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掌編小説288(お題:群れないムジナ)

きっと受験に失敗したからだと思う。新しいアルバイト先も、まだ、決まっていなくて。高校生でも大学生でも、フリーターでも、何者でもないから道に迷ってしまったのだ。

予備校から帰るところだった。石畳で舗装された歩道をなんとはなしにながめて歩いていたら、どこでもない場所へ来てしまった。どこでもない、としか言いようがない。建物、街路樹、通りすぎていく自転車や自動車。人々。今しがたそこにあったはずの光景がきれいさっぱりなくなっていた。

霧が出ている。腕を伸ばすと手先が見えなくなるほどのとても濃い霧だ。道に迷ったとき、昔の人たちはキツネやタヌキに化かされたということにしていたのだっけ。都会に狐狸などいるのだろうか。稲荷神社なら、このあたりにもあるかもしれないけど。

「いかにも、我は狢である」

突然、耳元で声が聞こえて縮みあがる。ふりかえるがなにもいない。明朗だが絶対に人間ではない響きだった。無視するべきだろうか。けど、こんな異空間では逃げるにしたってはたしてどこへ足をむければいいのかさえわからない。……というか、ムジナとはいったいなんだったっけ。僕は狐狸の話をしていたのだが。

「針の?」

「それは莚だ。藁やイグサで編んだ敷物のことであるな。汝が言いたかったのはおそらく『同じ穴の狢』という諺であろう。いかにも、我は狢である」

「ああ」

普通に勉強になってしまった。だんだん姿が見えないことにも慣れてしまって、結局、今足がむいている方向にそのまま歩きつづけることにする。ムジナはかまわず話しつづけた。

「ムジナとは、現在は主にアナグマのことを指す。ただし時代や地域によってはタヌキやハクビシンのことを指すようだな」

「ちょっとなに言ってるかわからない」

「うむ、わからぬゆえに事件が起きた」

「事件?」

「大正の世のことである。栃木の村にてとある男の狩猟法違反が発覚した。この男は三月三日にムジナを狩ったのであるが、この二日前、三月一日にタヌキを捕獲してはならぬという狩猟法が制定されていたのだ。動物学においてムジナとタヌキは同一とされている。ならば男はこの狩猟法を犯したことになるだろうか。裁判は最高裁まで争われた」

「判決は?」

「ムジナとタヌキは動物学的には同一であるが当時その事実が男を含めてまだ国民一般に定着していなかったこと、またこれがタヌキであったとしても捕獲と狩猟の日時が三月一日前後でわかれていたことが考慮され、無罪となった」

「よかった」

「これを『たぬき・むじな事件』という」

「じゃあ、おまえタヌキなんじゃん」

「同じ化けものとて狸と狢では役割が違うのよ。狐ほどの格もなく、狸のような道化にもなれぬ。戦後半端者の我らを語るものなどいなくなり、最後に残った我ははたしてアナグマなのかタヌキなのか、はたまたハクビシンなのか見当もつかぬ。化かしているつもりで、道に迷っているのは汝ではなく我なのかもしれぬな」

霧が、次第に晴れていく。僕を開放する気なのかもしれない。結構なことじゃないか。それなのに僕はどうして、なにを、焦っているのだろう。

薄明、と僕は言った。

何者にもなれない虚しさを、寂しさを、悔しさを、僕は知っている。そうか。いかにも、僕たちは同じ穴の狢だ。

「何者にもなれないなら僕がおまえに名前をつける。夕方に会ったから『薄明』。アナグマでもタヌキでもハクビシンでもなく、おまえは、薄明だ」

途端、一陣の風が吹いて霧はしゅるしゅると僕の足元へと集まった。目を凝らすと、そこに四足歩行の小さな生きものが座っている。なるほど、それはたしかにタヌキとは似て非なる生きものだった。

完全に霧が晴れて、気がつくと見慣れた町の景色の只中にいる。あと数分で自宅アパートというあたりだった。カンカンカンカン。遠くで、踏切の降りる音。もうすぐ夜がはじまる。

「また会えるの?」

予備校からの帰り。疲れていたしおなかも空いていたのに化かされて、迷惑していたはずなのに僕は思わず訊いている。

「主が望むのならばいつでも」

「いや、おまえの主になった覚えないんだけど」

「名前をもらった。したらば汝は我の主だ。我が薄明の名を捨てぬかぎりこの契りは永遠だが、汝が失せろと命ずるのであれば我はこの町から姿を消そう」

「あー、いいよ、わかったよ。別にここにいていいから。……明日とか、なにか食べものとか持ってきてやってもいいし」

「ハンバーグ」

「は?」

「食わせてやるというのなら我はハンバーグを所望する。駅前のファミリーレストランにある和風おろしハンバーグ。店頭に『月末まで大根おろし二倍増量中!』とのぼりが出ていた」

「ああそう」

「ハンバーグ」

「わかったようるさいな」

僕の足元をぐるぐるまわっている薄明。一応、喜んでいるつもりなのだろうか。明日その金を払うのだって自分なのに、僕はなんでか、こんなことで笑っていて。

「では、明日の夕刻ここで」

「うん」

「さらばだ、――よ」

返事を待たずに薄明は茂みのむこうへと行ってしまった。なぜ、僕の名前を知っているのだろう。妖怪だから? いや、そんなことよりも。

薄明なんて名前を与えておきながら、僕は、僕自身の名前を今の今までどれだけ軽んじていたのだろう。高校生でなくなっても、大学生になれなくても、そうだ、僕にはちゃんと名乗れるものがあったじゃないか。

スマートフォンで時刻を確認する。十八時を過ぎていた。帰ったら夕食は魚にしよう。明日は、薄明と一緒にハンバーグを食べるのだから。綻ぶ口元をパーカーの袖で上手く隠して、街灯の下、石畳の歩道を歩きはじめる。

狢がいる世界を。

他の何者でもない、薄明と僕がいる正しい世界を。

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