川柳句会ビー面 5月号

眠くてもサウナあんずだからサウナ

 国語でも生物でも構わない。教室で先生が「あんずについて思い浮かぶ言葉を挙げてみて」と言ったとしよう。果たして黒板はどれだけ埋まるだろうか?
 あんずはとにかく印象が薄い。果物としてのあんずは、いちごほど人気者でもなく、みかんほど庶民的でもなく、りんごほど思索的でもなく、レモンほど青春でもなく、パパイヤほどパラダイスでもない。花としてのあんずもまた、梅や桜ほど詩的蓄積があるわけではない。つまり、あんずと言えばコレ!という概念を持たない微妙な立ち位置にある。さらに言えば、ひらがなであることが連想の脆弱さに加担している。漢字の「杏」であれば、杏仁豆腐・杏花という言葉に繋がり、中華っぽさ・漢詩っぽさを与えただろう。
 しかし本句におけるあんずの影が薄いかと言うと、決してそうではない。それどころか、ここに来るものはあんずでなければならない。なぜなら、イメージの蓄積がないからこそ、「だからサウナ」と続いても疑義を挟む余地を与えないからだ。あんずは何色にも染まっていない。だから「あんずは白い」と言おうが(実際のあんずはオレンジ色だが)、「確かに白い」「いやあんずは黒い」といった余計な考察に発展しない。「あんずだからサウナ」なんだな、と直に受け取ることができる。それがあんずの効用である。
 「りんごだからサウナ」だったら「罪を犯した人間がサウナに籠って自らを罰しているのかな」と話が広がるし、「レモンだからサウナ」だったら「恋をしている若者が学校帰りに銭湯に立ち寄ったのかな」等と深読みできてしまう。句の世界が深まることは決して悪いことではないが、殊この句においては冗長であろう。あんずはその短さにおいて存在感を確保している。あんずは川柳におけるスタッカートなのだ。(南雲ゆゆ)
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 「なぜ「あんずだから」サウナなのか。せめて、眠いのならサウナではなく、とりあえず布団に入れば良いのに(サウナに行って疲れてからの方がよく寝られるのかもしれないけど)。何がそこまでこの人をサウナにかきたてるのか。逆接の「ても」も、順接の「から」も機能していない。そういう脈絡のなさがおもしろい。
 一方で、サウナのジリジリとした熱気、汗が肌をつたう感覚と、あんずの甘酸っぱさは、はっきりとした身体感覚を呼び覚ます。
そのバランスが良いなと思う。あと、全体的に舌ったらずだからか、「あんず」という単語のおかげか、読後感が妙にかわいい。(佐々木ふく)

パイナップルのしたたる曜日

 自分は川柳作品を読むとき、句で提示された情報を頭のなかで映像化しておもしろがっていることに気がつきました。その点で、この句が与えてくれる映像にはとても惹かれます。〈パイナップル〉がしたたる(そしてべとべとになった?)カレンダーの匂いがしてくるようです。七・七の形式では二つの概念を如何にして結びつけるかが大切になってきますが(この句なら〈パイナップル〉と〈曜日〉を〈したたる〉で結んでいる)、この句はその点で成功しているように感じました。
 〈パイナップルの〉は六音でぎりぎり定型外かと思われますが、ほとんど違和感がないですね。すっきり口に出せるのも魅力だと思います。(松尾優汰)
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 なんとなく木曜日か金曜日な気がする。果汁「したたる」アイテムとしてリンゴでもオレンジでもなく「パイナップル」なところが良いところをついている。この曜日は必ずパイナップルがしたたるという嫌さと滑稽さで取った。また各曜日を可視化した際にこの特定の曜日にはパイナップルが滴っているのかもしれない。「曜日」を特定せず想像の余地を残した点、「が」ではなく「の」というさりげない助詞の気遣いが良い。(二三川練)

一流の白熱灯にも親がいる

一流の優等生にも親がいる
でも変で、むしろ白熱灯のほうがしっくりくる。しっくりさせるのがすごいけど。(ササキリ ユウイチ)
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白熱という単語は『スタンフォードの白熱教室』的なタイトルを彷彿とさせます。一流と白熱灯は突拍子もない取り合わせのようでいて、縁語なんじゃないかと気が付きました。(南雲ゆゆ)

誰もみずともどってんかい冥

惑星から外された冥王星。誰も見ずとも太陽系最果ての天体はいつもある。光が届かなくても。自由な軌道で遊動する。UFOのような冥。(下刃屋子芥子)
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  初読でリズムに好感を抱いた。天体の話で、誰も気にかけてなくても天体はある。それも惑星という科学主体のくくり方ではなく土星、天王星、海王星、冥王星のリズム感で結ぶ言葉主体のくくり方も「誰もみずとも」に親和性があり面白い。(スズキ皐月)
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 子どものころ理科が大好きで特に石や星をよく見ていたのだけれど、教科書にのっている太陽系のところだけ写真ではなくてイラストであることをぼんやり眺めながら、それは惑星全体を撮影することも見ることもできないから、想像上の宇宙の風景を絵で表現するしかないことにそのうち気が付いた。この句も同じことだとおもう。星をおぼえる暗記の呪文を唱えると、誰も見ることができないみずの水星から冥王星までの連なりに自分も接続されて、ほのかな陶酔感があるよね。(公共プール)

カエルプリズムみみみぴょこぴょこ

魔法少女の呪文のようで心地良い。(スズキ皐月)
音が良かったです。音がとても。(雨月茄子春)

この世のぬいぐるみ。その拇印。

「この世の」なんて大きなことばを振り回して、まだうまくやれる道があるとは。そしてその先が「ぬいぐるみ」で、しかもつながるのが「拇印」だとは。すべてがあるべきところにある、としか思えません。ビー面の選句をするとき、並選以上だと思う句は、ざっと見る時点ですでにうわっ、となるのが毎回ですが、この句からのうわっ、はこれまでにない強さで来ました。
まずは最初の。まで。「この世の」で広げるだけ広げた視野を「ぬいぐるみ」へ一気に収斂させるその腕力、そして収斂したと同時に、この世にあるすべてのぬいぐるみが同じ平面にずらーっと並び、視野がふたたび無限の彼方まで広がる。無限の曠野を埋めつくす、大小様々のぬいぐるみ=サイズに比例しない大小様々の情念。この世のすべてを、「ぬいぐるみ」でもって描き切ってしまうこの軽快さ。軽みの瞬間最大風速が、ここで記録されています。
 そしてつづくのが「その拇印」。この押さえ方。ここで笑い泣きしました。この上げて落とし方、そして情念の貫き方、個人的最強川柳である中村冨二さん「サーテ、諸君 胃のない猿に雪がふるよ」に初めて遭遇したときに近いものを感じました(今写してもぐっとくるほど名句ですよね……)。軽く、おかしみ込みで入って、ズドン。雪がふるよ、ほど明快な景ではないように見えますが、いやいや。拇印。つくもの。書類。ライフイベント。生老病死。諸行無常……。書類の種類だけ具体性が濃くなるしくみ。それが、おそらく人間よりは常であろうぬいぐるみにひるがえって重なるとき、ごっこ遊びの無邪気さが突然現実味を帯びて暴走し、一生を一瞬に加速させるような強烈な穿ちとなってこちらをぶち抜きます。
 せつない。。。
 ぬいぐるみでさえ拇印をつかねばならない世界。がんじがらめのライフイベントが、生まれてすぐにあなたの生をほとんど締め上げている世界。
たったひとつ救いがあるとすれば、ぬいぐるみの拇印からはおそらく、個体を特定することはできないだろうということ。だれでもない拇印がせめて持てたら。でも、持ったら生きていけないんだろうな。かたわらのぬいぐるみはほほ笑むばかり。いいんです、人形みたいでも、笑えれば。ちょっとだけでも笑えたら、きっとすべての見え方が変わるはず。これぞまさしく川柳の功徳。(西脇祥貴)
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 ほとんどのぬいぐるみには親指の指紋はないだろうとつっこめるが、この世に数多あるぬいぐるみそれぞれが持ち主と契りを結ぶことは、それはあるだろうなと思った。拇印という個人を特定するとともに、契約を意味するものをあえて玩具であるぬいぐるみに使う取り合わせが絶妙。1組だけの関係性ではなく「この世」でいくつも起きているのだということが(それともぬいぐるみの総体との契約か?)、体言止めで言い切られることによって説得力を持っている。(小野寺里穂)
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 「ぬいぐるみ」に対して、「この世の」なんて壮大な言葉は似合わないし、「拇印」という時代錯誤な習慣も似合わない。
大量生産のぬいぐるみの拇印も、ひとつひとつ違うのだろうか。朱肉はなかなか落ちなくて、皮膚(布?)に染み込んでいたりするのだろうか。
そんなことを考えていると、「ぬいぐるみ」がだんだんと別の何かに見えてくる、気がします。(佐々木ふく)

屍のポーズ☆眠らない渚

 ぼくはこの句を悲しい句として読みました。〈屍のポーズ〉は最初、「屍のポーズをして死んでいる / 死んだふりをしている」くらいの意味で捉えました。調べてみるとエクササイズやヨガの類でも同じ名前のポーズがあるようですね。いずれにしても「死んだふり」感があります。
 これに〈眠らない渚〉と続いている訳ですから、〈屍のポーズ〉をとっているのは浪うち際なのでしょう。〈☆〉が挟まり〈眠らない〉と続いて、パリピ感があるにもかかわらず〈渚〉の一語によって静かで淋しい感じがしてきます。そして〈☆〉にははっちゃけた感じもありますね。漫画やアニメのタイトルみたいな。もうどうにでもなーれ、的な情緒を思いました。これの記号によって、我われは狂気的な哀愁へいざなわれているのでしょうか。(松尾優汰)

