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柳論「後書きのための三十七のアフォリズム」

以下、ササキリユウイチ 川柳句集『馬場にオムライス』(2022/11/20)の巻末付録のアフォリズム作品。

***

後書きのための三十七のアフォリズム

1.

なお川柳はわれわれが書くうえに、またわれわれが読むだろう。

2.

川柳の下す裁断は、場合によっては絶対的な裁断となりうる。

3.

川柳は「場合によっては」を取り外す。だとすれば、「場合によっては……」と口にするあの表情を想定しながら川柳を読んではいけない。加えて、われわれは禁止に従わなければいけない場合がある。

4.

アフォリズムが企図することは、川柳も企図する。それ以上に、川柳の企図の数は多い。『ぐらついた不安定なあのチャペルで、私は二年間ミサを務めた。チェペルは古いリセの敷地内にあったが、一九五七年に損壊した。ミサの終盤には「最後の福音書」が唱えられ、私はみなと一緒にではなく、ひとりラテン語でそれを吟じなければならなかった。私はその音色が好きだった。その内容のもつ迫害の雰囲気も気に入っていた。だが、その言葉を否定しないように(In principio non erat Verbum, etc.「はじめにことばがなかった」、等々)みずから諫める必要が私にはあった、すべてを否定してしまいたいという欲求を絶えず抑えつけなければならなかった。(パスカル・キニャール『秘められた生』(水声社)、小川訳、p295)』欲求を抑えつけなくてもよい。われわれは無干渉を超えた無干渉を支持する。

5.

例えば(例えばということばはいつでも省かれうる。)検証と反証の非対称性が気にかけられることはない。コプラが言わんとすることと、素朴な定義によって規定される加法における任意の等式との近さ。この二つから、あるいはこの近さという関係それ自体から、遠い場所に川柳はいる。この近さはコプラへの注釈する権利の正当性と、加法の正当性とのアナロジーに由来する。コプラは、故に常に反証の餌食になることを恐れる。しかし、川柳は「それ以上」を定型という事件によって免れうる。

6.

断定とは、子供らしさである。

7.

定型を支持する母体は、われわれである。そもそも定型が母体によって支持されるものであることを、われわれは時に忘却する。

8.

なお、川柳は注釈をコプラと同様に拒否しない。しかしながら、拒否する強い権利を持っている。

9.

別の仕方で、は七音である。川柳において歓待される欲求は、別を歓待することである。この別へ赴くことを表す最良の日本語は別の仕方で、という副詞である。副詞は用言を修飾する。ところで、体言ですら用言である。川柳における名詞はリフレインすることで動詞になる。「arc cosin 別の仕方で」といった具合に。その響きは赤が赤くなる仕方とともにある。

10.

弁解の余地があるとき、われわれは弁解を恐れる。弁解の余地がないとき、われわれは弁解を恐れない。川柳に弁解の余地はない。作句による語の生産は特別な理由もなく中断させられるからである。故に、定型は脅迫ではない。

11.

川柳の母語はそれである。また定型を支えるのは母体であるが、母体がその母体であることは、誕生がもつ必然性と偶然性と同じく、必然的で偶然的である。母語がそうであることは、その背景にさしたる理由は存在せず、いわば事件であり、より強い言い方をすれば偶発時にあたる。「それ」「その」「そうである」が指し示すものは、したがって脅迫である。

12.

新聞を切り取るハサミよりも、定型は鋭利である。ダダイストの手よりも、切り取られた文字を麻袋のなかでまさぐる手よりも、川柳人の手はその人のものである。柳人は手を所有する。柳人の手は強力な鍵である。その手がかざされることで開く扉は実に多い。

13.

定型の鋭利さは、研ぎ師に由来しない。

14.

蛍光灯が煌々とする古屋の入り口に降り立った蛾は、特別な理由をもたずに旋回し暗い世界に身体を向ける。そして突然もう一度、素早く振り返り、蛍光灯に激突する。光あれ、光なし。

15.

