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私と北条政子

こんにちは。佐々木 拓馬です。

「私と北条政子」というテーマをいただかなければ私は北条政子について海ほどは深くなくとも、この文章を書く前より深く知ることはなかっただろうと思います。

最初に正直に申し上げておきたいのですが、北条政子には全く興味がありませんでした。平安の終わりから鎌倉にかけての歴史は、なんだか華やかさもなく地味な印象でしたので、私を含めた多くの人が、なんの引っかかりもなくその先の戦国時代へと興味関心が向かっていくのではないでしょうか。義経と弁慶の悲劇の物語をかろうじて知っている程度でした。

もうひとつ、ライターになりたいと思う気持ちがあるのでこの文章を書いていますが、それよりも、田中泰延さんと一緒にお仕事ができるかもしれないということに心が躍りました。数ある田中さんの文章の中でも真っ先に思い出すのは「クソすごい」から始まる、映画「神々のたそがれ」について書かれていた記事です。この映画のことをこんなふうに書けるなんてクソすごいなと思いました。

そんな田中さんが、読者を持たぬ私の書いた文章を無条件に読者として読んでくれるという機会を目にしてクソ心踊らせたのです。鎮座する田中さんを想像すると、山よりも高く感じられ少し恐ろしくもなりましたが、読んでいただける読者が既にいるという事をよろこびに変えて、全く知らなかった北条政子の事を調べることからはじめました。

すると、なぜ鎌倉時代があまり面白くないと感じていたのか、なぜ北条政子という名前だけは知っているのにその人のことを何も知らないのかという謎が解けました。それは教科書をはじめとする多くの場合、主人公として存在しているのが源頼朝であり源義経であるからです。この二人はすぐ死んでしまいその後も時代は激しく続いていくのに、短いこの期間がものすごく分厚く紹介されています。

ここに北条政子の目を入れて見てみると、がらっと変わっていきます。そう、主人公は北条政子その人で、ファースト将軍・頼朝ではないのです。そうして見ていった時にどんどんその時代、その人物の魅力に引き込まれていき、面白い物語を読むように彼女のことを調べることが楽しくなっていきました。

そしてこの物語の中に「私と北条政子」という命題をみつけに行く旅がはじまりました。気が付くと、結婚を反対され監禁されていた政子が頼朝に会いに行くために山を越えていったように、私も部屋にこもり時空を越えて政子に会いに行く事に心燃やすスペクタクルなストーカーになっていました。このままでは出家させられてしまいそうです。いけない。私は、政子と一緒になるのではなく政子の中に私を探すのだ。いやまてよ、これはこれでやっぱりスペクタクルなストーカーに違いないから、ひとまず私自身のことを整理してみたいと思います。

私、佐々木は、両親の離婚と母の再婚をきっかけに現在は佐々木姓ですが、旧姓は三浦でした。その三浦の父への恨みからか、母は三浦姓を忌み嫌っており「三浦一族
というのがいて私たちの名乗る三浦姓はその末裔なのだ。こんなに不幸なのは三浦一族の呪いだ」と幼少の頃に何度も聞かされました。

私が三浦一族の末裔なのか真偽の程は定かではありませんが、まさか今、北条政子を調べる過程で三浦一族と再会することになるとは、なんとも不思議な気持ちです。そして今住んでいる場所が三浦半島三浦海岸であるということにも驚いています。北条政子とも地理的に関係の深い場所に住み、旧姓である三浦にも政子との縁があるにもかかわらず、私に大河ドラマの出演依頼が来なかったのが不自然なくらいです。

しかし、これらの偶然が本当に何かの呪いだとしたら、怖いです。でも私は今のところ不幸と感じたことはないので、この文章で田中さんが不幸になることもないと思います。どうぞご安心してお読みください。この先は保証できませんが。

元々は北海道の生まれですが小学校1年生の時に横浜の黄金町の辺りに引っ越してきました。ネオン輝く街です。そんなきらびやかな街よりも、私がひかれてよく遊びに行っていたのが本牧の方でした。多くの自然が残っていてとても綺麗な桜並木もあります。頼朝が政子の安産を願って作らせた段葛ほどではないかもしれませんが、綺麗な桜並木を見にいっていたことは忘れられません。

その横浜を出て2010年、私は東京の高円寺という場所で古着屋 vivid というお店をひとり営み始めました。MADE IN JAPAN の70's・80's をセレクトする古着屋でレディースのみの取り扱いです。政子があと797年だけ生きていてくれたらきっと気に入ってくれるような洋服だったと思います。長生きしてほしいものです。