寒い丘。帰りはなにかそっけない、

 読点おわり。無限をうしろに引き連れて、その頭だけが水面の上に出ているような、巨大な何かを感じさせる作りです。でもその分、描きにくい巨大な何かが描けるだけのヒントは入れておかないといけなくて、その配分がむずかしいやり方だと思います。
 でこちらの句。寒い丘、と状況設定をまず打ちだして、読み手それぞれを読み手それぞれの寒い丘に立たせます。ここが句点で言い切ってあるのが良くて、寒い丘だけでひとつの大部分になるので、読み手はみんなそれぞれの寒い丘を、まず一通り眺め回すことになります。自分の中にはこんな寒い丘があったのか、とここまでが想像力のウォーミングアップ。
そこへさらに足されるヒント、「帰りはなにかそっけない、」。帰り、つまり寒い丘での用事はすでに済み、もうここを去るところらしい。そしてなにかそっけない感じがあるからには、その前の用事はそれなりに大層なものだったらしい、ということが想像されます。

……ここからやり過ぎなくらい自分の読みに引き寄せます。ご容赦を。
寒い丘。大層な用事。キリストの磔刑を思いついてしまいました。
ゴルゴタの丘。人類史上世紀の(宗旨問わず、大きなイベントには違いないでしょう。これほどキリスト教的価値観が、空気のように浸透していて気づかれもしない現代にあっては)大事件を目撃した、その帰り道。そもそもが見せしめ、見せ物じみた大がかりな磔刑劇でありながら、それは要するにひとりの人間の死(ひとつの、殺人!)に過ぎず、どれだけ死の間際まで劇的なことを言っていた人間でも、しゃべらなくなってしまったらもうただの肉の塊でしかない。もう、おもしろくもなんともなくなってしまう。ここでぞっとした人はまだ、どこかで変化を迎えられるかも知れませんが、そんな人がはたしてどれだけいたやら。大部分はこっち、この句のいうところのそっけなさを感じながら、見慣れた見せ物の場から去ったことでしょう。
それから二千数十年。同じそっけなさはほら、あなたの胸の中にもちゃんと引き継がれていますよ。世界中の残酷なニュースを同量ずつ並べるワイドショーを見終わった後、淡々とお皿を洗いに行く心の裏に自動的に閉じ籠められる残酷さ。それをあくまでしずかに取り出して見せてしまう、劇的なうがちの句。人間の、この致命的なそっけなさを暴いてしまった、とんでもない句です。(西脇祥貴)
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 読点で「寒い丘」での出来事を区切っている感じ。句点での帰り道が続いていく感じが上手い。丘とか山とか階段とか、高い場所から降りていく時のなんとなく口数が少なくなる様子も出ていて面白い。(スズキ皐月)
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 右の〈帰りはなにかそっけない、〉が左の〈寒い丘。〉に掛かっているのだとしたら、面白い修辞の方法だなと思いました。さながらパックマンのようです。さながらレ点のようです。(松尾優汰)

輝輝輝輝輝輝輝とまれない星

手元の漢和辞典で「輝」を引いてみると、一応「輝輝」(意味:輝かしいさま)という熟語は存在しているのですが、ここまで並べられると記号のように考えるのがしっくりきます。とはいえ表意文字ですので字の意味にも引っ張られる解釈なのですが、輝は戦車のメタファーではないでしょうか。私はつねづね疑問に思っているのですが、輝という漢字はなぜ軍という漢字を内包しているのでしょう?それはともかく、輝が横に並ぶと戦車の列のように見えてきます。同時に戦車に描かれた★マークも。
 ところで、ビー面という、横文で出句する場で、横だからこそ意味のある句が提出されるのはとても面白いと思いました。
 「輝輝輝輝輝輝輝」部について、私は視覚的記号と解釈したので音読しなかったのですが、あえて音を当てるなら何かな、と思い声に出してみると「キキキキキキキ」……車のブレーキ音を示唆しているのでしょうか!?ブレーキを踏んでもなおとまれない星。この音に気が付いたときは本当にびっくりしました!すごいです!(南雲ゆゆ)
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 ぼくは〈輝〉を〈き〉と読んで、七・七の句だと把握しました。
 文意を拾うなら、〈星〉は〈輝〉やいていて尚且つ〈とまれない〉程のスピードで動いている、ということになるのでしょうか。七・七という短い形式が〈とまれない星〉のスピード感を補足しているようにも感じます。そしてなんといっても〈輝〉の羅列ですね。〈星〉の狂気的な輝きが、他のどんな七音で表した場合よりもよく強く正確に伝わるように思います。川柳という詩形のなかで、言葉の組み合わせや取り合わせではなく見た目の面白さ、あるいは形式美を持ち出してみるというのはぼくも最近気になっているところです。この句ではそれが成功しています。すごい。(松尾優汰)
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 ききききききき、の音が急ブレーキのよう。とまれないのは星。流れ星でしょうか、隕石が落ちてきた映像なんかをみると、ほんとに明るく燃えて輝いていますね。星の時速なんて考えたこともなかったのですが、この句に出会って時速何キロぐらいなのかなあと思いました。星の衝突も交通事故みたい。(城崎ララ)
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 ファニー。ザッツ・ファニー。マンガ、というよりcartoonというのがふさわしいファニーさです。carっぽいですし。
ブレーキ音キキキー、を漢字にしたのも良ければ、星の急ブレーキなので輝の字を選んだのも良いバランスです(星が急ブレーキかける、という発想で十分飛躍があるので、付いているとは思いませんでした)。更に言えば、輝の字の画数の多さが、止まろうとしている気持ちもにじませておもしろいです。流星の弧に添う感じの曲線で、科博の壁面にスプレー書きされていてほしい句です。(西脇祥貴)
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 輝の字が群れると軍隊みたいで、群れである軍隊が群れると惑星系が群れて銀河系になるみたいで……スキール音が目に刺さる、共感覚を働かせて読みたい句。(嘔吐彗星)

マンモスを抱きしめている一斗缶

 マンモスが、でなく、マンモスを。ビー面句会ではたびたび彗星さんにより実践されている一文字の魔力が、今回はここで全開です。マンモスのかたちにぐしゃぐしゃになった、バカでか一斗缶がしずかに、モノリスのごとく脳内の原野に鎮座します。
 P-MODELというバンドの『Perspective』というアルバムの裏ジャケットに、なんの脈絡もなく(表ジャケにも一切関係なく、曲中の歌詞にもひとことも出て来ない)出てきたマンモスを思い出しました。エレファント・ルームっぽい意外性ににんまり、というよりは、どこか居心地悪そうだったあのマンモス。一斗缶に抱きしめられて、今はちょっとほっとしているのではないでしょうか。(西脇祥貴)

弾道に乗れてせいぜい万年筆

 弾道に思念や実力を載せたい思いが募る人は少なくないだろう。せいぜい万年筆。諦めのようで希望でもある。むしろせいぜいの万年筆が、それこそが世界を、すくなくとも川柳界を記述する。人間の行為のすべてが世界を記述することだとしたら、書くことで世界が動くこともある。見えないくらいの小さな動きだったとしても。アジテーションはいらない。(下刃屋子芥子)───────────────
 「せいぜい」の加速感がすごいと思った。ここで「弾道」が加速している。スピードが上がると物質は細くなる(アニメなどでめちゃ速いボールが矢のように描かれたり)という仕組みに支えられて万年筆が出てくる。万年筆の「万年」がいいですね、時間はスピードだから。(雨月茄子春)───────────────
 万年筆の形は、なんとなく弾丸やミサイルに似ていますね。がんばって弾道に乗れても、それは、せいぜい万年筆、レベル。
私自身は、ミサイルよりも万年筆に力を持ってほしいです。(佐々木ふく)

落ちのびて徹夜天使の羽を轢く

 詩人に敬意を払うならば、余計な読みなどを重ねたくはない。とはいえ読みをあきらめることは、詩と距離をとることになる。時間をかけて味わえる句だと思った。逃避の果てに天使の羽を轢いた。天使の羽を轢くとはどういうことか。ただ美しいと思った。(下刃屋子芥子)───────────────
 どこかから落ちのびた「私」が徹夜で逃げ続け、気がつけば天使の羽を轢いてしまう。天使自身を轢かなかったのなら一命を取りとめて良かったとも思いし、もしかしたら天使にとって羽を汚す行為は最大級の侮辱かもしれない。何かから逃げ続けた先でまた新たなトラブルに見舞われる「私」の様子が滑稽でありながらどこか共感できる。天使の世界にいるということは、もはや落ちのびることにも失敗したのかもしれないが。(二三川練)

