」では言い方が悪いかもしれない。説得されたのだ。そういうことにしておこう。そして、繁忙期が訪れた。

繁忙期はもはや用意していた作戦どころではなかった。戦場という方が適していた。想定外の連続、驚くほどの入出荷量、終わらないその日の業務。軽トラに積み込む荷物は過積載どころではなかった。人手が足りず、Aも配送業務に借り出された。しかし、他の事業所の社員も忙しい。物流は3月が忙しい。新学期、新生活、なにかとモノが動く時期である。

CさんもAも疲弊していた。隔週土曜日の休みどころではない。むしろ休みの社員に頭を下げて、貴重なみなさんの休みをもらって、それでなんとか平日に終わらなかった配送を回していた。ふたりとも、栄養ドリンクが日に日に高価なものに変わっていった。

Cさんはしかしながら、会社を経営する人である。他の事業所の繁忙期も重なり、B株式会社の業務後に別の事業所の応援に行ったり、わけのわからない体力であった。Aはこのままなら退職しよう、そう思った。Aはいつの間にかフォークリフトの運転ができるようになった。

2年目の夏になりかけの頃、繁忙期は終わりB株式会社の業務は、転職してきたメイン担当者が仕事を回し始めた。Aは元の部署に戻ることになった。それからしばらくして、Aの先輩は退職した。先輩の仕事はAが引き継いだ。ふたり分の仕事をすべてこなすことはできないが、Aはどうにか無駄な業務を省き、緊急性のない仕事を後回しにして1.5~1.6人分ほどの業務をこなした。給料は19.5万のままだった。

19.5万というのは、そこから税金を引かれ、家賃を引かれ、光熱費を引かれ……と、引くものを引いたらあまり残らない。具体的には、まず振り込まれるのが15.5万円ほどである。家賃が5万円、光熱費と生活必需品で1~2万円、バイクの燃料と維持費が1万くらい。食費がいくらか。あと、住民税。そう、住民税は自身で支払うのだ。本来は「特別徴収」といういう天引きでなければならないはずなのだが……まあ過ぎたことなので法的にどうとか、そういう話はやめておこう。そもそもそういったことに詳しくない。なんせ、手取りからさらに住民税を払うのだ。不思議なものである。Aはやはり、過去に感じていた不満が再発する。こなせる仕事が増えたのになぜ給料は増えないのか、と。

ところで、Aと先輩は同じ事業所にいたが、Aの上司は別の事業所にいた。1年目は毎週決まった曜日にAたちの様子を見に来ていた。先輩が辞め、コンサルも撤退し、上司とはこの頃1ヶ月に1度会えば多い方となっていた。

そんなとき、別の部署の責任者と酒を飲む機会があった。自宅の近くではなく、その人が所属する事業所の近くだった。Aは酔った勢いで言いたい放題愚痴を言った。どうしてできることが増え、減った人手をカバーしても給料は増えないのか。人がいないから、休みも減ったのに給料はそのままなのか。頑張っても、その対価はないのか。お門違いもいいところである。彼からしたらそんなことを言われても知らん、といったところだっただろう。当然やり返された。言い負かされた。Aは泥酔し、号泣した。その日は自宅に帰ることなどままならず、一緒に飲んでいた総務のお兄さんとネカフェに泊まった。

そして2年目の秋、新たな仕事がまわってきた。新物流センターの立ち上げである。荷主は決まっていなかった。荷主なき物流センターなど、ただ維持費がかかるだけである。Aは同期社員と荷主を探す営業をすることになった。社内SEとは一体なんなのか、Aはわからなくなっていた。Aは営業などやったことはなく、勝手もわからない。闇雲に電話をかけ、担当者に繋いでもらうことなどできず、なにも成果を出せなかった。そうこうしているうちに、営業として入社していた同期社員がCさんと共に大きな荷主と契約するところまでこぎつけたのである。Aは彼らのサポートに回り、物流センター内のシステム管理、ネットワークの構築などをしながら、荷主との契約に向けて必要な打ち合わせに参加するようになった。

