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#108 しあわせさがして

2023年は変化の年だった。年明けに23年ぶりとなる修士論文を提出、AI 分野で大学院修了、3月に進学が決まり、6月に note 開始。8月にドイツへ渡り、体調不良〜回復を経て今ここにいる。この一年のタイトルは、「しあわせさがして」だったと思う。
 辞書を引くと、探すの意味の熟語には「探究」「探求」の二つの漢字があるが、「探究」は求めるものの最終形が分からないながら追い求めること、「探求」は求めるものの概形が分かっている場合にそこに到達すること、とあった。さしずめ2023年は「探求」に必要な「求めるものの概形」を描いた一年だった。



500年の進歩に終止符?

今年の6月に立教大学で講演させていただいた時、「人類の知性の歴史」を次のようにまとめた。知性を「自分の頭で考えて行動する」ことと定義するならば、その歴史は1522年に始まり、2022年に終わった(と後年分析されるかもしれない)と少し大袈裟に警鐘を鳴らした。

ドイツのマルティン・ルターによる1517年の宗教改革の5年後、1522年は聖書のドイツ語訳が広まった年だ。それまでの聖書はヘブライ語やギリシャ語で書かれた原典をラテン語に訳したものだったので、ごく一部の聖職者しか読む事ができなかった。民衆は教会で「エライ人の話」を聞き、それを鵜呑みにして従っていただけに近かった(この状態は「知性がない」と考える)。そんな彼らが、自分で聖書を読み、考えることを始めた年が1522年というわけだ。

先の投稿「#105 PAX VOBISCUM 〜平和とともにありますよう〜」でまとめたように、その後プロテスタントの流れはイギリス、アメリカと広がり、「自分で考えて行動する」伝統と方法は一旦の終着地となったアメリカで花開き、現代科学の中心地となった。GAFAM がなぜアメリカでしか生まれ得なかったかはこの歴史が語っている。

そんな1522年からちょうど500年後の2022年、つまり昨年、人類の知性の歴史の流れを変えたかもしれないと思われる出来事が起きた。この考え方は大袈裟だと多くの人に言われたが、僕はそんなことはないと思っている。ChatGPT が発表されたのだ。ChatGPT の基幹技術は実は新しいものではなく、既存技術から生み出されたとんでもないイノベーションだった(中心技術は下記論文を参照されたい)。


note 住民には見えづらいもの

ある日、AI 専攻学生が集まった場での会話だ。ほとんどが30〜50代で、経験豊富で知恵もある立派な大人たちだ。

ー 最近の学生は就活のエントリーシート(ES)は自分では書かないそうですね?
ー ChatGPT に書かせてちょちょっと訂正、って感じの学生が多いようです。
ー それを読む側は?
ー 送られてきた ES のテキストデータをAI 処理して、機械に読ませますよ。
ー 応募から採用までほぼ全部自動化されつつありますね〜
ー 入社した後の仕事は?
ー コードの自動生成モデルもあるから、必要なプログラマーの数は激減ですね。
ー 事務系の仕事も AI にやらせれば、クオリティは下がっても安く上がるしね。
ー 将来、人間何するんですかね?

これまでは、職務経歴書や ES を書くのは大仕事だった。自分の興味、関心、能力の「棚卸し」をして、それを項目別の文章にまとめる過程で、自己を少しずつ理解していく知的作業を自然に経験することができた。
 しかし、上の流れで仮に ChatGPT などの生成系言語モデルが「完璧な文書」を出力できるようになってしまうと(現在、国家レベルでそのための研究が行われている)、人間が時間をかけて考えて、自己を振り返り理解できる作業が、失われてしまう。先の投稿「#27 何のために書くか 〜ChatGPT考〜」もぜひお読みいただきたい。

世の中全体がその流れになってしまうと、「自分はそのプロセスが大切だと思う」という理由で、AI が数十秒でできる作業に数日を費やすことは、社会構造的に難しくなる。周囲でも、「やっぱり自分で書きたいと思ってたけど、最近は ChatGPT に移行したよ」という人が増えている。
 ちなみに、僕は ChatGPT などの言語モデルと人間の分業について、技術サイドから研究している一方、note 記事でも論文でも、文章を書くために生成モデルを使ったことは、一度もない。書く作業の中で頭の中が整ってくる感覚と、その過程で得られる豊かな知的経験を手放すのはもったいなさすぎる。

僕の感覚では、我々が1522年以前の人類に戻っていく帰路の旅がもう始まったような気がする。「教会のエライ人」が「AI 企業が作ったモデル」に置き換わった。そろそろ次のマルティン・ルターに出てきてもらう必要がある。
 立候補はするが、一人では持ちきれない重さなので、仲間が必要だ。学術界のみならず、多くの分野で同時多発的に運動を起こす必要がある。協力してくれる方がいらっしゃれば、コメントではなく、下の「クリエイターへの問い合わせ」からご連絡いただきたい(note は3月まで見なくなるので)。

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note の世界は、実は日本社会の縮図ではないと思う。note に集ったのは、「自分の頭で考え、悩み、苦しみ、見つけ、喜び、それを書く」かなり稀な人たちだ。多くの日本人は、生成系言語モデルが書いてくれるなら、それでいいと思い始めているようだ。仲のいい友人たちへのメールや手紙はこれからも自分で書くだろうが、社会における言語コミュニケーションの過半が AI に代替されると、コミュニケーションの意味、知性の構造は確実に変わってくる。

ぼかさずに言うと、モデルを提供する巨大 AI 企業(Google, Meta (Facebook), OpenAI など)が、利用料と引き換えに「知性を売る」時代の始まりだ。ここで、「お金と知性は引き換えにしない」という思いを込めて、下の記事を書いた。

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2024年の抱負〜大好きな飛行機のたとえで

さて、最後に2024年に向けての抱負を記しておこう。今の自分自身を飛行機に例えるならば、さしずめ2023年に多くの人や荷物、想いを詰め込みすぎて、最大離陸重量ギリギリといったところだ。国際線の飛行機が離陸するのに滑走路を目一杯使うように、僕も2024年の1〜2月は離陸のための滑走になりそうだ。

3月に note に帰ってきた時には、「どうにか離陸しました」と報告できるようにする。これが今のところ書ける最大限の新年の抱負だ。
 シートベルト・サインを日本の新年度4月が始まるまでには消灯させ、ゴールデンウィーク頃には最初の食事を出したい。そして夏にはすべての感謝を込めて再度一時帰国、先の投稿「#33 つくばウォーク 〜盛大なる1人イベント〜」で紹介したつくばウォークを行う。その時はきっと、一人ではなく誰かと一緒にチームで歩きたい。今思い描けるのはここまでだ。

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最後は、歌でも歌おうか

note をお休みするのはとても辛い。そして奇しくも記事の数は煩悩の数とされる108になった。今の気持ちは、大切なある歌の歌詞の最初の一節に代弁してもらおう。何十回もこの歌を歌うたびに背筋が伸びたが、もう一度伸ばそうと思う。72年前の1951年の作詞だ。

もゆる火の火中ほなかに死にて
またるる不死鳥のごと

ある歌の詞〜僕の原点といえる

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それでは、この投稿をもって2ヶ月間お休みします。みなさまどうぞよいお年をお迎えになり、3月にまたお会いできることを心より楽しみにしております。ありがとうございました☕️🍩🕯️
(2023年12月31日)

〜今日ぎりぎりまで見ております。みなさまのコメントお待ちしております〜


サポートってどういうものなのだろう?もしいただけたら、金額の多少に関わらず、うーんと使い道を考えて、そのお金をどう使ったかを note 記事にします☕️