へその緒を垂らしたままのいちご狩り

 強烈な赤のイメージ。赤のイメージと未成熟のイメージで上手く世界観が整っている。胎盤とへその緒を断つ動きもいちごを切って採取する動きとも近くて飲み込みやすい。(スズキ皐月)
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 ハイハイでいちご狩りのビニールハウスに向かっている赤ちゃんの映像が再生された。いちごの栽培の際、収穫量を増やすためにランナーと呼ばれる蔓を増やしていくのだけど、その「ランナー」と「へその緒」の相性がなかなかに良かった。(雨月茄子春)
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 秀句。いちご狩りとへその緒のイメージがばっちりと重なっている。足早な指摘として…いちごの赤さでも、それをもぎ取るときの動作でも、そんな生半可なものではないものが示されているのだが、そうであるからこそ、へその緒を垂らしたままなことといちご狩りの関係は隠喩でなく象徴として結ばれうる。(ササキリ ユウイチ)
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 「いちご狩り」という楽しげなイベントに、親子の絆の象徴である「へその緒」。なんだかポジティブな言葉たちなのに、「垂らしたまま」とあることで、一気にグロテスクな印象になるのがおもしろいです。
それでも、下五は「いちご狩り」で終わっているので、きっとかわいい句ですね。(佐々木ふく)
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 そもそも臍帯ってなんで切っちゃうんでしょうね、邪魔だから? 腐るから? かぴかぴになっちゃうから? 垂らしたままの人もいても良いと思うのは、あまりに無知すぎますか。でも臍帯にも人柄が出そうじゃないですか。じゃないですかね。すみません。垂らした状態の人が垂らしてない人と比べてどうなのか、とかそういうのは野暮。そんなこと比較してどうなりますか。大して変わるわけないじゃないですか。だからこれはほんとにただごと句。ただの、いちご狩りの句なんです。それがなぜこんなに違和感を生むのか? というのを、各自で考えてもらうための句でしょう。はい今から10分測りますので、グループ内で意見をまとめてください。10分後に発表してもらいますので、発表者も決めておいてくださいね。それでは、はじめ。8西脇祥貴)

投降 おれの青いことばは踏むな

 〈おれ〉には(読者が憑依可能な対象としての)私性が、〈青いことば〉には詩性が宿っている、と、分析してみるならこのようになるでしょうか。
〈投降〉されているということは恐らく〝敵〟に負けている筈で、ひょっとしたら手錠等を掛けられたりして無力化されている状態にすらあるのかもしれない。であるにもかかわらず〈踏むな〉と命令形で警告を発して啖呵を切っているのが魅力的で胸を打つ表現だと思いました。しかもその〈ことば〉は〈青い〉のですね。美しいです。とても美しいです。(松尾優汰)
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 投降するが、おれの青いことばは踏んでくれるな。「青い」は幼い青なのか、鮮やかな青なのか、妖しく光る青なのか。多分幼い青のような気がする。どことなく漫画(ドラマ化もされた方しか観ていないが)「アオイホノオ」のような侘しさを感じた。(下刃屋子芥子)
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 物語が浮かぶ。SF作品の、テロ集団のカリスマ的ボスの、最後のことばってかんじ。ボスは、いくらでもおれのものを蹂躙してかまわないが、「青いことば」だけ踏んでくれるなよ、と…。とまあ、SF作品にも、テロ集団のボスも意味はない、要するに死に際、引き際、追い込まれたひとが浮かんできてかっこいい。最後の、引き際という感じ。路上でいつも通り怒っているというふうではない。投降なんだからそれはそう、なのだが。
 書かれてない、青いことば「だけ」は踏むな、の書かれていない「だけ」が何故だか強調されて見えてくる句。(ササキリ ユウイチ)
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 投降と投稿は似ていますね。ちょっとした勇気でトウコウするけど、まだまだ踏まれたくないお年頃。そんな印象を受けました。(佐々木ふく)

洩れいでて地に満ちよエビチリのチリ

 エビチリのチリ。エビマヨのマヨ。照り焼きの照り……美味しい部分です、美味しい部分ですよね!たっぷり絡んでいると嬉しくなってしまう、素敵なチリ。もちろんお皿から洩れだしてしまうほどあれば嬉しいものですが、この句では「地に満ちよ」とまで言われてしまっている。その瞬間から、視点は目の前に置かれたエビチリを見るわたしたち自身から離れて、大地に満ち満ちていくチリと、右往左往するわたしたちに切り替わるわけです。気づけば足元には遍くチリソースが満ち、さながらエビのごとく、チリが絡むひとびと……しかもチリソース、見ようによってはなんだかマグマっぽい。熱いし。そんな阿鼻叫喚のフレーバーを受け取りました。美味しい句ですね〜!あるいは私たちも美味しくいただかれるような……(城崎ララ)
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 川柳内で提示されている情報を脳内で映像化して面白がること。ぼくはいつだってそうやって句を読み、そして作ってきました。
なにかしらの器から〈エビチリのチリ〉が〈洩れいでて〉且つそれから〈地に満ち〉てゆくという映像はとても喜劇的で愉快ですね。多量のチリソースに満たされてべとべとになった床が思い浮かんできます。これを、俯瞰的な視点から主体が〈満ちよ〉、と呼び掛けているのがまた素敵です。嗚呼、チリソースの洪水……! チリソースが去ったあとで〈エビ〉たちは何を思うのでしょうね。
 あと個人的なことをいえば、〈洩れ〉という表記にも惹かれました。ぼくも漢字遣いにはこだわりがある方なのでなんだか嬉しくなってしまいます。(松尾優汰)
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 チリってなにでできてるのかなー、とぼんやり思っていたある日、その大部分がケチャップであると知り、なんだか腑に落ちない気分になったのは私です。呼びますか?
 聖書めいた重々しさで言い出し、何かと思ったら脱臼させられる。最後にくる「何か」=大オチ次第で笑わせることも、震え上がらせることもできるわけですが、今回は笑わせてきましたね。しつこめに「エビチリのチリ」、とわざわざ言っているところに矜持を感じました。そうです。矜持ということばを、いまちょっと小馬鹿にしました。ちょっと小馬鹿。しつこいですね。という解説ももはやしつこ(ry
 特撮っぽくもありますね。漏れいでて地に満ちるエビチリのチリを想像するとき、火山の噴火に見えなくもない。えーこれ、エビチリのチリで撮ってあんのー、ぶっとびー☆ というチャーミングな会話が想像されます。そうです、チャーミングということばを、いまちょっと小馬鹿にしました。ちょっと小馬鹿。しつ(以上です(西脇祥貴)
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 上五中下の仰々しい物言いと、「チリ」のギャップが楽しいです。作りすぎたのか、こぼしてしまったのか、本当にどこかから洩れ出したのか。(佐々木ふく)

とめどなくかなしい時差式青信号

 トシノブ・クボタであることは明白。都会の青信号なら行き交う人々の交通量もとめどないだろう。かなしさはどこに。雨の日のとめどなさはそもまた。とめどなく過ぎ去るのだろう。田舎には時差式青信号は少ないのだけれど、田舎にある時差式青信号なら、儚い交通量に侘しさを感じ、また違ったかなしさがある。それは信号機のかなしさ。(下刃屋子芥子)
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 時差式青信号の無機質さと、とめどないかなしさの取り合わせが好きです。独特な青色ですね。(佐々木ふく)

ぶかぶかの天使の皮膚が焼けている

 「ぶかぶかの天使」がパウル・クレーの天使シリーズにありそうだなと思った。天使の皮膚が焼けるというショッキングな状況だが、冒頭の「ぶかぶか」が着ぐるみを着ているようでもあり、おかしみがある。──小野寺里穂
 天使かぶりしました。なんで? ともかく句です。ぶかぶかの、が天使と皮膚のどっちにかかるか問題。
 天使だと、ぶかぶかの天使ってなんだ、となり、全体にぶかぶか――服も皮も輪っかも羽根も存在感もぶかぶかな天使が、ぶかぶか飛んでいるのを思い浮かべます。天使の全体像を思ったうえで、その皮膚が焼けている。というと、焼き肉のごとく火が点いて焼けているように取れます。
 皮膚だと、脱皮後の天使の全身の皮膚なのかな、と想像されます。なぜかこちらを思うと、皮膚は燃え上がる焼け方でなく、日焼けの焼け方に思われるのが不思議です。体にまだついているか、脱皮して別物になっちゃったかで、印象が変わるのかも知れません。個人的な好みとしては前者の、ぶかぶかの天使なる化け物を思わせるほうが好みです。あとは、なんでぶかぶかになったか、ですね……。(西脇祥貴)

こちらでGを感じてますが……?

 さようですか……? なにか言われての答えですね、でも言われたことがたぶんその時点でおかしい。言い方が若干いらついているようなので、上司かなんかが頭ごなしに言ったんでしょうね、「おまえらみたい能なしは、ぼけ倒してGも感じねんだろうよ!」みたいに。で、食ってかかるような心の声がこれ。ちょっと題詠かも、とも思わせる感じがあります。なんの題だろう。あ、でもG=Gravityと限らないのか。Gokiburi、とかGohoubi、とかGomatamago、とかもあり得ますね。読み手それぞれのGを問い直す句(じゃなさそうです)。(西脇祥貴)
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 状況は不明だけど、なんとなく修羅場のような緊張感。敬語に壁を感じるし、この主観はあくまで動かないんだろう……暗黙の圧。Gが嫌な予感の選択肢を開いてくれている。(嘔吐彗星)

