味がしないアイスクリーム

 センセイは笑って私の手を握った。私、本当は朗らかな夜の街灯にもよく似たセンセイの顔に触れたかった。香水の匂いがしない、香料ゼロの柔軟剤で洗われた無益な匂いがした白衣。その匂いが好き。白衣にはちゃんとアイロンがされているのに、白衣の下のシャツには細かい皺が目を凝らすと見える。センセイのこういうところがとても好き。

 幸せは輝くものじゃないと、私が思っていることをセンセイは知っている。それでも、私には幸せが必要なんだと諭している。センセイは必死ではないけど、毎回丁寧に、私の目を見て話てくれる。その時間が何にも代え難いくらい好き。私の幸せはこの中に詰まっている気がしている。ただ、光り輝いてはくれないけれど、それでも私の幸せはこの延長線上を繋いだ先にあると、確信できる。

 「椎名さんは、最近外に出てますか?」

 「この白い肌を見てくださいよ」そう私が笑うと、でも、とセンセイは続けた。

 「約束したじゃないですか、次来るまでに外に出て日光を浴びると」

 「日光浴びましたよ、今日」

 私の笑顔に困った顔をするセンセイに触れたい。それでまた、困って欲しい。困り果てて笑うしか無いセンセイの心の中、溶けてしまいたい。

 「椎名さん、お父さん帰ってきました?」

 「そんな簡単に帰ってきたら、私は悩みませんよ」

 そうですねすみませんと言って、俯いて笑った。あんまり大きくないこの部屋の中には、カーテンを透かして通る日光がちょうどいいくらいの明るさをもたらしてくれる。ココに来るまでに見た、たんぽぽはそういえば発色の良い黄色だった。私もこうなりたいと思った。

 私の後ろにできた陰は、私の汚いとこだけが滲んでしまっているみたい。センセイはもしかしたら、私じゃなくて私の陰を見ているかもしれない。それでも、いいかもしれない、私に変わりはないから。

 「センセイ日焼けってね、火傷なんだよ」

 「そうですね」

 「それって、体にたくさんの傷をつけることと同じなんじゃないかな」

 「私は、椎名さんが日焼けしても綺麗だと思いますけどね」

 センセイは、私のことを肯定し続けない。私のハートに太陽の生温い笑みが触れた。心臓が少し痛い。





 蝉の鳴き声が、空間を閉じ込めるように占めている。すれ違う若い親子達の温度は同じくらいだろうか。年を取ると声が低くなる、体も大きくなる。そうなっていく中で愛も肥大化するのか。白い光が頭上から真っ直ぐ私に向かって落ちてきている。汗は流れず、瞬きは長くなる。


 目を開けると、太陽の光よりも汚れた白が目の前に広がっていた。横からセンセイの生活音が聞こえる。センセイが居るってことはここは部屋の中なのだろう。一周回って落ち着いたような目のさき、文字が沢山浮かんでいる。あの本と手の間にある、押し花で出来た栞に私はなりたい、そう思ってしまった。無くなることのない思いと意味の塊の栞に。

 「体調わるくないですか?頭痛は?吐き気は?」

 答えへの選択肢が沢山ある方が困るよ、なんて思ったら笑けてきた。体が怠いくらいです、と言うと奥にある冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して私にくれた。水に白い絵の具が混ざったみたいな色をしたスポーツドリンクは、味がしなかった。私がそれを押し込むように飲むと、センセイの目の中にあった疑心のような色に安堵が混ざり込んでいるように見えた。

 「水分をとること、普段から外に出て体を慣らすこと」そう言って私に言い聞かせた。

 いつの間にか、肘にかすり傷が出来ていた。傷跡はついていても、綺麗になっているところを見るとセンセイの優しさを感じる。傷にエアコンの風が滲みる。ただ、エアコンの冷たさが温もりのように心を包みこんでいた。センセイの白衣には今日は、皺が少しついていた。私のせいで出来たのか、それとも今日はアイロンが中途半端なのか分からないけど、私のせいで出来てたら良いなと思う。

 「白がとても眩しくて私には毒です」

 「毒も慣れれば薬だったりします」

 私の生意気を否定しないのが、いつもと変わらなくて安心した。目を開けたときから感じていた、胸の鼓動が少し落ち着き始めた。半分くらい残ったスポーツドリンクは、汗をかいていてもう触れたくなかった。

