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食卓と映画——『お茶漬けの味』上映に寄せて②

○○と映画」シリーズ@倉吉シネマエポックもあっという間に最終回。2021年11月14日(日)、トークゲストに蒜山耕藝の高谷裕治さんと絵里香さんを迎え、小津安二郎監督『お茶漬けの味』(1952)の上映を行います。「食卓と映画」というテーマを踏まえて、今回も二回に分けて作品の見所を紹介したいと思います(前回の記事は以下から読むことができます)。

映画と食

「映画と食」というテーマには、何かしら人の気を惹きつけるものがあるようで、すでに数多くの本が出版されています。例えば映画評論家・渡辺祥子さんの『食欲的映画生活術』(早川書房、1992)を始めとする著作や、斉田育秀さんが食品メーカーで長年食文化を研究してきた立場から著した『映画のグルメ——映画と食のステキな関係』(五曜書房、2012)。『かもめ食堂』『めがね』などを手がけたフードスタイリストの飯島奈美さんが、映画に登場した料理を実際に食してみたいという要望に応えたレシピ集『シネマ食堂』(朝日新聞出版、2009)も好評を博しました。

ネット上では、しばしば「ジブリ飯」が話題に上ります。ジブリ作品に登場する美味しそうな料理をランキング形式で紹介するものや、実際に作るためのレシピを公開するものなど、様々な角度から特集記事が組まれています。

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2009年に『深夜食堂』(原作:安倍夜郎)、2012年に『孤独のグルメ』(原作:久住昌之、谷口ジロー)がドラマ化されたことをきっかけにして、2010年代にはグルメ漫画・ドラマブームが巻き起こったことも記憶に新しいでしょう。2019年にはまさに「映画と食」をテーマとして、邦画好きの女性が映画に登場する料理を味わうグルメ漫画『シネマごはん』(福丸やすこ)も刊行されました。

ちなみに『孤独のグルメ』原作2巻収録のエピソード「東京都三鷹市下連雀のお茶漬けの味」には、「お茶漬け みはと」(現実の店名は「みさと」)と書かれた看板を見た井之頭五郎が、小津の『お茶漬けの味』を思い浮かべながら店に入る場面が出てきます。ストレートなタイトルも相まって、ふとした時にその場面を想起させる魅力が『お茶漬けの味』にはあるのかもしれません。

海外のグルメ作品では、Netflixオリジナルのドキュメンタリーシリーズとして2015年から始まった『シェフのテーブル』(原作・制作:デヴィッド・ゲルブ)がおすすめです。まるでアンドレイ・タルコフスキーがグルメドラマ制作に乗り出したかのような、繊細で贅沢な料理を記録した、高精細で贅沢な画面を味わうことができます。

ローポジションから見る食卓

小津映画といえば「食」というのは多くの人の認めるところで、上述の書籍やその他の批評・研究書でもしばしば取り上げられています。中でも映画評論家の貴田庄さんは、作中に登場する料理や食事シーンを丹念に分析した『小津安二郎の食卓』(ちくま文庫、2003)や、小津自身が残したグルメ手帖を頼りに東京の名店を紹介する『小津安二郎 東京グルメ案内』(朝日文庫、2003)、『小津安二郎 美食三昧 関東編』『関西編』(朝日文庫、2011)を著し、小津と食の関係を深く掘り下げています。

蓮實重彦さんもまた著書『監督 小津安二郎』(筑摩書房、1983)の中で、「味覚が彼の映画の重要な主題論的な細部を構成している」「料亭や茶の間の食卓がなければ、小津の物語は始まることも終ることもできないほどだ」と述べ、その重要性を指摘しています。

けれども同時に蓮實さんは、「料理は小津の画面から視覚的に排除されている」とも述べています。小津映画の定番といえる、ローポジション(低い位置)に置かれたカメラからの撮影では、食卓に並んだ食器の中味は決して見ることができません。実際、個々の作品を見返してみると、「小津映画といえば食」という印象とは裏腹に、料理そのものが映し出されている場面が驚くほど少ないことに気づくでしょう。器の中身を見せることこそを重視する『深夜食堂』や『孤独のグルメ』、『シェフのテーブル』とは対極的ともいえる「食」の捉え方です。

では小津映画で、料理の代わりに提示されているものは何でしょうか。

それは料理についての語りであり(「うちの近所にとても美味いトンカツ屋があるんですよ」、「パンどう?」「ううんお茶漬け」)、暖簾や看板であり(作中に登場する印象的な「カロリー軒」は、1931年に小津が監督した『東京の合唱』にも同じ店名が出てきます)、側面から見た皿やコップであり(物撮り写真のように模様がよく見えます)、料理を前にした家族の視線と会話であり、そして食器の音や料理をすする音です。ここからは、小津映画に描かれているのが「食」というよりもむしろ「食卓」なのだということが分かるでしょう。(だからこそ、今回の上映テーマも「食卓と映画」なのです。)

お茶漬けの位置付け

阿古真理さんの『昭和の洋食、平成のカフェ飯——家庭料理の80年』(ちくま書房、2013)は、映画に限らず、ドラマやCM、漫画や小説など各種メディアに描かれた料理を見つめることを通じて、日本の家庭料理の歴史を概観しようという壮大な試みです。第一章では『お茶漬けの味』も紹介されており、小津は「西洋化が進む都会と、旧来の文化を残す田舎」という文化のギャップを描き出したと述べられています。

