一代一聲音

只愛陌生人:王靖雯とフェイ・ウォン 【香港カントポップ概論:1990年代③】

【一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論】

1990年代:"一起走過的日子" 最盛期と陰り ③

四大天王に独占された1993年の楽曲トップテンの中、1人だけ「王靖雯」という女性歌手の名前があった。「王靖雯」といっても英語名の「シャーリー・ウォン」といっても、日本の方々の多くは誰だかわからないかもしれないけれども、彼女はのちに日本も含めアジア中で広く活躍した歌姫「フェイ・ウォン」のことだ。映画『恋する惑星』やファイナルファンタジーVIIIの主題歌『Eyes On Me』などで目にした、耳にしたことのある方も多いだろうと思う。

彼女は「王靖雯」として香港でデビューしたのち、改名して「フェイ・ウォン」となった。

改名というよりも、「フェイ・ウォン」すなわち「王菲」の方が彼女の元々の本名だった。

彼女が本名を捨て「王靖雯」の名で世に出た理由、そしてそれをやめて再び本名を名乗るようになった過程からは、当時のカントポップ業界の特性と限界が見えてくる。

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王菲は、1969年に北京で生まれ、1987年に香港に移住してきた、いわゆる香港では「新移民」と呼ばれる経歴をもつ。1980年代に入り、不法入国者への居留権発行が停止され香港への移民・難民の大規模流入がストップすると、それ以降の大陸からの移住者たちは、移民社会香港を形成した移住者たちとは区別して「新移民」と呼ばれるようになる。80年代には、大陸出身の新移民が香港の都市的生活に適応できない様子をおもしろおかしく描く映画・ドラマが続々と作られ、そんな田舎者の新移民をあらわす「阿燦」(あーちゃん)という表現が定着した。それほど大陸と香港との経済的、文化的格差が強く意識されていた時代だった。

王菲は北京時代は幼い頃から歌の才能を発揮していて、高校生の時にはテレサ・テンのカバーをしたカセットもリリースしたりしていたようだが、香港ではスタイルのよさを活かしてモデルをしながら広東語での歌唱のトレーニングを受ける日々が続く。

1989年、アニタ・ムイら過去の歌姫たちと同様に、新人歌手発掘コンテストでの活躍が注目されたことがきっかけで、レコード会社と契約し歌手デビューをはたした。

レコード会社はこの期待の新人を、カントポップ業界のイメージにあった歌手として売り出そうと考えたのだろう。「王菲」(うぉん・ふぇい)という香港女性っぽくない(らしい)名前に変えて新しく「王靖雯」(うぉん・ちぇんまん)という新しい香港風の芸名をつけさせ、さらに「Shirley」というこれまた香港っぽいイングリッシュ・ネームも与えた。

そのため彼女のデビューアルバム(『王靖雯』というセルフタイトルだった)のジャケットには「王靖雯」、「Shirley Wong」という名前が大きく記され、香港の人々はこの芸名を通じて彼女を知ることになる。

《王靖雯》封面

レコード会社は名前だけでなく、彼女のイメージ自体を作り替えようと、イメージコンサルタントを起用し、外見は近代的/コスモポリタンでありながら内面は男に尽くす伝統的な女性、という典型的なカントポップの歌姫としてプロデュースを行った。彼女がのちにインタビューで語っているところによると、「着るものも他の人に決められ、名前すら変えられ、全部他の人に決められて、自分ではないみたいだった」という(『カントポップ簡史』127頁)。

彼女を脱・大陸化して香港化/カントポップ化するこのプロデュースは、ある意味とてもうまくいっていた。1990年代初頭に彼女が歌姫として人々に知られるようになったころ、香港のエンタメ誌のなかで彼女が大陸出身であるという事実にあえて言及した記事はほとんどなかったという(論文「The anomalities of being Faye (Wong)」)。

だがそんなプロデュースに嫌気がさした本人は、1991年、「音楽の勉強」と称して半年間ニューヨークに留学に出てしまう。ここでR&Bやソウルなど新たな音楽からインスピレーションを受けた彼女は、香港に戻ったあと、新しいマネージャーをつけて、1992年に『Coming Home』をリリースする。

《Coming_Home》封面

北京行きの列車に乗る彼女の姿がもちいられ、まさに大陸への「帰郷」を感じさせるジャケットには「Shirley」に変わって本名の発音に近い「Faye」というイングリッシュネームが書かれている。サウンド面でも、それまでのアルバムにもみられたR&Bスタイルをさらに突き詰めたような曲調の曲が多く、英語で歌う『Kisses in the Wind』も収録された意欲作だった。