打ち合わせに参加しながら、荷主、自社、そして物流システムを構築したソフト屋の間を取り持つようになった。一方で上司は、いつの間にか名刺の肩書が変わり、違う部署の人になっていた。Aの名刺に書かれた部署は、Aひとりになった。

新しい荷主は1件ではなかった。複数の荷主との打ち合わせ、それぞれに違う様式の出荷データと自社システムが受け入れられる様式も違う。変換が必要だった。仕様を打ち合わせ、内容をまとめ、仮データでテストをする。年の瀬のことである。このころのAは休みなどなかった。いや、出勤していないという意味では休みはあった。しかしながら、自宅でも仕事をしていた。自宅でも仕事の電話が鳴る。取らないわけにはいかなかった。いわゆる会社携帯などなく、通話料は自分持ちだった。

年が明け、本番稼働が始まった。トラブルが頻発した。物流センターの能力のうち、ほんの2割、いやそれ以下の稼働であった。それでもトラブルを抱えたまま時間は経過する。Aはその日をどうにか終えることで精一杯だった。

まもなく3年目になろうとする頃の話である。Aは出荷業務を行うパートの女性と雑談をしていた。そこで給料の話になった。「Aさんは社員さんだから結構稼いでいるのでしょう」と。しかし、Aの給料は19.5万円である。さらにAは連日物流センターの業務開始と業務終了の処理をしていた。他にできる人がいなかった。引き継ごうとしたが、うまくいかなかったのだ。3年目の夏頃まで、完全には解消しなかった。かくして、長時間労働が続いたAは、ついに時給換算するとパートの給料を下回ってしまった。時給700円を割っていた。さらにいえば、このパートの女性のほうが稼いでいた。

そうこうしている間に、物流センターは人が増え、ある程度安定稼働するようになった。Aも3年目に入った。部署の変わった上司は、この頃には退職していた。プログラムを書ける社員はいよいよAしかいなくなった。

Aは物流センターを稼働させるので精一杯のままであった。残念なことに、Aの部署に人員は増えなかった。そうしている間に夏は終わり、秋は過ぎ、冬になっていた。Aは追い込まれていた。このままこの会社で働いて、それでどうなってしまうのか。給料は少なく、貯金も減りはせずとも数十万円、休みもなく出会いと呼べるようなものもない。結婚?それどころじゃない。自分が生きるだけでこんなに難しいとは。Aは自身の将来を考え、ただ悲観することしかできなかった。そしてそれを話す相手もいなかった。いたのかもしれないが、Aには彼ら彼女らに話す余力がなかったのかもしれない。そうしているうちに、Aの気力はなくなり、バイクで15分ほどの自宅へ帰ることすら億劫になった。事務所のOAフロアで寝ることも多々あった。床は固く冷たく、翌日は寝不足でまともに仕事ができない。ますます帰る時間は遅くなった。付近の線路から聞き慣れない音がする。ふと見ると、それはレールを検査する車両だった。終電はとうに過ぎ、保守車両が働く時間だった。

Aは会社に行きたくない、行かなくていい方法はないかと考えるようになった。いっそ死んでしまえたら、そう思ったことも数え切れないくらいあった。しかし、死ぬことはできなかった。人間はそうそう容易く自ら死を選ぶことはできないのだと、Aは思い知らされた。

結局、Aはカッターで腕に1か所だけ傷をつけたところで諦めることにした。あんなに痛いのに、大した量の血も流れず、なのに仕事は続けられてしまうのだ。それに、それを話す相手もいなかった。ひとり暮らしのAにはそれに気づいてくれる人はいなかった。Aには退職するという選択肢は思いつかなかった。仕事を辞めずに開放されたい、矛盾した考えというほかないだろう。もうまともに考えることすらままならないAにとっては、それがおかしいとは感じなかった。3年目が終わろうとしていた。