 「今日は、休むことに専念してくださいね」

 その声に安心して、私は目を閉じることにした。今の自分も、傷も、見たくないし、ただセンセイを感じていたい。



 澄み切った空が私達の周り、あいだを埋めて夕焼けの光が真っ直ぐ私達を包みこんだ。センセイは、白衣を脱いで皺の付いたシャツを着ている。街中はたくさんの匂いで溢れていて、私は一生懸命センセイの無毒な匂いを追う。街中を少し歩いた所に自然が孤立した公園がある。匂いと音と、沢山の証拠を残す後をひたすらついて行くと、その公園に入っていた。

 「変わりないですか」

 主語が無いと困るよと思いながら、わざと主語をつけてないのだろうなと思った。急遽入れられた予定もセンセイは、時間を無理矢理作ったのだろうと思う。無理矢理作った時間にしては、茜色の空みたいにやけに時間がゆっくりしている。暑さも落ち着いて、周りにはあの空から生まれたであろう赤いトンボが飛んでいる。

 「変わらないです」

 「そうですか」

 センセイは、私よりも悲しそうな顔をしていて、その顔で悲しくなってしまう。枯れ葉が渦を巻いて、遠くに遠くにと離れていく。あの部屋と違って、公園はセンセイが薄くて心臓が苦しい。私はもう少しだけ近付きたい。

 「お父さんが死のうと私の心には穴が開かないの、煩わしい重りが外れたくらいなの」

 「重りが外れた後は、ふわふわしてるんです。今の自分の重さに気づいた時が大変なんです」

 いつもと変わらず、目を見てまるで私と同じ経験をしたかのように言った。妙な説得力で私達の間が少しだけ遠くなってしまったようだった。茜空が失った時間を取り戻したのか、黒を取り戻していった。

 「悲しそうな目が痛い、私のありとあらゆるところが刺されているみたい」

 「そうですね、でも私も今どんな顔をするのが適切なのか分かりません」

 「本当は笑ってほしいけど、きっと無理だよね」

 不器用な笑顔を私に向けた。私が触れたかったセンセイは今とても眩しい。



 劈く寒さは、徐々に訪れていたはずなのに突然体を蝕んだ。重い足が歩くたびに少しずつ重さを増していく。こんな事は初めてだった。私にとってセンセイとの時間は、何にも言い難いものであったのに、何が変わったのか。名前がない感情が離そうとはしてくれない。

 「椎名さん、心配しました。前みたいに倒れてるのかと」

 「センセイ、こんばんは」

 私の隣まで黙々と歩いて、優しく二の腕を支えた。雪を溶かすために生えた熱い手のひらを感じる。優しいんだけど、大きくて強い手が私の体を傷つくように錯覚する。

 葉っぱが無くなった寂しい木は、もう一人の私とセンセイの影に似ている。私はこんな薄っぺらくなっているのだと、まざまざと見せつけられている。

 「肘のかすり傷、もう治ったはずなんですけどまだ痛いんです」

 センセイは、私の肘を覗いて何も無いのを確認し終えると優しく撫でた。ざらざらとした感触に更に痛みを覚える。熱いはずの手と私の肘の間に細かくなった氷があるように、擦れて痛い。でも、その氷も徐々に溶けて温もりで痛さも和らいでいった。

 ようやく、私の目にあの夜の街灯に似た元の顔が見えた。光の周りが藍に染まった涼し気な明かり。ただ、これが前と違って私の幸せの延長線上か分からない。確信が隠れてしまった。

 「傷付いて傷付いても、私の幸せはきっと空で、ひび割れた指先じゃきっと片鱗にすら触れられない。甘くないんだって笑ってる。誰か分からないけど、きっと」

 センセイは黙ってしまっている。困っているのだろう、撫でている手は止まってしまっている。熱さも少しずつ、空に飛んで、私の肌は冷たくなっている。困ってる顔に苦しくなるとは思ってなかった。

 「僕はね、幸せって傷がつかない状態を保持するわけじゃないと思うんだ。傷付いても良いと思えることなんだよ。だからみんな苦しんで幸せになりたがってる」

 今まで見た顔の中で一番優しくて、今までのセンセイとの会話の中で一番適切な言葉を探していたように思う。

 「この白い肌の下、赤い血が流れてる。この体その全てを認めて上げるのは、僕もまだ出来てないけど愛そうとは思っている。それが終わらないと他人なんて見てられないよ」

 

 父親と母親が、私の知らない所で心中を謀って、父親だけが残って母親が冷たくなって、いつの間にか父親も居なくなって、この前死んだ。


 私は、春を待っている。夏も待っているし、秋も、冬もきっと待っている。何回も早く周って欲しいと願っている。何回も周る中で、冷たさと熱さに慣れていく。それを待っている。

 日に焼けて、細胞が無くなって、新しく細胞が出来上がって、私の体も前とは違うものになる。それを待っている。

 愛していたいと、私も思った。愛せるようになりたいと、思った。

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