しかし、中国語名は「王靖雯」のままで、香港のオーディエンスが求めていたのもレコード会社が作り出した方のペルソナの方、すなわち伝統的なカントポップ歌手としての彼女の方だった。このアルバムからヒットとなったのは、収録曲のうち最も典型的なカントポップ・バラードである『容易受傷的女人』("傷つきやすい女";中島みゆきの『ルージュ』のカバー)だった。

ルージュをひいて出勤準備をするたびに、「口をきくの」や「つくり笑い」がうまくなってしまった自分の変化を思う女性を歌った原曲の歌詞が(たぶん夜の)客商売と女性のペルソナに対する深い省察になっていたことを考えるととても皮肉なことだけど、この広東語版の歌詞はただただストレートにカントポップ的「情熱的に待つ女」の気持ちを歌っている(作詞は、安全地帯の繊細なバラード『あなたに』のカバー『路中情』に車で荒野を疾走する男を主人公にしたマッチョな広東語詞をつけた潘源良だ)。

情難自禁 我卻其實屬於
(気持ちを抑えられない 私は結局)
極度容易受傷的女人
(とても傷つきやすい女)
不要 不要 不要驟來驟去
(どうか どうか もてあそばないで)
請珍惜我的心
(こんな私の心を)
如明白我 繼續情願熱戀
(わかってほしいの 愛してほしいの)
這個容易受傷的女人
(傷つきやすい女だから)
不要等 這一刻 請熱吻
(待たないで 今すぐに キスして)

のちに本人は「あれは私じゃなかった」と明確にこの曲のイメージを否定することになるのだけど、そんな彼女の気持ちを当時の聴衆は知るはずもない。この曲はこの年のTVB、RTHK、商業電台の主要3放送局から賞を獲得する大ヒットとなる。

1993年の2枚のアルバム、『執迷不悔』、『十萬個為什麽?』(十万個のなぜ?)で彼女は密かな変革を続ける。『執迷不悔』のタイトルトラックの北京語版では、自身で詞を書いて、カントポップ業界の慣例をやぶっている(論文:「Cooling Faye Wong」)。この北京語版が、1993年、女性シンガーによる楽曲で唯一のTVB年間ベストテン入りをはたす。

『十萬個為什麽?』からは、後に彼女の作品を多く手がけるようになる新世代の作詞家・林夕が作詞した『冷戰』がヒットした(この黄金タッグはいくつもの名曲を送り出し、林夕は自分と王菲の関係を「名分なき夫婦」とまで呼ぶようになる)。恋人との冷え切った「冷戦」関係を歌う冷めた歌詞といい、お経のような奇抜なメロディ(アメリカの女性シンガーソングライター、トーリ・エイモスの"Silent All These Years"のカバー)といい、主流のカントポップバラードとはかけ離れたヒットソングだった。


既存のイメージからの脱皮を図る彼女の変身はついに1994年に完成する。この年6月末にリリースされた『胡思亂想』のジャケットに、はじめて本名である「王菲」がクレジットされたのだ。

画像4

ついに彼女はレコード会社が作り出した「王靖雯」、「シャーリー・ウォン」のペルソナから完全に抜け出し、今後は本名で活動を行っていく。

そして7月、このアルバムに収録されたクランベリーズのカバー『夢中人』を主題歌とする世界的大ヒット映画『恋する惑星』が公開され、世界がフェイ・ウォンを知った。


カントポップの歌姫の殻を破り世界に羽ばたいた彼女は、続く『討好自己』(自己満足)というアルバムのタイトルで、まさに業界やオーディエンスのためではなく自己表現のための活動を宣言し、翌年の『Di-Dar』を最後に広東語アルバムをリリースしなくなる。

画像3

(『討好自己』のジャケットで、タバコ片手に股を開いて腰掛け、まっすぐこちらを見つめる彼女の姿には、もはやかつての「傷つきやすい女」、シャーリー・ウォンの面影はない。)

自信が作曲した表題曲の『Di-Dar』は、「でぃーだぁーrrrr」と長く響くそり舌の「R」の音が、北京など北方の中国語の特徴である「児化音」のようで、彼女がついに取り戻した自分のルーツを表現しているようにも聞こえる。広東語にはこの音はないから、これまでのカントポップでは絶対に聞かれなかった音だ。

その後、北京語歌謡に活動の主軸を置くようになった彼女は『紅豆』(1998)、『當時的月亮』(あの時の月;1999)といった名バラードをヒットさせ、マンドポップ(=北京語ポップス)の世界で活躍することになる。