王冠をこぼし 指環をこぼし おどるほうせきはゆく

 たぶん今、選評をしようと一覧を見るのは4回目ぐらいなんですが、初めて無性に悲しくなって目に留まりました。「おどるほうせき」。私はこの名前のモンスターを知っているんですが、4回目の今ようやく思い出しました。今までは美しい句、満天の星空をゆく流れ星のような印象の句だと思って見ていたのですが、このモンスターを思い出した瞬間、景色は一気に緑茶の大地に引き戻され、まさに目の前には、「おどるほうせき」があらわれた!でした。なんてことだ。見ていた風景は一変してしまいました。おどるほうせき、固くてデバフな嫌な敵です。でもキラキラの宝石を踊らせて、ネックレスや王冠を弾ませて、心惹かれる敵でもあったのです。遠く、懐かしい憧れの名残り。そういうものが不意に目の前に現れて、「王冠をこぼし 指環をこぼし」去っていく。その光景にどうしてか寂しさを感じます。ニヤニヤ笑って宝石を弾ませる、嫌なやつなんですが……繰り返される「〜をこぼし」が寂しさに通じたのかも?取りこぼすに通じて、取り返しのつかない喪失をイメージしたのかも知れません。おどるほうせきからアイデンティティが失われることがあってはならない……いやそうしたらわらいぶくろに戻ればいいのか……?ああどうかおどるほうせきの袋から無限の宝石が湧きますように。宿敵の無事を願うような気持ちでいます。懐かしい景色との再会をありがとうございました。(城崎ララ)
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 王冠や指輪から宝石がこぼれるんじゃなくて、宝石のほうが王冠や指輪をこぼす。この関係の逆転に驚く。一字空けの跳躍感や、かなに開くことで文字数が増えて散らばった感じと、曲線の動きにも無邪気な楽しさが満ちてる。宝飾品をやめて、原石だったころの場所に還るんだろうか。(嘔吐彗星)

尊厳の飼い猫になる生きてなる

 〈尊厳の飼い猫〉という示唆に富んだ言葉に惹かれました。
 浅学にして具体的な名称があるかは知らないのですが、動詞を反復させるという手法は川柳ではよく見かけます。有名な、石田柊馬の〈妖精は酢豚に似ている絶対似ている〉もそうですね。この句もそうした作法のなかで洗練されているように感じます。〈生きてなる〉とつけ加えているのが素敵ですね。並並ならぬ決意を感じさせます。もちろん〈猫〉なのも最高です。(松尾優汰)
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 初句を伏せれば差し支えなくて、この初句のところでねじれている。53.と近い構造だと思う。「尊厳の飼い猫」は想像しにくそうだけど、寸言っぽくて解釈の余地を与えられてもいる。「生きてなる」の強い決意から、尊厳の飼い猫には「大抵死なないとなれない」という前提が挿し込まれて、もう一段階ねじれる。聞き手はどういうことかわからないまま、真剣な宣言を受け止めざるを得ない。というより、聞き手は想定されていなくて、たまたま生じてしまった存在でしかない。一方向的なばつの悪さにおかしみがある。(嘔吐彗星)
 「なる」という断言、決意のようなもの、が良いです。(佐々木ふく)

5ちゅ〜るで猫がモナリザを落札する

 5ちゅ〜る!のモナリザ!猫的にどのくらいの価値なんでしょう?ちゅ〜るメッチャ好きですもんね、猫さん……。猫さんのちゅ〜るへの執心が価値の指標になっていて、普段は覗けない猫社会の一端を覗き見させてもらった気分。このモナリザもたぶんわたしたちの知るモナリザじゃなくて猫社会のモナリザなんじゃないかな〜どんな絵なのかな〜とわくわくしてしまいます。(城崎ララ)
かわいい(松尾優汰)

寓話と合成したわたし、アレルゲン

 故事や慣用句に結びつけて〝寓話化〟されることの、暴力的で恣意的な構造を思います。アレルギー反応が起こるのも納得です……。(松尾優汰)
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 おそらく「わたし」=「アレルゲン」、と取る文脈だと思います。アレルゲン、ということは、わたしは誰かにアレルギー反応を引き起こす原因になってしまったということ。それも「寓話と合成」されることで、その作用が目覚めてしまったようです。
 なんでしょう、「寓話と合成」。寓話、というのは実際その命の長さで見るなら、かなりの長命だと考えられます。作中主体「わたし」が岩とか星とか銀河とかであれば別ですが、「わたし」という呼称を使っていることから人間だろうと置くと(その他のものにはその他のものごとの一人称があるはず、ということは、前回の小野寺さんの句「苔の一人称を知った日」により裏付けずみです)、わたしよりは寓話の方がかなり年上、存在としても、寓話の方が強大でしょう。だとすれば、「寓話と合成」というのはおそらく、寓話とわたしが対等に合成されるというよりは、寓話の方へわたしが取り込まれるかたちで合成される、と考えるのが妥当かと思われます。
 これはアレルゲンになり得るでしょう。ある流れでの典型人間に成り果てる、ということですから。そしてこのような寓話に合成されてしまう現象、幼い頃から寓話を耳にありったけ注ぎ込まれて育てられることを踏まえれば、かなり多数の人間に起きる事態なのではないでしょうか。そしてじつはそれが、人間関係のきしみの根本原因になっている。もとはアレルゲンになるような特質を持っていなかったのに、寓話のために、寓話を生かしてきた既存の人間社会のために、アレルゲンにされてしまう。そしてあたりはアレルギー反応だらけの、誰もみな落ち着かない荒野に成り果てる。
その初めの一歩に気づいての句、と言えましょう。合成「されて」いるのに合成「した」とまだ主体があるようにふるまっているのも、せつなさを感じさせます。(西脇祥貴)
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 「寓話と合成したわたし」に見られるような、川柳手つきがストレートに好き。だが、あなたはせいぜい寓話と合成する、程度のことしか叶わない。要するに、語源になりえない。寓話と合成することは、要するに寓話を読み、寓話の力を分け与えられるだけのことであって、寓話と何か特別な関係を結ぶことではない。むしろその普通のことを、寓話と合成したわたし、などと表現するところが卓越したところか。と、ここまでアレルゲンを無視してきた。句をまたがる五七を素早くなお丁寧に読んでいると、アレルゲンはアレルゲンらしくなってくる。(ササキリ ユウイチ)

終のレスラー畝を立てたい

「終のレスラー」のワードパワーがよく、その願望の臭みのなさもよかった。(雨月茄子春)

階段のこんなところに歩道橋

 本当なら階段は歩道橋の一部なので認識としてはズレているのだが説得力は強い。それはおそらく「こんなところに」から導かれるもので、このワードで階段をのぼっている様子がわかる。そうなると実感として思い出すのは、階段をのぼっている時の無心になったり、つらさだけが残る感覚。のぼることによって階段の存在とだけ対峙することになり、いつの間にか歩道橋にいることを忘れるような感覚。その前提があるから発見として歩道橋が出てくる。そういった面白さのある句だと思いました。(スズキ皐月)
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 階段だと思ってのぼっていたら歩道橋で意外……いや、ふだんは歩道橋だとわかってのぼっているはずで、意外なわけがない。階段とつながりを保ったまま歩道橋が“出現”して、「こんなところに」の軽さで済ませているのも困る。歩道橋にも階段はある、けどこの主体が今しがたのぼってきた階段じゃない。さっきのぼったのが歩道橋の階段なら、ここが歩道橋なのは当たり前。これはエッシャーのだまし絵みたいで、認識の罠にかけられる。
それとも、屋内の階段の途中に歩道橋がドッキングしていて、歩道橋の向こう側にまた屋内の階段が続いているというのか……なんだそれは……
解釈しようとすればするほど墓穴を掘らせる作りが見事。(嘔吐彗星)
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 幼稚園のころ、よくトミカで遊んでいました。畳の上に厚紙の道路を敷いて、ガソリン・スタンドや警察署の模型を置き、小さな街を作ってその様子をコマ撮りの写真に収めアニメにする、といった遊びです。盆栽の下に置かれる小さな人形や、連続テレビ小説『ひよっこ』のOPで映るミニチュアなどにも興味を示していました。ぼくたちの住む家や通う学校のなかに小人たちがこっそり住んでいたらと空想して楽しんでいたのです。
 ぼくたちが普段つかっている〈階段〉も小人たちにとっては広大な土地であり居住区なのかもしれません。彼らは滅多に姿を現しませんが、その生活のあとなら見つけることができます。〈階段〉上の小人たちの街、その小さな〈歩道橋〉……考えるだけでわくわくしてきますね。(松尾優汰)
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 歩道橋に階段はつきもの。思えば「こんなところに」は歩道橋一般に成り立ちます。日常の風景をちょっと異なる角度から見た景色だと思いました。(南雲ゆゆ)
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 静かだが、驚いている様子が伝わってくる。どんな構造になっていたのか気になる。(小野寺里穂)

田中みかんちゃんねるめいた春である

「田中みかんちゃんねる」を検索するところからはじめましたが、動画の冒頭2秒で理解した。それがどんな春なのか。(下刃屋子芥子)
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 youtubeチャンネルを詠みこんだ川柳は初めて見ました。衝撃です!私もゆうこすモテちゃんねる句を作ろうかな……。まんまと田中みかんちゃんねるを検索してしまいました。ナイトルーティン動画が良かったです。(南雲ゆゆ)
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 「田中みかんちゃんねる」がどんなちゃんねるなのかわかりませんが、きっと良い感じの春なのでしょう。春の比喩にされることで、逆によくわからない「田中みかんちゃんねる」について想像できるのがおもしろいと思いました。
 田中みかん農家の畑が延々とうつされているのか、どこかのアイドルの食レポちゃんねるか。好き勝手に想像して楽しみます。(佐々木ふく)
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 だれやねんと思って調べたら、YouTuberの方なんですね。
という程度の知識のものが読むと、①ある種ハイコンテクストでなんともよくわからんとなる。または、②知らないことばでもないので元ネタはともかく妄想してみる、のどちらかになっていくと思われます。②で努力してみたのですが、字面のインパクトがそれなりにあるため、それ以上の内訳を想像するのはなかなか困難でした、すみません……。
 ちゃんねる、で番組、映像、編集等の姿勢を思い、そこへ田中みかんからの情報を足そうとするのですが……。田中が。田中が『人名』という強烈すぎるカテゴリに属しているせいで、田中みかん、という人物について考えさせられるのですが、知らない人物ひとりを想像するのはこれは、ちょっと情報が足りず。。。インパクト一点張りの勝負なのだとしたらそれもありだと思いますが、そのインパクト、受けた、という衝撃そのものはあっても、外的な、なんか当たった、程度の衝撃で止まってしまい、その先の、内的な効果の波が来ない。ぼくに来ないだけかもですけどね。
 かといって田中みかんちゃんねるを見てから解釈させる、というので作者はいいのか、というとそうでもない気もします。この文字面でやりたかったことがあるなら、田中みかんちゃんねるを実際に見るのは情報の出し過ぎだし手間の取らせすぎにもなって来得る。田中みかんちゃんねるの宣伝ならこれでも良いんだと思いますが、たぶんそういうつもりだけじゃないでしょうし、だとすると、、、むずかしいですm(_ _)m(西脇祥貴)

