見出し画像

アボカドくん

ふとアボカドを買った時に妙な考えごとをしてしまいました。論理は破綻していますが、ふと思ったのでごちゃごちゃ言います。

最近、というか以前から部屋の中で植物を栽培するのが趣味の一つです。元々植物や動物や虫を眺めたりするのは好きなのですが、植物でも育ててみようということで数年前から育てています。ズボラな性格故に、枯らしてしまうが怖かったので、サボテンや多肉植物、オリーブのような比較的丈夫でてのかからない植物を中心に育てています。今はだいぶ種類も増えています。

そのながれで何かの SNSで「アボカドの水耕栽培」的なものを目にして興味を持ちました。これは普段食べるアボカドの種を水につけておくことでそこから根が生え芽が生え、アボカドの成長が見られるというものです。

早速やってみたいと思いスーパーに行き、アボカドを2つ買いました。もちろん種が欲しかったからです。そこで2つのアボカドを手に入れ、アボカドの栽培方法を検索しながら意気揚々と帰り道を歩いていました。ただその時に何の気なしに「アボカド2つも食べるのめんどくさいな、お腹減ってないしな」と思いました。

アボカドを食べるのは普通に好きだったし、好きなアボカド食べられた上に種も手に入るんだから何も損をしてないのですが、そう思ってしまったことで、本来ならアボカドを食べることを楽しみにする期待と食べる喜びを失ってしまったような気がしました。何か本来なら得られるはずの満足感を捨てたような気がしたのです。これはアボカドの種を手に入れたい、という目的を設定しその目的のために行動した結果生じた弊害に思われました。

育て始めたアボカド

外部から得るものに対して、それが自分の目的、目標にしたものでなければ、本来的にそれが美味しい、素敵なものであっても自分にとっての満足感は得られない、もしくは本来的に得られるはずの満足感を無駄にしている可能性があると思いました。これは、誤った目的を設定することの問題もあると思います(アボカドの種を得るという目的が誤っていたとは思っていません笑)。自然やアートを感じるものを見るのが私は好きです。個人的にはそこに生物と地球システムが作り上げた、人間にはできない何かを感じたり、逆に人間にしかできない発想や営みを感じるからです。ただこれを綺麗な写真を撮りSNSに上げることを目的としたときに、見落としたり、失ってしまうように感じます。これは目的の設定を根本的に誤っているように感じるのです(もちろん僕個人にとって、です)。自分の衝動に従うことは重要でそれに従ったことをすることで満足感は得られる、というのも当然。だが同時に、視野が狭くなることで本来得られるものを捨てていないか、と考えさせられました。

無限に満足感を得たいと思ってもその満足感を与えてくれる外界から与えられる有形もしくは無形な物質量は限られています。例えばお金は限られているし、友達も有限だし、旅行も毎日はできません。お金持ちになって、たくさんの刺激を毎日受けられればそのようなことも気にする必要はないのかもしれません。しかしそうでなくとも、きっと幸福は増やすことができます。外界からの刺激が少なければ、満足感、幸福感の閾値を下げる、もしくは感度を高める、などいろいろな方法がある気がします。化学分析でも一緒で、例えば川の水から濃度の低い化学物質を検出したいなら、川の水をたくさん採集し濃度を無理やり増やさなくとも、分析器の検出感度を上げたり、代替できる化学物質を使ったりできます。検出した化学物質のシグナルを増幅して多くすることもできます。これは満足感も一緒なのでしょう。外界の情報、刺激に対して、さまざまな視点で考え、楽しめる感性を持つことでどんなところでも楽しめる気がしました。

ごちゃごちゃ普通のことを言ってましたが、ふとそんなことを思いました。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?