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フェイ・ウォンの変身、あるいは自己回帰は、香港における北京語文化の比重が高まる時期とも重なっていた。

1990年代初頭にケーブルテレビや衛星放送が普及しはじめると、TVBやRTHK、商業電台といった既存の広東語放送局が独占していた香港のメディア消費に新たな選択肢が生まれるようになる。スターTVやMTVといった衛星放送局は、既存放送局との競争を懸念した香港政府から広東語放送の認可を与えられなかったため北京語や英語で放送を行ったが、これが皮肉にも香港ショウビズ界における北京語の台頭をまねくことになった。ミュージシャンたちは衛星メディア対応のためにこぞって北京語を勉強をし(『レスリー・チャンの香港』206-208頁)、また香港の消費者は台頭しつつあった台湾、シンガポール、マレーシア、そして中国大陸のマンドポップを直接に消費することが可能になった(『カントポップ簡史』124-125頁)。

同じ時期、前項でみたサンディ・ラムのように、業界の独占がピークに達し、固定化されたイメージの蔓延する香港の楽壇を避けて、マンドポップ界の進出を目指す歌手もでてきた。

『カントポップ簡史』は、そのような例として、日本でも周星馳(チャウ・シンチー)映画での体当たり演技でよく知られた莫文蔚(カレン・モック)をあげている。たしかに彼女は、一部の映画主題歌を除いて、長いキャリアの割にこれといった広東語での代表曲がない。一方で台湾での人気は圧倒的らしく、2003年に香港出身の女性シンガーとしてはじめて台湾楽壇最高の栄誉である金曲奨最優秀国語歌手賞を受賞している。


北京語曲である『短髪』(1997)や『膽小鬼』(1998)で歌手としてブレイクしたボーイッシュな短髪がトレードマークの歌手・女優の梁詠琪(ジジ・リョン)も同様の事例だろう。


マンドポップ市場の台頭により、香港カントポップは華人ポップス世界の唯一無二の震源地としての地位を失った。1990年代中盤以降、カントポップ業界は止まらない売り上げ減少に悩まされることになり、1996年に18億香港ドルだった広東語歌曲の推計売り上げ高は、1998年には半分の9億にまで下落する(朱耀偉,梁偉詩『後九七香港粵語流行歌詞研究』亮光文化、2015年、12頁など)。

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1995年以降、カントポップ・アルバムのリリースをやめたフェイ・ウォンだけど、その後もいくつか作詞家・林夕とのタッグで広東語曲をリリースしている。というか、もはや嫌々歌わされているわけではないからなのか、今でも聞かれ続けている彼女の広東語での人気曲は案外この時期のものが多かったりする。

1997年には、防犯カメラ画像風のジャケットがユニークなEP『玩具』をリリースし、『カントポップ簡史』が「カントポップ史上屈指のロマンチックな2曲」(129頁)まで絶賛する名曲『暗湧』と『約定』をヒットさせている。


『暗湧』は、渦巻いていく疑念、影ながら湧き上がる感情(=暗湧)、そしてそれを表に出せない気持ちを、まさに暗く湧き上がる水の流れのようなメロディーにのせてアンニュイに歌いあげていて、まさに当時のフェイ・ウォンらしい、彼女にしか歌えなかったであろう歌だ。

害怕悲劇重演 我的命中命中
(悲劇の再演が怖い この私の生の中)
越美麗的東西我越不可碰
(美しいものほど 触れられなくて)
歷史在重演 這麼煩囂城中
(歴史が繰り返す この喧しい街で)
沒理由相戀可以沒有暗湧
(秘めた感情のない恋などありえない)
其實我再去愛惜你又有何用
(実際また君を愛したとして何になる)
難道這次我抱緊你未必落空
(今度は裏切られないとでもいうのか)

仍靜候著你說我別錯用神
(でもじっと待つ 考えすぎだと 君が言うのを)
甚麼我都有預感
(いつも私には予感があるのだ)
然後睜不開兩眼
(そして両眼をあけられなかった)
看命運光臨
(運命のおとずれを見届けるのに)
然後天空又再湧起密雲
(そして再び空に 暗雲が立ち込める)

この歌は、どういうわけだかLGBT/クィア界隈での人気も高いらしく、黃耀明が若干テンポを落としたアレンジの非常に印象的なカバーを残しているほか、香港におけるクィア文化を扱った学術書のタイトルとしても引用されている。型破りな彼女のスタイルが、規範を外れて生きる人々の支持を得ていたことのひとつの証拠だろう。