友だちと疑わずに折る棒アイス

〈棒アイス〉を折って分け与えるのは〈友だち〉。……本当に?(松尾優汰)

姉の胚 いちめんの姉が墓地にある

 光景が圧倒的だった。圧迫感のある広い墓地に、散り散りになった姉の霊魂が満ちている光景。この世界は死者の胚なのかもしれないと思わされる。骨壷ではなくて、埋められたあと長い時間をかけて霧散するような形式の埋葬が行われている雰囲気がある。いちめんの姉、これは姉の選択が良かったように思う。兄ではだいぶニュアンスが変わる。メイドインアビスの世界観を感じた。(雨月茄子春)
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 生と死の対比。特に「胚」という選択が姉の分裂・増殖を予期させて後半部と非常によく響き合っている。「いちめんの墓地に姉がいる」でも詩情はあるが、「いちめんの姉が墓地にある」とすることで、無数の姉の死そして再生という壮大な物語のプロローグとなっている。「ある」ということは姉はまだ死体なのだろう。これが「いる」になる予感の不気味さが句全体の雰囲気を作っており、作者の死生観まで垣間見える秀句である。(二三川練)

清純派 極と極とを蝶結び

 もっとも良い、と五回ほど全句を読んで思った。川柳らしい力に満ちた句が多い本会だったが、もっとも川柳というてこをうまく利用していると思った。まず前提、私ササキリはやはり定型が好き。「きわみ」と読まずに「きょく」と読む。これは、まず七五の部分が抜群にいい。極は、端を思わせる語だが、それを少しずらして用いながら蝶結びしてしまうところがすごい。蝶結び、紐というより端をつまんでやっている感覚があって、それをうまく言いのけたという感じ。清純派。そうそう、蝶結びには何か性的なものがある。結ぶ姿も、手も、軌跡もエロティックだ。そうそう、清純派なんだよ。(ササキリ ユウイチ)
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 めちゃめちゃ好きです。この句は完成されていると思います。まんまるがどうまんまるなのかを説明するのが難しいのと同じように、この句の良さを説明することが難しいです。……とはいえ、どう完成されているのかを説明するのが評なのですから、拙い文章ですが私なりの見解を述べたいと思います。まず良いなと思ったのが、使用されている漢字です。どの字をとっても詩的だし、意味的にも良さげなものが多いので非の打ちどころがない印象を受けます。漢字に限らないはずですが、まさに「非の打ちどころのなさ」がこの句の特徴ではないでしょうか。「極」が二つあるということは、極が属する何かしらは左右対称ではないかと推察されます。蝶結びも綺麗に結べば左右対称になる。この句の蝶結びは綺麗に違いないでしょう。左右対称のものが左右対称になる、という数学的な美しさも備えています。
 余談ですが、この句を見て私の頭に浮かんだのは上にバニラアイスクリームを頂点とするあじさい寒天パフェです。清純派がアイス、極と極とを蝶結びが寒天パフェ部分です。(南雲ゆゆ)

悲しい とニュースを流さないTV

 悲しいと、ニュースにはならない。悲しいから、ニュースにはしない。
 間にスペースがあるし、いくつかの解釈ができそうですが、かるい因果関係があると読みました。
 いま、視聴率が取れなかったり、えらいひとの都合が悪かったりなど、ニュースにならない理由は色々…そのなかで、悲しいから、という理由もなかなか怖いなと思いました。(佐々木ふく)
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 「悲しい」を流してほしい。とは言っていない。「流さないTV」ということを書いているだけだ。事実を記述しているだけである。だがしかし、ここは川柳の世界。この句が書かれることで何か、少なくとの私の心では何かが動いた。ニュースがみんな悲しみはじめたら世界はまた別の意味でとんでもないことになるだろう、とは思うけれど。悲しいと言ってほしい。(下刃屋子芥子)
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 「悲しい」とそのあとの一字空けを沈黙のような、TV自身の悲しみの表現ととりました。TVはあくまで媒体で、わたしたちは電波に乗った放送を受け取るだけですが、本当はTVだって悲しいことばかり流したくはないのかも。自分のボディから悲しいことばかり流すのは嫌だろうし、「ニュースを流さない」という選択をしたTVの自我を感じました。(城崎ララ)

あちらの水琴窟にボレロを

 水琴窟というものが分からず調べた。あれかと思った。水琴窟自体は音を反響させるものであり、ボレロが流れれば、ボレロを大きく響かせるのか。「あちらの」という言い方が、「あちらの(お客さん)」という言い回しを含んでいるようにも読めて、その場合の発話者の存在が気になった。(小野寺里穂)

カッパとじゃんけん カッパはパー

 これは声にだして読みたい。川柳であることを忘れさせる勢いが前半にあるのに、一字空白を挟んだ後半の「パはパー」の間抜けな断絶感で置き去りにされて、音で機先を制する勝負強さ。それにこの句は語り手の視点からの描写ではなくて、なぜかじゃんけんをするの河童自身の発話、指のあいだに水かきの膜がはった手を広げることの宣言というようにおもえた。ジャンケンの心理戦として出す手を予告すると緊張感がさらに増すと、字面のおかしさがじわじわと反転して怖さにうつりかわっていく。(公共プール)
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 カッパやからパーでしょ、という素直さが好きです。(佐々木ふく)

ご当地のソフトクリームのがらんどう

 観光地の、見所ではなく見過ごされ所に思いを馳せている。少し遠い記憶の中を吟行しているような雰囲気。
外に置かれたソフトクリームのオブジェ、あれならどこでも見かける。ご当地アピールしてるとしても色が違うくらいだろう。ここで見てるのは表面ではなくて、がんらんどう。中が空洞なのはそれはそうなんだろうけど……ふだんは想像しない。慣れない土地だと、見知っているはずの物でも見え方が変わってくる。ソフトクリームのがらんどうを思うとき、周囲の雑踏が遠のいて画像がゆっくり固定されるような、旅先で自分が透けてぼうっとするときの感覚がよぎった。共感の鍵穴から、ふくらみのある読み心地へと誘ってくれた。(嘔吐彗星)

探偵は料金後納郵便で

 探偵って、そんなたくさんの郵便物を扱うんですね。事務作業も多いのかな。
 案外、地道な作業な感じがして、探偵と関係なさそうで、響き合ってもいそうで…その距離感が良いなと思いました。(佐々木ふく)

わたしからはじめましての自我と蜜

 〈わたし〉という概念は他者の知覚によってはじめて成り立っている訳ですから、〈自我〉が誕生するのは〈はじめまして〉をするその時こそだともいえます。〈わたしからはじめまして〉するということは、相手にとっての〈わたし〉像を一から造形してゆけるということです。
 その甘美な感覚はまさに〈蜜〉そのもので、現代人のコミュニケーションを捉え得た重要な一句だと思いました。(松尾優汰)

双頭のラメ・・・血の気が引いていく

 私の身体には存在しないリズムで作られた句だと思いました。観念的な表現ですみません。とても良い句だと思います。「双頭のラメ」という視覚的に華やかな前半に続き、「血の気が引いていく」というホラーぽさに繋がるところに意外性を感じました。(南雲ゆゆ)

みさとリスのちがいしかないから似てる

  みさとリスを並べられるというのが川柳という詩型の強さだと思った。(雨月茄子春)
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 とても不思議な構成の句だと思いました。「みさとリスの差はわずかである」「何かと何かが似ている」「何かと何かはみさとリスのちがいしかない」という意味のことを言われているわけですよね。一般的な文章とすると主語に当たるのは何かと何かなのですが、その主語が顔を出さないというのが、句全体の謎を生み出しています。謎と言っても、答えを解くだけの条件が示されていない、というのも大きな特徴の一つです。つまり、「みさ」とは何なのか?という謎ですね。「みさ」がもっと一般的な名詞であれば、それとリスとを比較して、「何かと何か」がどんなものなのか推測を立てることも不可能ではないでしょう。しかし、肝心な「みさ」は正体不明。私たちはリスしか提示されていないんです。18文字を知覚しておきながら、リス以外何も分からないんです。もちろん良い意味で、ですよ。これは完敗です。川柳に、言葉に、まんまとしてやられました。(南雲ゆゆ)───────────────
 むちゃ言うなよ! と突っ込ませた時点でこの句の勝ちです。みさとリス? 母音はiaとiu、まあ、iは同じですけど二音の単語で一音違ったらもうそれは大違いですよ。だから似てるとは言えないけれど、言い切ることで川柳になります。
 みさとリス、不思議ですが、表記がひらがなないしカタカナなのが作用してか、だんだんなんの名前なのか分からなくなってきます。ぱっと見、みさは人名、リスは栗鼠だろう、と思いますがしかし。みさ、なるまったくの別存在がいるのではないか、あるいはリス、という名の業務用巨大製紙機械のことを指しているのではないか、などなど、読みを広げる余地があります。こう読むと、言い切りを弱める気がしないでもないですが、両立していると考えていいのではないでしょうか。断言しつつ、広げる。おもしろいです。で、結局なにとなにが似てるの???(西脇祥貴)