4年目になるとAの下にも後輩がついた。初めての後輩である。他の部署でも新入社員が入ってきた。人が増え、業務の分担が減り、いくらかAにも気持ちの余裕が出てきた。以前よりは休みも取れるようになった。どういうわけか、給料は少し上がり22.5万になった。住宅手当というのがついた。責任者曰く、Aくんは実家から通えるのにわざわざひとり暮らしをしていると思っていた、と。実家から会社まで、3時間はかかる。始発の路線バスに乗っても、全く始業に間に合わない。なぜ今頃そうなったかはわからないが、Aは給料が上がり安堵したのである。能力による昇給ではないのに、である。

ある日、後輩が大きなミスをした。商品とそのバーコードの対応を間違えてしまったのだ。Aの商品にBのバーコードを登録し、Bの商品にCの商品のものを、Cの商品にはAのものを、といった具合だ。預かっている商品の在庫が合わず、欠品も発生し、原因が理解できるまで徹夜して、それでも24時間では足りなかった。最終的な解決まで1週間を要した。Aは2徹目で倒れた。そのままOAフロアで数時間眠った。病院へは行かなかった。

ある夏の日、突然にAの両親が会社に来た。Aも全く聞いていなかったことであった。役職の高い人と話がしたいという両親の言葉を聞いて、Aは察した。自分を辞めさせるために来たのだと。

Aの両親は泣きながら、実家に帰ってきた際に息子が疲れ切った様子であることなどを訴え、息子を辞めさせてほしいと主張した。Aはしかし、それをすぐに受け入れて退職をすることができなかった。後輩ができ、業務も落ち着きつつある状況で急に辞めるわけにはいかないと考えたのである。キリの良いところまでは、そんなふうにも考えていた。両親が会社に乗り込んでくるなんて、普通の感覚であれば異常というほかないだろう。今振り返ったらAは間違いなく「愚かだった」というだろう。その当時のAには、多少落ち着いていたといえども冷静な判断はできなかった。結局その日、両親にAは「急に辞めることはできない、もう少しやらせてほしい」と、そんなことを言ったのだった。

それから1ヶ月ほどして、Aはやっと退職届を書き会社の机に忍ばせた。さらに数日してやっと提出した。ところが、Cさんに一度よく考えてほしいと言って突き返された。Aが再び退職届を出すまでさらに1ヶ月を要した。退職する日を決め、すべての仕事を引き継ぎ、正式に退職するまではもう2ヶ月を必要とした。

そこまでしてやっとAは会社を辞めた。そこまでしないと会社を辞められなかったのである。

退職したAはS県を離れ、実家に帰り半年ほど働かなった。バイクを乗り倒し、遊べるだけ遊び、80万程しかない貯金が尽き、失業保険も使い切る頃新しい職場を見つけるが、今回はここまでにしよう。


これがいい話というわけでも、悪い話というわけでもない。オチがつくわけでもない。ただ、そういう人がいたとうだけである。

そしてそれは言うまでもなく、私自身の話である。多少記憶違いなどはあるかもしれないが、おおむね本当のことである。

で?といわれても、教訓めいたことは出てこない。ただ自分の社会人の期間を振り返っているだけだから。これを読んでなにか思うところがあるなら、感想があるのなら興味本位で聞いてみたいな、とかその程度の話である。なにも思わなかったりつまらない文章だと思うならそれでいい。

同じような状況にある人を助けてほしいかと言われれば、それは私自身よくわからない。それでも目指すものがあって、確固たる信念でそうしている人もいるだろう。それを無理に止めるというのが正しいのか私にはわからない。

結果として正しかったのかと問われれば、私自身は辞めて正しかった、もっと早く辞めてもよかったと答える。けれども、似た状況というのはあっても全く同じということはない。強引にでも辞めさせるというのは必勝法などではない。却って状況を悪化させる可能性もある。結果がどうなっても責任など私には取れないのだから。最終的に決めるのは当事者自身である。

つづく。

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