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別人的歌:ふたりのワイマン(2) 【香港カントポップ概論:1990年代編⑤】

【一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論】

1990年代:"一起走過的日子" 最盛期と陰り ⑤


林夕が、作られたアイドル歌手像から脱皮をはかるフェイ・ウォンを作詞上のパートナーとして支えたことは前々項で書いた。90年代後半に入ると、彼はもうひとりの型破りな歌姫と出会う。

それは病院で看護師をしながら出場した1995年のタレント発掘コンテストで注目されたデビューした楊千嬅(ミリアム・ヨン)で、林夕は、彼女の1997年のアルバム『直覺』に『再見二丁目』(さらば二丁目)という曲を提供している。


この曲の歌詞は、外国("二丁目"だからたぶん日本)への傷心旅行を歌ったもので、日本への旅を扱った世界観だけでなく、日常的なモチーフを重ねあわせる表現手法も似ているので、『約定』との関係も推測されている。この主人公は、普段とは違う味のお茶を飲んだり、耳慣れない民謡に耳を傾けたりしながら、自分のこれまでを思い返す。

原來過得很快樂 只我一人未發覺……
(思えば幸せだったのだ 自分一人が気づかなかっただけ)
無論於什麼角落 不假設你或會在旁
(角を曲がるたび そこ君がいないかと 思わずにいられれば)
我也可暢遊異國 放心吃喝
(自分だって異国を旅し 飲んで食べて 思う存分楽しめる)

林夕はこの曲での彼女のパフォーマンスに感銘を受けたそうで、その後も彼女の出世作となった2000年の『少女的祈禱』(乙女の祈り)などのヒット曲を提供している。


思いをよせる男性と一緒のバスに乗る少女が、「あと何キロ彼と恋できるか」を考える歌で、地下鉄を舞台にしたダニー・チャンの往年の名曲『数分間のデート』の女性版/バス版のような、みずみずしい歌になっている。願掛けなのか本当に彼が降りてしまうからなのかわからないけど、少女はバスが赤信号でとまらないように祈っていて、すでに2つの青信号を通過し、やってくる3つ目の信号の色が「生きるか死ぬか」の大問題となった彼女の、まさに「神にも祈る」気持ちを描いている。

祈求天父做十分鐘好人
(神様どうか10分間だけ願いを聞いてくれませんか)
賜我他的吻 如憐憫罪人
(罪人を憐れむように 彼の唇をください)
我愛主 同時亦愛一位世人
(主を愛してますが 同時にある世人も愛しているのです)

案外、神様がダイレクトに出てくるのラブソングは、カントポップでは珍しい気がする(ちなみに林夕はかなり真面目な仏教徒として知られている)。タイトルの由来であるピアノ曲『乙女の祈り』が最後に引用されている。

彼女はのちに黃偉文ともタッグを組んで『野孩子』(野生児)や『可惜我是水瓶座』(だけど私は水瓶座)などをヒットさせている。

2002年の『可惜我是水瓶座』は、2年前の『少女的祈禱』と比べるとちょっと大人な雰囲気の別れのソングになってる。

原來你這樣珍惜我
(そんなに大事に思ってたなんて)
從前在熱戀中都未聽講過
(ラブラブな最中だって言ってくれなかったでしょ)
別說這種行貨 哪裡留得住我
(そんな口から出まかせで 引き止められるとでも?)
到底是為什麼分手你很清楚…
(どうして別れたか あなたがよくわかってるでしょ)…
我就回去 別引出我淚水
(私帰るから 泣かせないでよ)
尤其明知水瓶座最愛是流淚
(水瓶座は泣き虫だって知ってるくせに)
若然道別是下一句
(別れの言葉を言おうとしてるなら)
可以閉上了你的咀
(いますぐ口を閉じてくれていい)
無謂再會 要是再會 更加心碎
(”また”なんてない また会っても 辛いだけだから)