一方の『約定』(約束)はオーソドックスなバラードで、大切な相手との忘れられない旅の思い出を歌う(旅館や弁当が出てくるので多分行き先は日本だ)。

還記得當天旅館的門牌
(まだ覚えてる あの日の旅館の住所)
還留住笑著離開的神態
(まだ心に残る 笑ってわかれた様子)
當天整個城市那樣輕快
(あの日は町中が あんなに軽やかで)
沿路一起走半哩長街
(半マイルもの道を 一緒に歩いた)

還記得街燈照出一臉黃
(まだ覚えてる 顔を黄色く照らした街灯)
還燃亮那份微溫的便當
(まだ照らされて ほのかに暖かいお弁当)
剪影的你輪廓 太好看
(シルエットの君の輪郭が 素敵すぎて)
凝住眼淚才敢細看
(涙を堪えて やっと見入っていられた)

覚えていること歌うAメロに対して、サビでは一転、忘れてしまうことについて歌う。

忘掉天地 彷彿也想不起自己
(忘れてしまえば 自分も思い起こせなくなる気がする)
仍未忘相約看漫天黃葉遠飛
(舞い散る黄葉を見に行く約束は まだ忘れてないけど)
就算會與你分離 淒絕的戲
(たとえあなたと別れても その壮絶なドラマも)
要決心忘記 我便記不起
(忘れると決めたら もう思い返さない)

でもさらにその続きでは、また歳を重ねても忘れない約束が歌われる。

明日天地 只恐怕認不出自己
(明日になって 自分が誰かわからなくなったとしても)
仍未忘跟你約定假如沒有死
(君との約束を忘れなければ 死なんてないようなもの)
就算你壯闊胸膛 不敵天氣
(君のそのたくましい胸が 天気に敵わなくなっても)
兩鬢斑白 都可認得你
(どれほど髪が白くなっていても 君だってわかるから)

そんな覚える/忘れるという対比に加えて、具体的で映像的なのに想像の余地が多くあって、強い後味を残すとても印象的な歌詞になっている。この歌詞は林夕としても傑作だったようで後の詞でも度々引用しているし、「要決心忘記 我便記不起」のフレーズは、小説家とのコラボ本(彼の詞にあわせた短編小説が収録されている)のタイトルにもなっている。

フェイ・ウォンの広東語のみを収録した作品は、これが最後になったけど、このあとも彼女の北京語アルバムにはボーナストラックとして広東語版が収録されている。なかでも、個人的には1999年の『只愛陌生人』(ただの他人を愛すだけ)に収録された『郵差』(郵便屋さん)が、彼女の曲のなかで、そして林夕の詞のなかでも一番といっていいほど好きな曲。

この曲は『約定』からの引用が散りばめられたある種の続編なんだけど、旅館の住所も忘れる、道も間違えて大回りする、弁当も冷めてしまっているなどなど、対照的に何をしてもうまくいかない、冷え切ってしまった関係を歌っている。悲しい歌なのに好きな理由は「郵便屋さん」というタイトルを回収するサビの圧倒的に美しい比喩があるから。

你是千堆雪 我是長街
(君が降り積もった雪なら 僕は長い街道で)
怕日出一到 彼此瓦解…
(日が昇れば きっと二人は分かれてしまう)…

你是一封信 我是郵差…
(君が一通の手紙なら 僕は郵便屋さんで)…
忙著去護送 來不及拆開
(大切に運ぶのに忙しく 開けてみる間もなかった)
裡面完美的世界
(中に入った美しい世界)

この悲しい関係性は、ある種カントポップとフェイ・ウォンの関係を考えるうえでも示唆的だと思う。大切に売り出そうとするために、名前をあたえ、服をあたえ、曲をあたえ、カントポップ業界は彼女をパッケージのなかに閉じ込まった。結局、彼女の内側にあった本当の魅力は、そこから飛び出して「フェイ・ウォン」として世界に羽ばたくことではじめて発揮されることになってしまった。

『傷つきやすい女』とは全く違う彼女の姿に香港の人々がどれほど驚いても、香港メディアが彼女を破天荒なお騒がせタレントとして報道しても、もうどうしようもなかっただろう。結局、カントポップは王菲自身ではなく「王靖雯」という「ただの他人を愛していただけ」にすぎなかったのだから。

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フェイ・ウォンが作り上げられたイメージを突き破り、カントポップ業界のアイドル生産システムの欠陥があらわになったとき、ひっそりとその業界の改革に乗り出していたのは、彼女の盟友・林夕と、そしてもうひとり、彼とともに凋落後のカントポップを担うことになる作詞家だった。

偶然にも同じ名前をもつこの2人の詞が、未来のカントポップの「声」となる。

→ (4)別人的歌:ふたりのワイマン

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