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「音楽・平和・学び合い」(25)

◆【実践研究論文】
  【不登校をめぐる教師としての「自己物語」の変容】(6)
   ~中学三年男子生徒の事例を通した「ナラティブ的探究」の試み~

3.学習指導の側面から
〈フィールドテキスト3〉
8月24日
 17:00電話すると祖母が出て、本人と替わってもらう。すぐ家庭訪問に行くこととし、電話を切る。10分後到着し、インターホンを鳴らしたら本人が対応。すぐ祖母がドアを開け、その後ろに彼が立っていた。今まで無かったことなので嬉しく感じる。居間へ移ると、机の上に日記とシャープペンが揃えておいてある。そこに前向きな意欲を感じる。ゆっくりと日記を読ませてもらいながら、1時間ほど対話する。これまでになく様々なことを語り合うことができた。以下、特記すべきことのみ列挙する。

・書く分量は、少ない時で10文字程度(例:特に何もなかった…)だが、書けているときは4行近くあり、徐々に書けるようになってきている。漢字の使用も増え、ほとんど誤字もない。「とく」(特)を「持」と書いていた日があったが、2日後には正しく書けていた。「遊ぶ」など、少し難しめの字で、前回までに触れて指導したものは、使えるようになっている。

・「今日は普通の日だった」という記述に対して、「普通ってどんな感じ」と朝起きてから寝るまでの時程を質問した。起床は9時とのことで、1学期に昼まで寝ていたことに比べ、大きな変化だと褒める。午前中は特にやることなく、昼食は午後1時。ここで24時間を通した時の時刻の呼び方について確認。午後1時を13時と呼ぶことができたので、幾つか問題を出して他の時刻についても確認する。これはきちんと理解していることがわかった。午後はTVかゲーム。一人の時は外に出かけることはないとのこと。夕食は19時。食後もTV・ゲームで、就寝は23時と言っていた。
(「しゅうしん」と言う言葉を知らなかったので、漢字と共に教える)

・インタビューした内容を私が書き取り、彼に見せ「どう、何か足りないものない?」と聞くと、小さな声で「勉強」と言う。日記以外に勉強をした様子はないので、「やっぱりやらないとね」と学習の必要性を話題にする。その後、文章を書くコツとして「5W1H」の話をし、日記に書きながら説明。「いつ、どこで、だれが、なにを、どうした」ということを具体的に書くと、もっと長い文章が書けるということを話して聞かせる。

・3日に1回のペースで友人たちと、外でも家でも遊んでいるとのこと。そとでは鬼ごっこや「かたき」、家ではゲーム(「遊戯王」のカード、コンピュータ)で遊んでいるらしい。ゲームのことを詳しく聞いているうちに、「遊戯王」の遊び方を実際にカードを使いながら教えてもらう。ルールは非常に複雑かつキャラクターの名前も難解(難しい漢字に横文字の呼び名/宣告者:デクレクター…)で、ハングルもでてくる。これを小2から始めたが、最初は全然わからなかったとののこと。小4の時にDに詳しく教えてもらい、ある程度自由に遊べるようになるまで1年かかったという。

 使う用語も英語がほとんど、日本語も「召喚」など難しい言葉ばかり。10分ほどレクチャーを受けたが、私はまったく理解できなかった。ゲームとはいえ、これだけ高度な概念を理解しているのだから、ここを切り口にすれば、もっと学習への意欲を喚起できるのではとの考えが浮かぶ。
・他には家族で祖父の出身地に出かけ、法事に参加したことや、温泉に泊まってゆっくりしたことなどが記されていた。事実だけでなく、どう感じたかということも短く書かれており、良い傾向かと感じる。

・最後に「居間にあったコンピュータどうしたの」と聞くと、妹らが使っている部屋に移動したとのこと。「遊戯王」のアニメをYouTubeで視聴していると言っていたので、「次からコンピュータを使って学習してみないか」と誘う。乗り気なので、宿題として1学習(勉強)に活用できそうなサイトを探してみる。2行きたい高校(友人Eが通う通信制)のHPを検索して見ておく、という2つをお願いし、日記に私が書いておいた。コンピュータはローマ字入力ができるということなので、高校名のローマ字表記もメモしておいた。