弱虫 🍯🌳 泣虫 兜虫

 絵文字……!!!ひと目見てびっくりして、いやいやでも記号がありだから絵文字もありだし、川柳ってなんて自由なんだ……と嬉しくなった句。しかしなんと読んだらいいのかわからず、読み方も読み手に委ねられているのかなあと感じます。木に蜜を塗ると、兜虫が来てくれる。ただこの🍯🌳は弱虫と泣虫に挟まれた位置にあるので、弱虫と泣虫で蜜を塗っておいたら兜虫がきてくれた……?句の意図としてはどういう内容になるのかなと気になります。二文字ずつに区切られていること、絵文字も二つで一セットにしてあることなどから四コマ漫画のようなストーリー性を感じました。(城崎ララ)
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 これはむししちゃいけないと思いました。「よわむし みつのき なきむし かぶとむし」でいちおう17音で脚韻。兜虫は、カブトムシ、ではなくて、にんげんの甲冑オタク?であってほしいです。(公共プール)───────────────
 やりやがったな句です。会報発行者泣かせですね笑
 絵になっているのがおもしろいです。二句(?)目の蜂蜜と木(=樹液の出る木)に向かって、弱虫、泣虫、兜虫の三匹があつまってきている、というのを視覚的に表わしていますね。で、昆虫だけでなく、人間の性質も混ざってあつまって来る、と。そういう意味では、泣虫、までをひとつの完成として、そこへ兜虫=実際の虫が来たよ、というおかしさが、虫の順番から読み取れます。それがちょっとあるあるな感じがあるのと、これ披講どうするのかな、というところが惜しいです。(西脇祥貴)

どのタイマーも眠りが浅い

タイマーもいつ人間の御入用になるか分からないから、うかうかぐっすりちは眠れないでしょうね。(松尾優汰)

悲劇でも喜劇でもないレンタカー

 「人生は悲劇(喜劇)」みたいなアフォリズムはよくあるけど、実際はどちらとは言い切れないもので本当はどちらでもないかもしれない。それでも進み続けるが、進んでいるその身体もなかなか勝手がつかめない借り物のようなもので、これもよくわからない。そんな人生へのひとつの見方を表した良い見立てだと思い特選です。(スズキ皐月)───────────────
 こういう言い方をどこかで見たことがある気がした。好きな言い方。レンタカー以外のパターンも色々見てみたいですね。(雨月茄子春)───────────────
 〈レンタカー〉はそのロード・ムービー的なイメージによって「青春」の象徴として看做されることがあります。
 そう考えたうえで、〈悲劇でも喜劇でもない〉といい気っているのがcool。〈でも〉の反復も効いています。(松尾優汰)

ルービックキューブの中で寝違える

 この句を読んで調べて知ったのですが、キューブの中心には空間があるのですね。〈ルービックキューブ〉のカラフルで鮮やかなイメージ対して、内部はいっさい光が入ってこなくて暗いし、寒そうだし、狭くて眠りづらそう。しかも〈寝違え〉ちゃって散散ですね……。しみじみと切ない感じに惹かれました。(松尾優汰)
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 最初は立方体のなかですやすや眠って寝違えた、おっちょこちょいな小人……そんなほんわかした童話のような世界を思い浮かべていました。が、よく考えたら、ルービックキューブって動かすものなんですよね。つまり中で寝ていた人の身体はぐるんぐるん動いていたはずなんです。それで寝違える程度ですんでいるのだから大したものです。
 ところで、ルービックキューブと言えば表のカラフルな面を想起するのが一般的ですよね。しかし本句は中身に注目しているのが興味深いです。しかもただ単に立方体の空間があるというわけではないところがミソだと思います。ガシャガシャと縦横無尽に動くルービックキューブの中を想像するのって、意外と難しくて、体力を使う活動で面白かったです。(南雲ゆゆ)
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 そんなところで寝るから寝違えるのだろう。ルービックキューブのなかでは寝るどころか生活すらままならないかもしれない。普段は楽しい玩具として扱われているルービックキューブを内側から見つめることで新たな発見と滑稽さを提示しており面白い。閉じ込められたキューブのなかで、単に「寝違える」という肩透かし感も良い。(二三川練)───────────────
 ルービックキューブの中は狭くて硬いだろうから、寝違えるでしょうねと思うと同時に、自分はこれまでルービックキューブの中は空洞なのか、中身が詰まっているのか分からず回転させていたことに気づいた。しかも操作されている途中であれば、上下左右に揺さぶられて、眠るどころではないだろう。こんな場所で寝たら寝違えましたシリーズの続編も読みたい。(小野寺里穂)
 ルービックキューブの中にいたら、寝違えではすまなさそう。(佐々木ふく)

今日でこの身体も終り🧍🧍‍♂️🧍🧍‍♂️に並べておく

 ちいかわという漫画作品があるのですが、ちいかわたちがなんとかバニアに変えられた回を思い出しました。今日までこの絵文字は人間だと思っていたのですが、もう人形にしか見えなくなりましたね。こういう、先入観が意外な形で壊されると快いです。(南雲ゆゆ)───────────────
 やりやがったな句2。やりやがったな、は褒めてますので!
 絵文字を使ったのはこちらの方がおもしろく思えました。人の絵文字が並ぶもの(場所?)の名前をあえて付けずに、絵文字でしか表せない貯蔵庫(?)みたいなものとして出したのがおもしろいです。横書き必須。そして体は使い捨て、ないし借り物という思想をカジュアルに使っているのがいいです。肉体の死、というより精神 goes on、みたいな。かろみ。絵文字もかろみに寄与していると言えましょう。(西脇祥貴)

尊厳のアスペクト比は日替わりで

 アスペクト比という言葉からiPhoneを連想しました(iPhone以外にもスマートフォンはあるのですが、ここでは象徴的にiPhoneとしておきます)。私はiPhoneユーザーなのですが、iPhoneとアスペクト比、そしてiPhoneと尊厳は密接に関わると思っています。iPhoneの洗練されたCMに憧れてガラケーからiPhone5に買い替えた高校時代を皮切りに、iPhone7→iPhone12という変遷を経ていますが、買い替える際、常に、iPhoneのサイズ(=アスペクト比)が自尊心(≒尊厳)に繋がっている感覚がありました。大きくなればなるほど、それを所有している自分の先進度が増す気がするんです。とにかく私がここで言いたいことは、iPhoneの登場によって、人々は数年おきに尊厳付与機能を更新しなければならなくなった、ということです。句に戻ると、数年おきなんて生易しいものではなく、日替わりになっています。この句の世界で生きる人々の、日々迫られる闘いのすさまじさに思いを馳せました。(南雲ゆゆ)

忘却の犬が集いし平泉

 平泉で詠まれた俳句「夏草や兵どもが夢の跡」を念頭に置いていると理解しました。色々と悲劇のあった土地ですが、そこで死んでいった者たちが、犬に生まれ変わって、戦争とか謀略とかを忘れて過ごしている。戦災で奪われた命に対する祈りが込められていると思いました。(南雲ゆゆ)

間違い電話に天皇が出る

 シンプルかつインパクトが強くて、初読で掴まれた。奇想でも言葉遊びでもなく、純粋に「もしも」の想像で巻き込んでくる。天皇自ら電話に出ないだろう、取り次ぎの者がいて……大体、スマホを持っていなさそう。というのは偏見か、スマホくらい持ってるかもしれない。間違い電話って昔より減ってるんじゃないか。その中で天皇が出る確率……絶対になさそう。でももしかしたら、状況によっては。出たとして、間違えましたと切る以上のことは何も起こらない。地味すぎる奇跡。三要素がばっちり押さえられていて脱帽する。(嘔吐彗星)
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 間違い電話と天皇の取り合わせがとにかく素晴らしい。日本語としては単語は平易で文法的にも正しいのに、情報量がすごいですね。少なくとも①天皇は電話に出る、②天皇が間違われる、ことが提示されています。天皇が出ると分かっている状態なのだから、もしかすると「もしかしてその声は……天皇ですか?」「はい、そうです」みたいな会話があったのではと考えると……シンプルな句なのにどこまでも話が広がりますね。
そもそも間違い電話という単語は、家庭に電話が普及するにしたがって定着したのだと思いますが、それと天皇という権威の象徴を取り合わせることで、権威の剥落が面白く表現されていると思いました。(南雲ゆゆ)───────────────
 間違いで天皇にアクセスできるルートがある、というのも面白いのだけど、そもそものところ天皇が電話のベルに鼓膜を揺らし、いそいそと立ち上がり電話を取る、という光景を顕現させたのがGOODポイントだと思う。(雨月茄子春)
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 すごく丁寧に対応してくれるかもしれません。(佐々木ふく)