水瓶座は泣き虫らしい。ちなみにミリアムは2月3日生まれだから、本当に水瓶座だ。この歌のおかげで、たぶん香港中の人が彼女の星座を知ってるんじゃないかと思う。

そんな「水瓶座の女」、ミリアム・ヨンのことを「型破り」と呼ぶのは、ちょっとおかしいかもしれない。彼女には奇抜なところは何もなく、ものすごく普通だからだ。

映画などでも親しみやすい庶民的な役をよく演じていて、ほんとうにその辺にいそうな感じのする人だ。

(タバコ好きな化粧品販売員を演じてるこれとか、かっこいい職場の先輩女性くらいの雰囲気の役が本当に似合う。言葉遣いが汚いけどいい映画。)

普通の少女のイメージでデビューし、普通のお姉さんになり、いまでは普通のおばさんになっている。失礼な言い方に聞こえるかもしれないけど、これはすごいことだ。『カントポップ簡史』も彼女について「オーディエンスとともに、優雅に年をとることのできた稀有なカントポップ・スター」と述べているけど、どうしても過去のイメージに引きずられがちな芸能人の中で、普通のお姉さんがそのまま普通のおばさんになり、それでいて人気を維持するのはなかなかできることではない。

『少女的祈禱』、『可惜我是水瓶座』のあとも彼女の歌う歌詞は「成長」を続け、ジミー・ロー作詞の1977年の名曲『每當變幻時』のカバーも収録された2007年のアルバム『Meridian』の頃には、過去を感傷的に振り返るすっかり大人な女性になっていて、まさにタイトルどおり「子午線」/「最盛期」をすぎて人生の後半線に差し掛かったような風格が溢れている(といってもまだ33歳とかだけど)。

同アルバム収録の林夕作詞曲『集體回憶』(集合的記憶)では、再び彼の『約定』/『郵差』から「旅館」/「弁当」のシンボルが扱われているけど、すでにそれは過去のものになってしまっている。

你說你記得住門牌
(まだ住所を覚えてると 君は言うけれど)
無奈旅館結業剩餘花街
(それでも旅館は廃業して 残るはフラワー・ストリートだけ)
這傷感我了解
(感傷的になるのもわかる)
我說我也一樣在捱
(私もそうやって悩んできた)
人總要長大 消失的便當
(人は成長するもので 消えてしまった弁当が)
難道會回到星街
(どうしてスター・ストリートに戻れるだろうか)

「人は成長するもの」という当たり前の事実を反映しながら、彼女が普通なイメージをたもったまま成長できた背景には、こんな風にキャリア/年齢のそれぞれの時期に適切な共感を呼ぶ歌詞を用意できた「ふたりのワイマン」の果たした役割も大きいように思う。

ともかく彼女の普通さは、デビュー当時のスター全盛時代、近寄り難いほど煌びやかなアイドル像がもてはやされたこの頃には異質だったらしい。ある評論家は、流石にものすごく失礼な気もするんだけど、こう書いてる。

「ミリアムは、普通さを強調しており、綺麗ではないがフレンドリーで親しみやすい感じがあり、普通の女性が自分の経験を彼女に投影してみることができたのだ」(『カントポップ簡史』p.153より再引用)

当時のファンもやはりそんな印象だったらしい。カントポップファンによるFacebookページ『廣東歌fans應援事件』がまとめたカントポップ・アルバムのレビュー『我最喜愛的廣東專輯』も、「玉女」タイプのおしとやかな女性歌手のイメージで売り出されていたにもかかわらず、大笑いしたり大泣きしたりで感情をストレートにあらわす飾らないところが新鮮で、そんな「共鳴感こそが、ミリアム・ヨンが人々に愛された所以だったのかもしれない」と書いている。

ミリアムの体現した等身大の飾らない歌姫像は、のちのティーンアイドルTwinsや"庶民の歌姫"・謝安琪などの活躍(どちらにもふたりのワイマンが大きく関わる)にもつながる2000年代以降の香港エンタメ界の重要なトレンドとも言えるかもしれない。