いつも着物を着ているけれど西洋風の私室を持ちベッドで眠る妙子と、いつも背広を着ているけれど床の上で眠る茂吉の対比(デヴィッド・ボードウェル『小津安二郎——映画の詩学』)からも読み取れるように、戦後日本の矛盾した生活様式や男女の分裂を描きながら、それらの対立を解消するきっかけとして「お茶漬け」という料理は機能しているのです。

お茶漬けだよ。お茶漬けの味なんだ。夫婦はこのお茶漬けの味なんだよ。(小津安二郎『お茶漬けの味』より)

1840年に刊行された『歌舞妓年代記』に「こんなことは茶漬めしだ」という表現が見られるように、お茶漬けは江戸時代にはすでに庶民の日常生活に浸透していました(永谷園「お茶漬け(お茶づけ)の歴史」)。『お茶漬けの味』でも、お茶漬けは素朴な庶民的料理を象徴するものとして描かれているように思えます。

ここで興味深いのが、『美味しんぼ』の海原雄山のモデルともなった北大路魯山人が1960年に刊行したエッセイ『春夏秋冬 料理王国』(淡交新社)に収録されている「お茶漬けの味」という章です。

財力豊かで、刺身よかれ、牛肉よかれと、どんな材料でも、手に入れることに少しも不自由のない人が、贅沢料理に飽きて、簡単な美味いもので食事がしたいという場合がある。これは体内にお医者さまの言う栄養が充ち満ちて、生理上、栄養が不必要になった時だ。かような時、茶漬けで飯が食いたいということになる。(『春夏秋冬 料理王国』より)

章のタイトルと刊行年を考慮すると、小津の『お茶漬けの味』を意識した一文である可能性はじゅうぶんにありそうですね。たんに映画のシチュエーションを思い出して深い意図もなく記述しただけとも考えられますが、魯山人がお茶漬けを裕福な家庭にとっての嗜好品として捉えているのだとしたら、それはそれで面白いなと思います。都会的な生活様式を志向する妙子が、庶民的な生活を好む茂吉に歩み寄るために、お茶漬けはまさにうってつけな食べ物だったということになるからです。

ちなみに貴田庄さんの『小津安二郎の食卓』および『小津安二郎 東京グルメ案内』によると、小津自身もお茶漬け好きで、燻製の鮭を乗せて食べるのを特に好んだそうです。他にも、築地の天ぷら屋おかめでかき揚げを乗せて煎茶をかけた天茶漬け、竹葉亭銀座店の鯛茶漬け、京都の老舗かね庄の鰻茶漬けなどを好んで食べたと記されています。

漬けること、あるいは「ぬか漬け」の味

最後に、タイトルに冠されているお茶漬けの裏に隠れて、あまり言及されることのない「ぬか漬け」についても触れておきましょう。ぬか漬は北九州が発祥の地であるとされています。精米の際に発生する米糠に塩水などを練り混ぜ、容器に詰めて糠床とし、そこにキュウリやナス、ダイコンなどの野菜を漬け込むことで作られます。

深夜に台所に入った茂吉と妙子は、お茶漬けを食べるためにご飯とぬか漬けを探します。妙子がぬか漬けの鍋を見つけてキュウリを掴み出し、ぎこちなく包丁で切る様子を心配そうに見つめる茂吉。ちゃぶ台に食事を運び、茂吉がお茶漬けの一口目を食べて「美味いよ」と呟きます。妙子は箸を持った手のにおいをかいで「ぬか味噌臭い」と言って笑い、彼女の手に鼻を近づけた茂吉も「君の手が驚いてるんだ」と言って笑うのです。

ところで蓮實重彦さんは『監督 小津安二郎』の中で、小津の「僕は豆腐屋だから豆腐しか作らない」という宣言を鵜呑みにしてはいけないと呼びかけ、トンカツ/豆腐、しつこいもの/さっぱりしたもの、高価で料亭的なもの/安価で家庭的なもの……といった単純な二者択一の図式に陥らないように注意を促しています(そこには、先述した西洋/東洋や都会/田舎、男/女といった対立も含まれるでしょう)。そうではなく、「異質の複数の要素の同時的共存の場」として小津映画を捉えるべきだというのが蓮實さんの主張です。

サラダボウル、闇鍋、ゴッタ煮、お好み焼きなどなど、「異質の複数の要素の同時的共存の場」という言葉から連想するイメージや言葉は(食に限っても)様々にありますが、小津映画にふさわしい言葉はやはり「ぬか漬け」ではないでしょうか。サラダボウルや闇鍋のように食材を豪快にかき混ぜるイメージよりも、ぬか床に食材を漬け込み、日々手入れをしてやりながら発酵と浸透が進むのを待つようなイメージのほうが、しっくりくるような気がするのです。

そのようにして『お茶漬けの味』を見返すと、「漬けること」にまつわる豊かなイメージが連鎖していくのを感じることができます。ご飯をみそ汁に漬けて食べる茂吉。その食べ方を嫌悪しながら、やがてぬか床に手を漬ける妙子。その手に浸透したにおい。ご飯にお茶に漬けて食べる二人。「夫婦はこのお茶漬けの味なんだよ」という台詞は、夫婦とは、同じぬか床に住まい、相互に発酵と浸透を続ける中で生まれた味のことだと読み替えることもできるのではないでしょうか。「ぬか漬けだよ。ぬか漬けの味なんだ。夫婦はこのぬか漬けの味なんだよ」と。



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