別の仕方で、なる七音は別の七音とそれに準ずるものに安らぎを与える。二物以上のものが存在しているとき、しばしばその存在は文献学的であって、情報学的ではない。

16.

E・レヴィナス『存在するとは別の仕方で』に捧げられたデリダの「この作品の、この瞬間に、我ここに」という頭部の大きな心地よいテクスト(川柳)は、「彼は義務づけてしまっているだろう」という一文(川柳)ではじまり、冒頭で十二回もこの呪文(川柳)は反復される。

17.

絶対的な否定が見せる景色と、別の仕方でが見せる景色とは異なるが、われわれが消費するエネルギーに有意な差はない。別の仕方でを不快に思うひとは、絶対的な否定も好まない。断定を好まない。子供らしさを好まない。推量を好み、動詞を好み、名詞を好み、文献学を好む。

18.

詩や小説がたどる運命はコプラの運命である。短歌はその運命を逃れるにはあまりにも長すぎる響きだった。

19.

川柳人であるわたしがこのアフォリズムを書くわけだが、わたしはわたしの川柳を読み返すときに、このアフォリズムは適用されないし、しかも適用しないようにしているのでもない。

20.

川柳は切り取る。裁断する。考えを、何かを書き留めながら深め、進めてやるとき、読書はつきものである。そのような場合においては、省略が必要であるからだ。川柳は省略する。川柳が含有する語はコンテクストから逃れるわけではないが、句として逃れる。逃れるのであって、逃れないままにすることも可能であることは言うまでもない。

21.

言述は物語のなかで規定されるが、川柳は途端に始まる。小説がある時間から始まざるをえないこと、あるいは小説がある時間から始まってしまうことのあの衝撃を、過剰に強調する。

22.

型による作用は言いよどむことに似ている。言いかけることではなく、言いかけもしなかった言葉。特別な理由もなかった言葉、特別な理由もなく言い切らないままにされた言葉。定型がその言いよどみを再演させる。その意味において、川柳は発語に似ている。要するに、文字記号ではなく声に近い。いくらでも書くことができる紙のなかで(お望みならディスプレイでもかまわない)、領域が、占領できる領土が、私的所有の範囲が決定される。

23.

しばしば川柳が破局的な表現として納得されるのは、別の仕方でがあなたの気力を奪うからだ。

24.

ある出来事は起こっても構わないのだが、川柳はある出来事に蓋然性を与える。

25.

深く浸透した物語群をコラージュする以上の方法で、川柳はコラージュする。しかし川柳は物語ではない。川柳が物語であるときは、読者が川柳をコプラの、加法における等式のアナロジーとしてとらえたときである。とはいえ、実際上そのように読むことは言うまでもなく可能であって、またそのとき川柳は物語を創造する。この物語の創造はしばしば起こる(光あれ。光。光なし。―暮れは未だ )。

26.

加法において成り立つ等式は、加法のもとにある。コプラが企てる肯定が否定に転じるのは、コプラがある言語の法のもとにあるからである。しかし、川柳は従属しない。任意の二つの川柳がコプラの煌めきをたたえていたとしても、それらの波の波長も振幅も振動数も異なる。なお、何度も説得することによって、従属しない権利を獲得する場合がある。何度も説得することは、切実な書物のことである。切実な書物が練り上げた短い言葉は、川柳に匹敵する。逆に、川柳は、切実に練り上げられたものである。とはいえ、われわれは切実である必要はない。

27.

