ある男が転職をする話。

つづき。

あるところに、Aという男がいた。Aは大学新卒で入社した会社で3年半勤務し、両親に泣かれ、退職をした。9月の末の話であった。

10月になり、まずはS県から実家に帰ることにした。実家で不要な家具類はリサイクルショップに売り払い、実家の車を借り数往復して、部屋を引き払った。

11月になると、Aはバイクで九州一周旅行にでかけた。フェリーに乗り、各県をまわり、実に充実した無職ライフであった。特に佐賀県のバルーンフェスタには感動しきりであった。

九州から帰ってきたAは、年末までダラダラ過ごすつもりであった。次の仕事のことはまだ考えないようにしていた。

この頃、Aは母校で部活の指導もしていた。暇だから。バイクに道具を積み込み、顧問に連絡して、週に1度か2週に1度くらいの頻度であった。Aはインターハイ出場経験があった。とうに昔の話ではあるが、母校ではそれ以降インターハイに出場できた選手はいない。近畿大会優勝はいる。準優勝もいる。国体代表もいる。彼らは本当にすごい。運でインターハイに出場したAとは大違いである。

そのおかげか、タイミングが良かったのか、11月のある日OB会長から電話がかかってきた。「高校の事務員をやらないか?」というのだ。聞けば、今年度末に事務員がひとり定年退職するそうだ。それに伴って欠員補充がある、と。Aには断る理由がなかった。自分の母校で働けるのだ、悪い話なわけがない。

しばらくして選考フローなどを手に入れた。高校のHPにこそっと載っていた。誰が気づくのだろう……Aはそんなふうに思っていた。給料もとてもよい、とまではいかないものの決して悪い数字ではなかった。当然Aは応募することにした。12月に筆記試験があり、面接があり、年が明けて1月に最終面接ということだった。Aの無職生活が終わろうとしていた。

いくらOB会長が紹介してくれたからといって、無条件に採用されるわけではない。あくまで紹介してもらっただけである。とはいえOB会長は「まあ受かるやろ」とか言っていた。結果的にそんなことはなかった。

その合間にAはハローワークに通った。失業保険というのはどうやら、転職に向けて頑張っている人のための制度らしい。全く転職する気がないとお金はもらえないのだ。求人票に目を通し、気になるものがあるなら応募する。それだけで転職を頑張っている判定が貰えた。ちょろいものである。

その中の1社に練習がてら履歴書を送った。実家からも通える大阪梅田のシステム屋だった。すぐに面接の日程が決まった。緊張しながら行ってみると、面接もほどほどに内定を出したいと言われた。一体どういうことなのか、Aは頭が追いつかなかった。しばらく話すうちに、どうやらAはハロワの中では高スペックらしいことが採用担当の雰囲気から理解できた。

確かに3年半で様々なことを経験した。プログラムを書くのはもちろん、対人折衝、要件定義、テスト、運用、改修、外注……よくよく考えると深いレベルとは言えないがだいたい全部やっていた。こればっかりはM物流に感謝である。

トントン拍子に進む面接であるが、Aは本命が別にあることを伝えた。あっさり待ってくれると言ってくれた。Aは逆にこの会社相当人手不足なのか?と心配になった。

あれほどにまで苦しんだ新卒戦線とは真逆に、トントン拍子で内定を手に入れたのであった。Aはしかしその日のうちには「この会社には転職しないだろう」と思った。それくらいすぐ内定を出すというのが信じられなかったのだ。

そうしているうちに12月も終わりが近づいていた。ちょうど乗っていたバイクの車検が近づいていた。両親はAに近所迷惑だからあまりバイクに乗らないでと言っていた。大型とはいえ、どノーマルの車両になんてことを言うのかと思ったが、車検費用を見積もったところAが思っていた以上に費用が嵩むことがわかった。Aは軽自動車を探し始めた。車なら誰かを乗せることもできるし、なにより寒くない。瞬く間に中古の軽自動車を契約してきた。その翌日にはバイクは業者に買い取られた。

学校の事務員の選考はそんな頃行われていた。筆記試験は40人近くが受験していた。皆どこで情報を嗅ぎつけたのか、Aには不思議でならなかった。帰りに周りで試験を受けていた人に聞くと、学校の事務員になりたいがために、各校の求人を探し続けている人が多々いるということがわかった。Aのように母校だからではなく、事務員になりたくてうけるというのだ。Aにはそこまでの気合はなかった。しかしながらAは筆記試験を通過した。面接も通過した。残すは最終面接だけとなった。