かくりまつりくつのなかにあるまくら

 オールひらがな大好きです! じつは!!! でもむずかしいのも知ってます。ひらがなに開く以上ある程度意味の広がり・ことばのつながりの可能性の広がりを持たせないと雰囲気だけになってしまうし、なにせひらがなだけにするといやでも音が意識されてしまう。ことばだけでなく音にも語らせるなにかがないと、ただただ雰囲気だけでなにもなかったな、となりがちです。
 この句はその音がいいです。野暮ながら漢字かな交じりに一例として直すなら、「隔離待つ理屈の中にある枕」となるのでしょうが、ひらがなにひらくことで音のつながりもひらかれ、漢字かな交じりで読むときとは違った音の流れ、韻の踏み方が見えてきます。
 かくりまつり、が母音でいくとaui auiでそろい、まつりのつ、とりくつのつ、がフローをつなげます。それに少し重なるかたちでりくつのり、となかにのに、がi音でつながり、さらにつづくあるはまたしてもau。それで足りずまくら=auaでau音のつながりを最後までつなげ、まくらのら、とあるのあ、で前からのフローを回収して着地。いくつかの層で音をつなぎ合いつつ一句が出来上がっています。
 ……ここまで解きほぐした以上、ぼくは音からこの句ができたと思っていますし、ここまで音にたよって川柳ができるんだ、ということにため息すらもらしてます。それでいて読み取れる事柄も多く(隔離の次にすぐ対照的な祭がくる、理屈と靴が重なって妙に物理的なイメージが見える、まくらは咄のまくらと寝具の枕のどっちで取ってもおもしろい)、おなかいっぱいです。でももっと読めそう。(西脇祥貴)
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 頭の中で変換すると候補はふたつ。「隔離祭り靴の中にある枕」か「隔離待つ理屈のなかにある枕」か。
 隔離祭り、の語の強さ。隔離待つ、からも感染状況を連想させる。靴の中に枕を押し込める無理矢理さ。キャパシティオーバー。ひらがなにしているのも批評的な意図からか。同じことを繰り返し呟き続けて呪文めいた響きになってしまったようでもある。解けはしなくて、妙に心に絡まってくる句。(嘔吐彗星)

犬っぽい郵便ポストしかいないのか

 「いない」というのがポイントだと思う。「犬っぽい」という言葉でポストを動物に喩えたかと思うと、さらに「いない」という言葉を重ねることで、ポストが動き出しそうな感じがする。発話された言葉のようにも読める。──小野寺里穂

煉獄はぽんのり灯る窓ふたつ

 〈ぽんのり灯る窓ふたつ〉……! 〈煉獄〉をこうして定義してみせるのはお見事としかいいようがありません。ぶったまげました。〈ぽんのり〉というと暖炉かなにかの灯りが洩れているのでしょうか。童話的な感じがあって愛らしいです。〈煉獄〉が楽しそうな場所に思われますね。
 句の形式美的なところに話を移せば、〈煉獄〉という語からは(主に「煉」の字によって)火や光、赤色を連想します。その意味で、〈煉獄〉と〈灯る〉どうしは(同じ火偏ですし)親和性が高いのかもしれません。句を貫く印象としても整っているように感じました。(松尾優汰)───────────────
 煉獄篇をつくることができる。川柳の可能性はここにあると私は考えたし、というかみんな考えているはずだ。その一つの小さな成果。(ササキリ ユウイチ)
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 暖色の湿った灯りが浮かぶ、地獄の余熱を利用したサウナ。ふたつの窓の外には天国と地獄が広がっている(曇ってて見えないけど)。暑さに耐えて汗を流せば罪が浄化される、カジュアルな苦行。ぽんのりを忘れられずに罪を重ねてしまうリピーター続出。(嘔吐彗星)

一軒となりに独裁者がおる

 〈一軒となり〉と〈独裁者〉のスケール感の違いがこの句の面白さだと思うのですが、〈独裁者〉の語で、昨今においてはいろいろ考えちゃいますね……。
 個人的な〈独裁者〉の例を挙げるのは控えますが、社会科の教科書で読んだような肖像画や写真が脳裏に浮かびあがってきます。〈独裁者〉のもとには必ずその犠牲になる人が多くいて、ある意味ではそうした〝不謹慎さ〟とでもいうべきものが伴ってくるものです。この句ではそんなイメージを〈一軒となり〉という語で身近に引き寄せて、〈おる〉というカジュアルな発声によって一気に摑まえ愚弄してしまう。〝不謹慎さ〟を認識したうえで(あるいはその〝不謹慎さ〟自体によって)笑いがこみ上げてきてしまうのは、作者と読者との共犯関係を生んでいるともいえます。ふふふ、っていう笑いです。
 この句の世界くらい、ほのぼのとした世界が来ることを祈ります。(松尾優汰)
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 日常生活に登場する「一軒となり」という言葉、国際情勢や歴史に登場する「独裁者」という言葉、対照的な両者を取り合わせることでコントラストを生み出しています。テクニカルな前半に対し、末尾の「おる」は、本当にどうやって思いついたのか逆立ちしても分かりません。私のインプットには存在しない作句法を見せつけられたような感じがして、非常に衝撃を受けました。私は「いる」を「おる」と表現する言語圏で生まれ育ったので、「おる」はその「おる」だと当初理解していました。ですが、他の「おる」である可能性は十分考えられるんですよね。特に謙譲語の「おる」、「部長はただいまおりませんが」の用法で、「独裁者がおる」という表現をしていたら面白いなと思いました。(南雲ゆゆ)
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 私ササキリは、川柳をつくりはじめてから、如実に戦争のことを描こうとするときがあって、それは世界がきな臭くなる以前のときから。独裁者を「おる」などとばかにしやがって。(ササキリ ユウイチ)───────────────
 それはやっぱりちょっと怖いですね。「一軒となり」ってクッションをもたしてみても、結局「となり」やし…
 でも、お隣さんとしては、案外問題のない人かもしれません。外面は良い。
 シンプルに日本とロシアの比喩かもしれませんが、それでもあえて、民家を想像したいです。すぐとなりの家に政治家的な独裁者が住んでいる。そのギャップが好き。
 ただ、独裁者は、家父長制的な、モラハラ的な、独裁者とも読めるなと思いました。それはそれで、嫌な感じです。やっつけたい。
そして、となりにいるなら、この家にもいるかもしれない。そういう気持ち悪さもじわじわとやってきました。
 「おる」という口語が軽くて、ほんとにいそうで、良いです。(佐々木ふく)

おしゃれ着洗いの懇願を聞かせて

書いてある言葉はシンプルだが、情景や感情が動く。それは私の中にあるのか、そこにいる見えない人の中にあるのか。それは世界が立ち上がるということなのだろう。かもしれない。(下刃屋子芥子)───────────────
 洗濯物視点で考えると、洗濯って密室に閉じ込められて水責めに遭うようなもの。そう思うと、弱流水の音が「ここから出して」と頼んでいる泣き声に聞こえてくる。けれど主体は悠々としたもので、肘掛け椅子で紅茶でも飲みながらお話聞かせて楽しませて、といった調子で、懇願がまともに聞き届けられることはなさそう。絶望的な非対称性。洗濯は日常的な営みだし、おしゃれ着の語彙や口調も軽いんだけど、不穏で仕方なくなる。(嘔吐彗星)───────────────
 韻律と内容が合っている。良い韻律。(雨月茄子春)───────────────
 けっこう気軽におしゃれ着洗いを使ってしまうので、ドキッとしました。そうか、何か言いたいことがあったのか…しかも懇願のレベルで…
 あんまり気にしてなかったけど、普通洗いよりおしゃれ着洗いの方が、音も控えめなのでしょうか。
 この句で、耳を傾けてもらえて良かった、の、かな。(佐々木ふく)

埃の恥部を中指で打つ

 ザ・クロマニヨンズというバンドの「歩くチブ」という曲が頭のなかでずっと鳴っています。ボーカルの甲本ヒロトが〈全身恥部! イェー!〉と叫び、〈身体の一部が恥部じゃない/わたしは全部/恥部なんだ〉と歌う曲です。
 わたしたちが〈埃〉として認識している彼らにも〈恥部〉が存在している、と仮定してみると不思議な感覚になります。わたしたちは何にも気にせずに、軽い気持ちで、〈埃〉を〈恥部〉ごとはじき飛ばしてきたのですから。(松尾優汰)
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 川柳で"近い"とか"付きすぎ"と聞くことがあって、埃の~以下は当てはまるんじゃないかと思う。(この評語の用法をはっきりとは把握できてないけど、「順当で飛躍に欠ける」というような意味合いで捉えてます。違ったらすみません……わかる方がいたら教えてください。)
 この句は"付きすぎ"をあえてやっている気がする。性的な読みから逸らさないようにくどくすることで、「埃」との接続にねじれを集中させ、「埃の恥部」を強調する。このねじれの強さは、例えば「埃にまみれた恥部」のように一応意味の通じる文の省略としてではなく、「(身体を持たない)埃自体の恥部」を想像させてこようとする。そこに美化や昇華のようなわかりやすい狙いはなさそうなのに、無理めな想像に働きかけてくるのが面白い。意地悪とも言う。屈伸運動みたいに楽しめた。(嘔吐彗星)───────────────
 謎ポイントが三つ。埃に恥部があるということ、それを打つということ。そしてその打つ指が、中指であるということ。この三つの謎がばらばらに散るのでなく、絶妙につながっていて、あり得る光景、しかし実際どうやるのかはよくわからない光景になっているのが、読ませる句です。
 どこだろう、恥部。核に近い奥の方かな。そもそもどんな埃かな。綿ぼこり? 砂ぼこり?? それを打つ心とは……。あ、埃がなにか、よくないものの比喩なのかも。それを打つ≒成敗するなら、中指でしたくなる気持ちも分かるか。打つ、というより刺す、くらいの感じですかね。行為だけ見ると怒りでやっているようで、部位の特定や指へのこだわりなど、冷静さも見えるのがどこかこっけいでもあります。そんなんで足りるのか、と。かなしい抵抗なのかもしれませんね。(西脇祥貴)