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林夕がミリアムに提供した『再見二丁目』の歌詞は、彼らしい謎めいたシンボルに満ちていて、ファンたちによる様々な解読の試みがされているのだけど、そのなかのひとつに、この「二丁目」というのは、日本でも単に「ニチョウメ」と呼ばれることもある東京屈指のゲイタウン「新宿二丁目」を指すものではないか、つまり実はクィア的/同性愛的な隠喩が含まれた歌なのではないか、というものがある。

そう思われる理由のひとつは、林夕が実際に同性愛をモチーフにしている(と思われる)歌を手掛けていたからだった。フェイ・ウォンの脱皮を支えていた頃、かれは別の男性アイドルの変身にも携わっていた。

それが、「引退」からあっという間の復帰を果たしたレスリー・チャンだった。復帰後は映画を中心に活躍した彼は、『覇王別姫』(邦題『さらば、わが愛』)での女形役や、『春光乍洩』(邦題『ブエノスアイレス』)での同性愛者役など、80年代のアイドル時代とは全く異なるイメージを提示していった。音楽でも既存のジェンダーイメージを解体するようなパフォーマンスを行ない、長髪のカツラに赤いハイヒールを履いてステージに立ち、ファンをおどろかせたこともあった。

林夕はこの時期の彼に多く提供した。なかでもクィア方面で話題によくのぼるのが『左右手』という歌だ。

尚記得 左手這一臉溫柔
(覚えてる 左手の 顔のやさしさ)
來自你熱暖 在枕邊消受
(君のぬくもりを 感じた枕元)
同樣記得 當天一臉哀求
(覚えてる 懇願するようなあの顔)
搖著我右臂 就這樣而分手
(君に右腕を揺られて そうして別れた)

從那天起我不辨別前後
(あの日から 前後の見境もなくし)
從那天起我竟調亂左右
(あの日から 右も左もわからない)
習慣都扭轉了 呼吸都張不開口
(習慣はねじれ 息をしようにも口が開かない)
你離開了 卻散落四周
(いなくなっても そこら中に君がいる)

從那天起我戀上我左手
(あの日から 自分の左手に恋をした)
從那天起我討厭我右手
(あの日から 自分の右手が大嫌いだ)

表面的には悲しい思い出の残る右手と、温もりの残る左手を対比した別れの歌なんだけど、中国文化の伝統的シンボリズムでは脈や手相を見る手も、並ぶ時も、とにかく「男は左、女は右」という決まりがあるので、それを踏まえると歌詞の全体が意味深に見えてくる仕掛けになっている。

黃偉文の方も同性愛的イメージを作詞にとりいれて、2002年にローズとマリーという女性同士のカップルが「世界を敵に回して」も愛し合う様子を描く『露絲瑪莉』(ローズとマリー)と、そのふたりの別れを歌う『再見露絲瑪莉』(さよならローズマリー)を作詞し、特に後者は明確に同性愛をもつ歌として初めて人口に膾炙するヒットソングとなり、達明一派の『禁色』、先述の『左右手』とならんで香港LGBT界隈のアンセムとなっている。

再見 露絲瑪莉再見
(さよなら ローズマリー さよなら)
情人的聲音 漸變小
(恋人の声が だんだん小さくなる)
甜蜜外號 只得妳可喚召
(君だけが呼ぶ 甘美なあだ名)
誰可以像妳 一叫我就心跳
(君には 呼ばれるだけで心が踊ったのに)

再見 如果瑪莉走了
(さよなら マリーが行ってしまったら)
誰人是露絲 不再緊要
(誰がローズでも もうどうでもいい)
埋名換姓 隨便換個身份
(名を隠し 姓も変え 身分も変えて)
找個歸宿 平平淡淡纏擾
(平々凡々 旦那でも見つけよう)

その2曲を歌うことになるのは、1996年のTVBタレント発掘コンテストで優勝した何韻詩(デニス・ホー)だった。HOCCのステージネームで活躍しながら、アニタ・ムイのバックボーカルをつとめたりして下積みをしたのちに2001年にアルバム・デビューを果たした。(ちなみに彼女は80年代末の移民ブーム時に家族と共にカナダに移住したのち帰港して芸能界入りした経歴を持つ。昨今の香港にも同様の経歴をもつカナダ生まれ/カナダ育ちの芸能人は多い)