OB会長にそれを連絡すると、まあ本校OBだから有利だとか、あれこれ言っていた。最終面接は責任者の〇〇君がするはずだからとか、そんなことも言っていた。考えてみれば簡単に推測できる話であったが、いいのか?話していいのかそれ?とAは戸惑った。

年が明け、事前に面接会場である母校への行き方を聞かれた。鉄道や路線バスでは到底到達できない辺境にある母校は、その日はスクールバスの運行はなくタクシーチケットを出すと言った。実際、タクシーチケットが郵送されてきた。Aはタクシーチケットを見るのが初めてだった。タクシーなど数えるほどしか乗ったことがないAは、一番近い駅から母校まで一体何円かかるのか考えた途端それを使うことが怖くなった。他人の金なのに。結局Aは、買ったばかりの軽自動車で面接に向かうことにした。タクシーチケットは面接時に返却した。

最終面接はいわゆる集団面接だった。Aはコミュ障である。新卒戦線のとき、集団面接で散々な目に遭っていた。M物流に入り様々な経験を積んだAは、それでも苦手なままだった。面接官に知った顔がいたことも、Aが更に緊張する理由であった。日本史の先生だ。高校生のとき日本史を教えてくれたE先生だった。いつの間にか教頭にランクアップしていた。Aはそのコミュ障ぶりを見事に発揮してしまった。これはまずいと思った。

試験の結果が出るまでの間、Aは再びハローワークで求人票を眺めていた。母校の事務員は落ちることが濃厚であり、梅田のシステム屋は内定こそあるが怪しい。勝機がないので次を探すことにした。すると、その日に求人票が出たものがあった。C社である。その求人は他のものよりも明らかに給与が高かった。同業他社が25万だとすれば、C社は28万くらい、Aは躊躇いなく応募した。給与3年間19.5万円賞与なしの反動であった。

母校の事務員の結果が返ってきた。OB会長にお膳立てしてもらい、出来レースに近いのではとまで考えた採用試験は見事不合格となった。大した準備もしてこなかったAにとってそれは当然であった。しばらくして、C社の面接の案内が来た。

C社というのはどうやら、パッケージソフトを製造販売しているらしい。パッケージソフトというのは、例えばMicrosoftOfficeであったり、Adobe Photoshopであったり、特定の誰かのための特注ソフトではなく誰でも買えるようなソフトのことである。しかしAは、C社の作っているソフトを知らなかった。父に聞いてみると、それは設計図を描くためのソフトだと教えてくれた。それくらいの事前知識を持って、C社の面接に臨んだ。

Aはまず、SPIを受けることになった。聞いていない。Aはそのような話は全く聞いていなかった。とはいえ断るわけにもいかないので素直にSPIを受けた。やる気はあまりなかった。

その後に面接を受けた。面接官は2人であった。母校の事務員の件でやる気のなかったAは、不思議と自然に受け答えができた。別にだめだったらそれでもいい。程よく気が抜けていた。数日して、C社から予定にはない面接をもうひとつ受けてほしいと言われた。交通費はもらえるので、受けることにした。

今回はいかにも重役、あるいは社長といった見た目の老人と、課長とか部長とかそんな感じのする面接官の2人だった。質問されたことに答えたり、逆に質問はあるかと聞かれたりした後、2人は部屋を出て何かを話して戻ってきた。AはC社から内定を獲得した。

後々聞いたところによると、不正しているのではないかというくらいSPIのスコアが良かったらしい。大学時代に塾でバイトをしたおかげかもしれない。あるいはM物流で多種多様な業務をこなしたからかもしれない。ともかく、給料が良ければ多少過酷でもM物流ほどでなければ問題ないと考えていたAは内定を受け入れ、転職先が確定した。Aの転職戦線はこれをもって終了した。貯金は残り10万円ほどまで減っていた。

そして全く知らないCAD/CAMの世界に飛び込むことになるのだが、これはまたそのうちにでも。


新卒戦線を苦しみながら戦ってきた者達にとっては、意外と転職というのは簡単なのかもしれない。いわゆる第二新卒のほうがいいとかそんな話もある。そもそもが1つの会社に定年までいること自体、当たり前ではなくなった2020年代である。

もしもそんなことはないというのであれば、M物流で経験値だけは上げておいたおかげかもしれない。そういう意味では、入った会社で3年はやってみろという話もわかる。3年いればもう辞めにくくなり長期的に働くから、なんて話もあるがよくわからない。

やはりオチなどはない。平和な無職期間であった。

※後にOB会長に会ったとき、順位付けでは2位だった惜しかったという話を聞いた。本当かは謎である。

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