『「マダガスカル島よ」彼女は言い放った。「マ・ダ・ガ・ス・カ・ル」音節を一つ一つはっきりと区切って繰り返すと、何を言っているのというマダム・ショースの問いには返事もせず、部屋を出てしまった。弟のペーチャも上の階にいて、傅育係と一緒に、夜打ち上げるつもりの花火をこしらえていた。「ペーチャ!ねえペーチャ!」ナターシャは弟に声をかけた。「私を下までおんぶして行って」ペーチャは駆け寄ってくると、姉に背中を差し出した。彼女がその背に飛び乗って首に両腕を巻き付けると、ペーチャはぴょんと弾みをつけてから、姉を背負って駆けだした。「いいえ、もういいわ⋯⋯マダガスカル島よ」そう言ってぴょんと弟の背中から降りると、彼女は自分の足で降りて行った。(レフ・トルストイ『戦争と平和』、『戦争と平和3』(光文社)、望月訳、p273)』とはいえ、マダガスカルと唱えてみるといい。ちょうど、ナターシャのように。轟音を立てながら地下トンネルを疾走する電車のなかで、隣りのひとにだけ聞こえるようにささやくといい。喉が腐ったみたいな、汚く、小さな声で、マダガスカルの治安を乱すな、と。

28.

川柳に骨はない。だがそれ以上に、bodyがかけている。ただ境界があるだけ。

29.

クラゲを眺めているときに生じる命名済みの感情群は、ただちにありきたりのものとして了解される。だから命名済みなのである。クラゲとわれわれを阻むアクリル板はスタンド・アローンな自己へと至る道中に巨大なポテンシャル壁として立ち塞がる。クラゲを眺めるとき、われわれは塞がれているのである。要するに、そこには境界以上のものがある。すなわち骨とbody。

30.

感情を表す言語は、命名済みではない。というか、感情に関わるものごとは上手に記述できないことにわれわれは驚愕する。より見事に語るために、意見をふるいにかける。悲しみがこみあげる。悲しみがAという状態であることは、Bがこみあげるということである。悲しみがこみあげるのではなく、悲しみであるところの何かAが、こみあげる様子として喩えられているのであって、また「こみあげる」は何かBがこみあげるイメージを連れ添っているのである。このAを同定することはほとんど不可能に近いが、Bの同定は容易である(例えばゲロ)。『「あのとき、もっと長く滞在したかったのを私は憶えている。」―この欲求について、どんな像が私の心には現れているのか?どんな像も現れていない。想起に際して自分の中に見るものからは、自分の諸感情についてどんな結論を引き出すこともできない。それでも私は、様々な感情がそこにあったことを、実にはっきりと憶えているのだ。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』§651、鬼界訳)』

31.

bodyの多義性には注意を払わなければならない。例えば法の主文など。

32.

身体らしきものがあるかと思いきや、ただの境界であったということもある。

33.

絶対的な効果を助けるものが、絶対的であるわけではない。発揮されたものが結果としてそうなればいい。懐疑は遡ることではない。流れという語に対する被喩辞であるものはすべてである、という感覚は間違っている。定型は絶対的ではないが、定型の作用・効果は絶対的でありうる。

34.

エクスキュースが必要がないときは、都合よくそうならざるを得なかった状況に身を置かれていたときである。エクスキュースの機会は予め奪われてしまっている。呼びかけ。これ以上語る権利をもたないのです、残念ながら。

35.

川柳における定型は脳事象と並行して語られる。脳事象とは身体ではなく(まただからといってもちろん精神でもなく)境界にまつわる事象なのだ。自壊は、奇妙なことだが、生きようと努力する営みでもある。

36.

川柳は構造的ではない。故に、川柳が青写真を描くことはない。計画書も、見取り図も描かない。見積書を前もって発行することはない。川柳が発行するのは判決文か、あるいは始末書などといった事後的な性格のものであって、すなわち前書きではない。アフォリズムが前書きに対して何らかの企図を持つことを想定した場合、これに対応するのは句集の方である。

37.

川柳はあなたを骨抜きにする。

***

栞文を執筆してくださった山本伊等さんの「他人によって囁かれた下ネタを口ずさむ、わたし、爆走」が↑で読めます。

(最後に自己紹介を)

柳論を書いたりしています。

川柳句会を主催して、毎月作品と(長大な)評を公開してます。(現代川柳の最新のムーブメントに原理的にはなります?)

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