 日記を使った学習も今回でようやく3回目だが、それなりに手ごたえを感じることができた。今後は加えてパソコンによるe-learningを加えて、彼の関心に沿った効果的な学習法を模索していきたい。以前母親に紹介した「らくだメソッド」にはDS版があるとのことなので、少し調べて、次回紹介してみたいと思う。

 母親が出張に行った日の記述に「お母さんが本州に1年くらい行ってしまうが、月に1回は帰ってくるので1安心(ママ)」という様な内容が書かれていた。「一安心」と全部漢字で書くのが正しいと指導したのち、さりげなく「しばらくお母さんいないみたいだけど大丈夫」と聞いてみた。うまく言葉にはならなかったが、表情からは複雑な心境を読み取ることができた。帰り際、玄関先で祖母に状況を尋ねたところ、急に本部から話があり、9月にオープンする病院の開院準備で、長期滞在となるようだとのお話。母親不在でも定期的に家庭訪問させていただくことをお願いし、加えて土日でも構わないので、お母さんが帰札の折には是非連絡をいただきたい、とお願いして学校に戻る。

〈リサーチテキスト3〉
 フィールドテキスト2で紹介した「花火事件」をきっかけに、週一回ペースで家庭訪問し、顔を見て世間話ができる関係になっていった。クラスで取り組んでいた「振り返りジャーナル(日記)」をAにも書いてもらうことにし、7月からはほぼ毎日、欠かさず書くようになっていた。それまでは、小学生用の計算ドリルに取り組んでいた時期もあったようだがほとんど定着しておらず、筆記用具を持ったのも、7月初旬に進路希望調査を書いてもらった時が半年ぶり、という様な状態であった。最初は名前を書くのも精一杯だったが、焦らず、ゆっくりと待って「字うまいね」と大げさに認めたこともあって、徐々に抵抗感が薄らいでいったようだ。

 書く中身は食事の内容がほとんどで、時には自分で食事を用意することもあることが見えてきた。親不在で、祖父母が生活を支える環境に痛みを感じつつ、最後におずおずと語った母親の長期出張については、応答する言葉を失ってしまった。不登校と共に始まった父親不在の生活、更には母親も月一回しか帰ってこない状態をどのように彼は受け止めているのだろう。福井雅英の「共感には、その子の世界を共有するという内実が重要」25)との指摘は常に念頭にある。しかしAの「1安心」との表現の背後に、言葉にし得ない孤独を感じ、彼の世界を共有するとは果たしてどういうことなのか、と私自身が深く不安になったというのが偽らざる心象であった。

 しかし、だからこそ、縁合って彼の生存・成長・発達に寄り添う機会を与えられた者として、ジャーナルを通して彼の内面を深く想像することや、対話的な学びの積み重ねから彼の能力を彼の関心に沿って引き出すことの大切さを、強く胸に刻むエピソードとなった。

 「家族のストーリー」を引き受け、伴走しながら共に「人生のカリキュラム」を綴る。その時に必要なのは、庄井良信の言う「共存的他者」26)としての構えを自らに課すことなのだろう。いつか彼が成長し自立できるようになった時に、「あの苦しい時代を共に歩んでくれた人がいたな」としみじみと振り返ってくれるような存在として、彼に寄り添いたいと想い直す転機となった。Aの困難に充ちたストーリーを、共に語り直し、生き直すこと、即ち「再ストーリー化restorying」することが、発達援助者としての私に求められていたのではないか。Aに限らずどの生徒に対しても、共に人生のストーリーを綴る共著者/共同研究者として向き合うこと、それを通して自らの傷つき体験も「再ストーリー化」して乗り越えていくことが可能であるように思われる。ハーマンが『心的外傷と回復』で論じた、損なわれた自己damaged selfから関係的自己relational selfへの変化という構図は、不登校を理解する上でも有効であろう。外傷性記憶からの回復の物語を語り直し「ストーリーを再構成する」27)することについて、改めて熟考することが必要であるように思う。

【注】
25)福井(2009)p.21
26)庄井良信『自分の弱さをいとおしむ-臨床教育学へのいざない」
                       高文研(2004)pp.64-73
27)J.L.ハーマン(中井久夫訳)『心的外傷と回復〔増補版〕』
                    みすず書房(2011)pp.275-283

===編集日記=== 
  皆様に支えられて「日刊・中高MM」第3344号です。
  笹木陽一さんの「音楽・平和・学び合い」、お届けします。
 【不登校をめぐる教師としての「自己物語」の変容】(6)
  3.学習指導の側面から
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