その約4年後に vivid は閉店し、住む場所を三浦半島に移しました。

そのうちに農業をすることになりました。その農家の事務所や道具置き場があったのが三浦義村の墓の側でした。そこの農家は三浦半島の中でも広範囲に畑を持っている大きな農家でした。その数ある畑の中でもよく使っていた畑は、三浦市と横須賀市の境にある和田という場所で、和田義盛の墓と伝わる神明白旗神社と安楽寺跡のある近くでした。やっているときはそんなこと知らなかったので驚きです。義盛ももう少し長生きしてくれていたら、私の作っていた野菜をお届けしたのに。そうしたら戦の最中に「腹が減ったから相模国に帰る」などと言わなかったかもしれません。

そんな農業期間を経て、改めて三﨑というちいさな港街に2019年 、ichiru という古着屋を開きました。一縷の望みという言葉から「いちる」の響きがいいなと思い採用しましたが、頼朝も一縷の望みを持つ人でした。源氏が平家に敗れ、頼朝は流された伊豆の地でひとり静かにひとすじの希望に再起を誓います。その姿に政子が月か太陽を見ていたように、私も東京に負け、流れ着いた三浦半島という地で再び東京に戻らんと、太陽を掴もうと、一縷の望みでを見てこんな文章を書いています。橘の木で帽子を作ってかぶり続けようかと本気で考えています。三浦氏のシンボルであるかやの木の方がいいのだろうかと迷っているのですが、どちらがいいのでしょうか。

そんな今までと環境の違う三浦半島・三崎のちいさな港街で古着屋をやっていると、今まで興味のなかったことにも関心をもち、レースを学び始めました。じぶんで作ってみようと学んでいく過程で刺繍を始めたのですが、この文章を書いている今、それも偶然とは思えなくなってきました。しかし、頭髪で刺繍を編む気にはなれません。何かを表明する覚悟が私にはないのかもしれません。でもこの文章にも政子が頭髪梵字曼荼羅で表現したことが、少しだけだとしても含まれているような気もします。そう考えていると太字の箇所だけでも頭髪にしようかと思いついたのですが、田中さんの嫌がる姿が具体的にイメージできたので、あと一歩のところで踏みとどまることができました。ありがとうございます。

さて、ここまで長々と、スペクタクルなストーカーにはなるまいと私のことを整理してきましたが、大きな発見をしました。私は政子の周りにいた人物のようでもあり政子のようでもあるという、スペクタクルなストーカーならぬスペクタクルな思い込みを強く持つというスペクタクルな発見です。

私は義村ではありませんがもともと三浦であり、頼朝が伊豆半島に流れ着いたように私は三浦半島に流れつき、政子が月と太陽を袖に入れるイメージで行動したように私も洋服という月を信じてここまで歩いてきました。太陽がこの機会なのかもしれません。

北条政子という人、そしてその人がいた時代の歴史を紐解いていくと、不思議と私の中にも同じような物語があるように感じられ、勇気をもらったような気持ちになりました。その理由は、政子のやってきたことは「応援」という姿勢を通して、常に人を支えてきたと思ったからです。ゆるがずに人を信じることからはじめ、その相手を応援し続けたのだと思うのです。北条政子という人は私の中だけではなく誰の心にもいて、時に激しく力強く、そして優しく人を支えるような存在として、親近感を感じるようにもなりました。

今言ったこととは真逆のことのように聞こえるかもしれませんが、血なまぐさい戦乱の世を生きた北条政子を調べて知っていく中で、人を疑うという気持ちも強く持っていたのだろうとも思いました。しかしこれは、自分を強く信じていることの表れでもあるのだと思います。一方で人を疑うということの中にも、一方では大切な人のことを信じ、その信じている気持ちを行動に移すためにも、自分自身をさらに強く信じてそれを周りへの応援に変えていったということが、北条政子を知る上で大きな意味を持つ重要なポイントだと私には感じられます。

そんな北条政子という人に強く応援された源頼朝という人はきっと魅力あふれる人物だったのだろうなと思い馳せていたら、どんどん好きになってきました。主人公は一人ではなく、頼朝と政子の二人だったのです。頼朝のことが好きなどというと危ないということも私は学びました。政子に家を破壊されないように気をつけながら、私も人を応援できる人間になれるよう成長するためにも、まだまだ政子とのこの旅は続きそうです。

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