五月から十月まで引き上げてよし

 中八を憎い、と思った。中八が憎い、とはこのことか、と。(ササキリ ユウイチ)
 何を引き上げるのか。誰が引き上げるのか。五月そのものを、十月そのものにまで引き上げられそうな、妙に自信満々な「よし」が良いですね。「よし」と言うからには、そうなのでしょう。(佐々木ふく)

象限が割れて尋ね人露わに

 原点Oからパキュリ……と割れて人が出てくる光景が見えました。(雨月茄子春)
 証言が割れていて、尋ね人が見つからない、ということを連想しましたが、なるほど、たしかに、象限が割れたら、その割れ目から尋ね人が露わになるかも。なんか、よくわからないけど、時空とかがゆがむかも。(佐々木ふく)

曾祖父がコムマアシャリズムになって仕舞う

 旧かな、フェチいですねえ……。そういえば、川柳での旧かなの立ち位置ってどうなのでしょうね。現代川柳、となったとたん、あまり見かけないような、だからかえってフェチいな、と思うのかも。
それもコムマアシャリズム。コムマアシ"ヤ"リズムにせず、なっての"っ"を大文字にしなかったのは、なにか意図があるのでしょうか。旧かな検閲官ではないですので、コムマアシャリズム、の圧を使い、かつ引き立てたかったのかな、くらいに取りました。
 あらためまして、コムマアシャリズム。「商業における利潤を最大化しようとする傾向」(wikiより)。それに傾く、ということを、なって仕舞う、というのはおもしろいです。人があるイズムにかぶれるのと、そのイズムになるのとの間には、雲泥の差がある。相当の焦りをこの句からは感じます。異形のイズム、という恐怖を煽るには、たしかにコムマアシャリズム、の表記が最適でしょう。コマーシャリズム、でもおもしろいですが、旧かなもあいまって怪談めいた怖さもにじみます。古書に閉じ籠められた呪いみたいな。たしかにコムマアシャリズム、呪いとしての年季、入ってますもんね。(西脇祥貴)

眼球のわがまま 煮えれば月の花

 眼球が煮えてヌトリ……と花が開く光景が浮かびました。わがままの部分は動くような気がするけどここが個性の出しどころだと思った。(雨月茄子春)
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 似ている。なにに。「印鑑の自壊 眠れば十二月」に。
 ササキリさんのおかげで、もはや現代川柳の話になると真っ先に引き合いに出される句になりそうな予感がし出している印鑑の自壊。似ているったって、「〇〇の●●(一字空白)××れば△△」というフォームが同じというだけで、中身は違うんですけどね。だれかいちどやってくれないかなあ、このフォーム縛りの句会。
 しかし使っていることばだけでなく、フォームの類似だけでもここまで第一印象で似てる、と思えるものなんだなあ、と改めて思いました。内容としてはひたすらの飛躍。眼球のわがまま=R.E.M? 煮えれば(なにが?)出てくる月の花、とは? 湯の花みたいのを思ってしまいましたが、ともかく謎の多い句です。も少し補助線があれば、と思ってしまいました。。。(西脇祥貴)

透け感のあるダークスーツ

 ビジネスシーンで着用するダークスーツに透け感は求められていない。むしろ困るはず。つまりダークスーツにおける透け感はマナーではなくファッションなんですね。ぜひ流行らせてマナー業界に風穴を開けてほしいです。(南雲ゆゆ)

進化論まちがえたかも ほしたべよ

 進化論という大きな題材に対して、「ほしたべよ」という投げかけが、星型のグミを口に入れるような、進化論そのものを生みだした地球という星ををパクッと食べてしまうような、とにかく軽さを持って応答しているところが面白い。平仮名の連なりもポップさを助長している。(小野寺里穂)───────────────
 まちがえたか〜!そっか!で済ませちゃダメな大事が起きているんですが、「ほしたべよ」に着地しているこの軽やかさ。「ほしたべよ」をそのまま天の星に手を伸ばす概念的な神様の姿をイメージしてもいいと思うのですがこれはお菓子の「ほしたべよ」の方かな〜と思いました。進化論まちがえたかも……と思いつつ、お菓子をぱりぱりしているこの呑気さ……もうどうにでもな〜れ!みたいにいっそ潔さまで感じます。進化論間違えたらどうなったのかなあ。この「進化論まちがえたかも」がもし執筆途中のダーウィンならまだしも、進化論としてまとめられることになる過程そのものの「まちがえたかも」だったらだいぶまずいと思うのですが、そんな深刻さを吹き飛ばす「ほしたべよ」。ぱりぱり齧る音まで聞こえてきそう。いい取り合わせだなと思います。(城崎ララ)
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 ギャルの神ですね(南雲ゆゆ)

違う違うタクラマカンはもっと後

 まず「タクラマカン」について。短詩における語彙は、題詠でないような場合、よくアクセスされるばしょは、義務教育や高校での課程な気がしている。タクラマカンは、その意味で地理で聞いたな、と思えるような語だと思う。「この前授業で聞いた語」が、クラスの流行語になったりするような場合(往々にして下ネタなのだが)。
 あ、違う違う、タクラマカンはもっと後。
定期テスト前に過去問が配られて、穴埋めをしているときに、もはや答案の場所と順番だけを覚えてしまっているような、要領のいい人、その人の台詞っぽい。タクラマカン(砂漠)はもっと後に出てくるよ。(ササキリ ユウイチ)
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 砂漠ランキングとか作っていそうなときの句。あるいは死の〜ランキングか、一度は行ってみたい魔鏡ランキングとか。もっと後っていうのが面白いなあと思いました。誰かとの認識の擦り合わせみたいで。この辺タクラマカンじゃない?みたいにスッと差し出されたタクラマカンを退けつつ、「違う違う〜」と返す。一体何が作られているところなのかなあ、ひとの手のような、あるいは神の手のような、誰かが何かを作ろうとしてる気配。完成したものを見てみたいですね。(城崎ララ)

|皇御祖(すめみおや)ユネスコからのおくりもの

 この句とあわせて、大日本帝国憲法、日本国憲法、ユネスコ憲章、自民党の憲法改正草案を読みくらべたいところ。(公共プール)

せめて切手しりとりしたかったのた

 切なかった。それは多分、初読の幻視「したかったのだ」という口調の無邪気さに由来していると思う。その切なさを引き連れて、「したかった」の「た」。ドはドーナツのド、のような言いさしがなされている。「この『た』は何の『た』?」と問われて、句のような返答が出てくる。切手しりとりというのはわからないけれど、だからこそ「本当」の願望のように感じられた。「したかったのた」という乾いた音の連なりもまた、切なさをブーストしている。(雨月茄子春)
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 せめて、ということは、何かしらの妥協。妥協としての、切手しりとり。
妥協の割には、なんか切手がたくさん必要だったり、あるいは知識が必要だったりで、ハードルが高そうです。でも、相手に送るためのものである切手は、案外、相手に言葉を送り続けるしりとりと親和性が高いのかもしれません。中身の言葉は書けないけど、切手をはった手紙だけでも送り合いたい、それでしりとりならできるかも。最後の「のた」は、「しりとりしたかった」の「た」と、読みました。早速「た」からはじめてみましょう。(佐々木ふく)
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 なにか構造上のとんでもない発明が行われている気はするのですが、なんともそれを言い表しようがなく……。強いて言うなら、一句を会話の抜き書きに仕立てる例はあっても、まさか全体をしりとりのひと返しにしてしまうなんてのは、これまでなかったんじゃないでしょうか。しかも十七音。ビー面、毎回どなたか何か発明されますね……。
 だって修飾語、被修飾語の関係で捉えるなら、この句のメインは「た」の一文字ですよ? もうそれだけでうしろへひっくり返りますよ。。。「この句で言いたいことはなんですか?」「た」。んぎいいいいっ、ってなります。ここまで何もなくできるなんて。しかもゼロじゃなく、確固として残される「た」。もはや執着すら感じられます。
 で、入りが読み手にやさしいんです。「せめて切手しりとりしたかった」、って、まあたしかに切手しりとりなんやねん、という突っ込みどころはあるんですけど、さっと読んでも別れのせつなさ、しかも「切手しりとり」なる特殊なしりとりをしようとする特別な関係の、終わりの空気は伝わってくる。みなさん嫌うところの(嫌いですよね??)共感に訴える仕組みがしっかり使ってある。しっかり使った上で、使いつぶしていやがる。いやがるって言っちゃった。でも言いたくなるでしょう、これだけの大仕掛け使っておいて、残るのが「た」、の一文字ですよ?! よほど日頃から共感の野郎ぶっころしてやる、と思っていなけりゃ、こんなむごいことできませんよ(絶賛しています)。
 発明の度が過ぎて、これ以降この手をそのまま使うことはできなくなってしまいましたが、作者の方にはぜひその責任を取って、このスタイルでの連作を作っていただきたいものです。まさしくしりとりで。うわあ、歴史に残る連作の予感。(西脇祥貴)
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 「切手しりとり」が何かわからないけど、これが「せめて」になるシチュエーションはどういうものだろう。想像がつかないけれど別れ際のそれのような哀愁がある。その哀愁をこらえるようなユーモアも、しりとりを続けようとするところに感じる。(スズキ皐月)
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 これって、切手しりとりしたかった……といいつつ、しりとりをしている様子ではないでしょうか?「次は『せめて切手しりとりしたかった』の『た』だよ」みたいな。「『りんご』の『ご』だよ」のノリで。日本語の、その部分を切り取るのが斬新です。(南雲ゆゆ)

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