掌編小説306 - Kid A
ママは溜息が嫌いだった。
誰かの溜息が大嫌い。自分が満たされているときはそれを邪魔されたくないし、満たされていないときは最優先で慰めてほしい、どちらでもないときは相手もそうであるべきだと思っているみたい。
どこでも、溜息が聞こえてくるとママは容赦なく相手のことをにらんだ。相手がわたしだったときは「幸せが逃げていくわよ」とも言った。一緒にいないときもママは幻影になってわたしの溜息を監視している。いっそ、つくと幸せになれる溜息があればいいのにと思った。
だから、ハーモニカを買ったの。
嫌なことがあった日は、夜、散歩に出かける。ポケットにハーモニカ。溜息が出そうになったときはそれを取りだしてふぅと息を吹きかけた。ふぇん。言葉にするのが難しい音でハーモニカは唄う。
ふぇん、ふぇん、ふぇん。
気分はまるでハーメルンの笛吹き男。うしろをついてくるのは、ねずみでも子供でもなく、愉快な背徳感。小さな幸せ。
自転車に乗った女の人が不思議そうにこちらを目で追う。ついておいで。内緒でね。魂の、ほんの欠片だけでも大丈夫。幸せが生まれるところを見せてあげる。
piper、whisper、「ついてきて」。
溜息ついたらついてきて。
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