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なぜ、わたしは書きたいのだろう

本当はくだらない毎日のよしなしごとを、そこはかとなく書きつけたいんだけど、いつもイシキタカイケイの、モチベーションとか欲求とかそんな話題になってしまっており恐縮です。

と言いつつ、今日も自分がなぜ書くのかについて考えてみたい。


小説も好きだけど、同じくらいエッセイも好きだ。普通ではない着眼点のもの、豊富な語彙力で表現力豊かなもの、屁理屈をこねくり回しているもの……。日々感じたこと、ふとした違和感が丁寧に描写され、作者の素が否応なく垣間見られるエッセイは、なんだかより作者とお近づきになれる感じがする。

最近のわたしは哲学者の土屋賢二さんの本を読み、詭弁とこじつけの応酬に半ば呆れ、そして大いに笑っている!

ほかにも、みんなの憧れ向田邦子さん、以前の記事でもあげたさくらももこさん、小説家の三浦しをんさん、歌人の穂村弘さん、翻訳家の岸本佐知子さん、まだ20代のくどうれいんさんなど、たくさんの方のエッセイに慣れ親しみ、楽しませてもらってきた。

(先日読んだ、イラストレーター三好愛さんの著作『ざらざらをさわる』も、日々のもやもやを丁寧になぞっていて面白かった!)


日々多くの作品を読んでは、膝を打ったり笑ったり感心したり、ほろりしたりしているのだが、これらの作品を読んで、わたしはどのあたりに羨望ポイントがあるのか? をちょっと考えてみた。

言葉選びの美しさ、比喩の面白さ、読ませる展開力、滲み出る知性や教養。もちろん羨ましい部分は数多ある。だけど、ことに私が羨ましいと感じているのは、「思い出をぎゅっと真空パックしている」点なのかもしれないと思い至った。

文章がうまい人は、起こった出来事だけでなく、それに付随した「自分の感情」を背伸びすることなく等身大で表して、文字の連なりとして定着させることができる。

自分が何を考えているのかを見つめるだけでも難しいのに、そこに適切な言葉を与えて、過不足なく表現するのはどれほど難しいことか!

そして結果、一枚の写真よりも雄弁に、その出来事をぎゅっと閉じ込めていられることに、大変な羨望を感じる。


そしてわが身に再び問う。わたしがなぜ書くのか。

それは「忘れたくない」からだ。

友だちと息のできなくなるほど笑ったあの日も、お母さんにかけてもらった大切な言葉も、愛犬の向こう見ずな愛くるしさも、秋の鈴虫が鳴く帰り道も。その時に感じたかけがえのない気持ちが、消えてしまうのはどうしてもさみしい。いつもすぐに取り出せるように覚えておきたい。

わたしにとって文章を書くとは、書く時の一番の願いとは、過去を振り返り、その時の感情を過不足なく描くことにある。それができればひとつの達成なんだと思う。

どうしたらもっと読んでもらえる? どうしたらもっと文章がうまくなる? 手段(How)ばかり問い続けてしまっていたけど、なぜ書くのか(why)に立ち返って、一番大切な「自分の喜びや満足」をまずは起点に動いていけたらとてもよい。


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