(相川七瀬的な「ボーイッシュ」なスタイルは香港の女性歌手では珍しい)

黃偉文作詞の『光榮之家』では、「古いテレビ」や「古い夕刊」、「骨の折れた傘」や「ヨーロッパからきた段ボール」など、誰かが捨てたゴミで溢れる貧しい家で誇りを持って生きる人の心情を描き、彼女には「社会派ロック・シンガー」として知られるようになる。さらに、この『さよならローズマリー』のヒット後、彼女は同様に同性間の恋愛を題材にした歌(『勞斯.萊斯』"ロールスとロイス")や舞台(『梁祝下世傳奇』;「梁山伯と祝英台」のクィア的翻案)で活躍し、2012年には香港の大物歌手としてはじめて同性愛者としてカミングアウトした。以降、LGBTの権利活動に積極的に関わっているほか、近年では雨傘運動をはじめとする民主化運動への積極的な関与でも知られている。

(反逃亡犯条例デモでのデニス)

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1990年代のカントポップは、スター育成システムが全盛期を迎えて市場を支配した一方で、その独占体制の限界があらわになった時代でもあり、フェイ・ウォンのようにそれを飛び越えた成功を得るものもあらわれた。彼女のまさに型破りな挑戦は、メディアの多様化により既存の広東語マスメディアの牙城が崩れたことで可能になったものであり、同時にオルタナ系ミュージシャンや新世代の新たな感性をもつ詞人たちが、カントポップの帝国を内側から変える改革を進めつつあった。

1997年の返還は、80年代に恐れられたほど大きな影響をカントポップ界にもたらすことはなかった。「1997年に大きな変化があるだろうと思っていたけど、何も大きな、重要な出来事はおこらなかった。それはもう1989年に経験済みだったから」というのが黃偉文の弁だ(『カントポップ簡史』p.142)。

しかし、広東語歌謡のセールスは、とくに「大きな、重要な出来事」もないままに1990年代後半以降徐々に下降を続けていき、華人世界のポップスの中心は台湾や東南アジア、そして中国大陸発のマンダポップに移っていく。少なくともカントポップは中国語ポップスの唯一無二の選択肢ではもうなくなった。

1999年に、ビルボード誌が「カントポップの下落」(The Cantopop Drop)と題された記事を掲載したことは、まさに90年代を最後にカントポップの時代が終わったことを象徴的に示していた。

自身の博論のなかで1997年をカントポップの終わりとしたジェームズ・ウォンは、晩年、「カントポップは死んだと思うか」という質問に、こう答えてたという(『後九七香港粵語流行歌詞研究(1)』12頁)。

カントポップは死にました。わかってもらわなきゃならんのは、ポピュラー音楽というのは、ある種の商品なんですよ。1996年には19億だったものが今じゃ3億だ。19億のビジネスが3億になったら、それは”死”です。

優秀な広告マンでもあった彼が、自らが築き上げてきたカントポップをひとつの産業として捉えていたことを端的にしめした回答だろう。その商業主義こそが、彼の類まれな才能を示すものであり、あるいは同時にその限界でもあったのかもしれない。

産業としてのポピュラー音楽業界は、文化としてのポピュラー音楽の重要な一部ではあるが、全てではないからだ。

実際、たとえ市場が狭くなっても、広東語の歌は消えはしなかった。むしろ既存の産業体制の崩壊により「ふたりのワイマン」をはじめとする新世代の音楽人たちが新たな可能性を模索する余地(と必要)が生まれたため、2000年代のカントポップは黎明期以来の創意工夫と挑戦の時代を迎えることになる。

香港エンタメ界のスター量産体制は一際輝いた90年代とともに燃え尽き、カントポップの空から今度こそほんとうに星たちが消えた。

焼け野原となった香港の楽壇に、異端児たちが主役となる新たな世紀がやってくる。


【一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論】
1990年代編「"一起走過的日子" 最盛期と陰り」完

2000年代以降編「”還能憑什麽” 凋落後の挑戦」へ

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