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4割打者が生まれない理由とアニメーションについて

昔の野球と昔の映画

どうも、寝る前に映画を観ると悶々として眠れなくなる小学生sasakiです。
最近流行ってますね、「一生に一度は、映画館でジブリを」ってやつ。

自分も何度か足を運びましたが、とてもすばらしかったです!
僕の場合は子どもの頃、家にはジブリのVHSが置いてあったもんでそれはもう台詞の一字一句を覚えるほどにブラウン管に貼り付いていた記憶があります。しかしそんな「おうちジブリ派」だったが故に、ジブリはVHSや金ローとかで観るものという先入観が非常に強く、劇場で観たのは今回が初めてでとても感銘を受けたというわけです。

改めて「もののけ姫」とか「ナウシカ」とかを観て思うのは、素晴らしいクオリティで劇場を出て家に帰ってなお尾を引く感情、ネットのストーリー考察記事を読み漁りたくなるような設定の深さ、その情報をもとに自分なりに映画に対する答えを導き出してスッキリ報われたような感じになる幸福感。そして次の日にはまた観たくなっている。そんな感情になりました。
そこまで魂を揺さぶらせてくれる作品は最近出会ってたかな…やはり最近の映画はダメだななんて思ってしまう。なのにそれでいて新しい波もまた欲しいと思っていて…そんな感傷にさえ浸ってしまいます。

まとめると、なんか昔の映画ってめっちゃいい感じに見えるよねって話です。

話は変わって、時を同じくして最近「プロ野球」がやっとこさ開幕しました。
僕はそんなに野球と関わりのない人生を送ってきましたが、ゲームの「パワプロ」が昔からすごく好きで、インドア野球オタクにありがちな「歴代野球記録見るだけ」とか「野球偉人のWikipediaめぐり」とかをよくやったりします。
なのでひいきにしてる球団はコレ!というよりも、超人的なスーパープレーや選手個人が残した素晴らしい成績(数字)に興味があるタイプなんです。なににせよ、やっとのプロ野球開幕で通勤する時に見るラインニュースのスポーツ欄が楽しくなってきたので、それもまた最近の嬉しいことのひとつであります。

そんな野球数字オタクが気にする一つの数字に「打率」というものがあります。
打率の計算式は「安打数÷打数」です。単純ながら明確に選手の技量が測れる素晴らしい数式です。

60点以下は赤点なんてよくありがちな指標ですが、野球の世界…こと打率に関しては3割をマークすると一流として認められ、野球ファンの間では「3割打者=いい打者」という図式があります。
そんなわけで「打率」は選手にしろファンにしろ気になる数字のひとつなわけですが、そんな「打率」にも未知の領域があります。
それが「4割打者」と呼ばれるわけです。

読んで字の如くシーズンを通して打率4割をキープした選手をさすわけですが、残念ながらプロ野球で4割打者としてシーズンを終えた人は居ません。プロ野球におけるシーズン打率最高記録は阪神最強の助っ人「ランディ・バース」の3割8分9厘。あの「イチロー」でさえも3割8分7厘しか残していません。なりかけた人はちょっと居たりするんですけどね。

メジャーリーグには結構4割打者が居ます。居ますと言っても、最後に出た4割打者は1941年の「テッド・ウィリアムズ」の4割飛んで6厘。戦前じゃないか!
そう思うと、やっぱり最近の打者はダメだななんて思ってしまう…3割後半の打率もなかなか出ないから4割の期待もできない。なのにそれでいて「大谷翔平」のような、まるでなろう系主人公な選手も居るんだからこれからに期待したくもなる。

まとめると、なんか昔の選手ってすげーよなって話です。

一見関係の無さそうな「ジブリ」と「野球」について書いたわけですが、まとめた部分にかかる「昔の人・ものってなんかすごい感じがする」という感情。抱いたことはありませんか?
事実として4割打者は1941年から現在に至るまでにいないわけですが、それは現代のプロスポーツ選手が貧弱で、昔の人が屈強だからなのでしょうか?心揺さぶる映画が作られないのは現代の表現者が未熟だからでしょうか?きっとそうではありません。

ということで前置きが長くなりましたが、今回は「4割打者が生まれない理由とアニメーションについて」と題して、研究された「4割打者」について紐解くとともに、4割打者が消えた理由と同じ事象がそのほかの分野でも起きている…かもしれない。というお話をしていきたいと思います。

「4割打者」とは何者なのか

「むかし、この国は野球におおわれ、そこには太古からの巧打者がすんでいた。」…

冗談はさておき、昔いた4割打者はどこへ行ってしまったのでしょうか?トトロのように隠れ住んでいるのでしょうか。
とにかく4割打者について知らないと話が進まないので、メジャーリーグ最後の4割打者「テッド・ウィリアムズ」(以下ウィリアムズと表記)について調べてみましょう。

ー『テッド・ウィリアムズ』(画像はWikipediaより引用)
野球数字オタクお得意のWikipediaによると、ウィリアムズが4割打者になったのは1941年、なんとメジャー3年目のこと。新卒3年目の中堅社員にこんなことされたらとんでもないですね。

143試合に出場し、456打数185安打。よって打率は4割飛んで6厘というわけです。この成績を見て分かる通り、10打数4安打で4割打者みたいな見かけ上の4割ではないことがわかるし、143試合と言えばプロ野球のシーズン試合数と同じくらいだ。誠の4割打者である。

次はなぜこんな成績が残せたのか考えてみたい。Wikipediaでウィリアムズの人となりについて書かれている部分を見てみると、こう書いてある。
ウィリアムズは周囲の選手が夜遊びに興じる中、夜10時には就寝してタバコも吸わなかったらしい。現代のプロ野球選手でも「肩を冷やさないように寝る際は冷房を切る」とか「試合の前日は油ものを食べない」なんてことをしている選手が居るらしいので、プロスポーツ選手にとっての自己管理は大事なことだと伺える。

さらにウィリアムズは並外れた動体視力の持ち主で、分速78回転のレコードに書かれたラベルを読むことができたらしい。ピッチャーから投げられたボールは0.4秒もしないうちに本塁上を通過するそうなので、それを打とうと思うなら動体視力は良くないといけないように感じる。
引退後には「特に第一ストライクを狙う事が強打者になる第一の秘訣(要約)」とも述べているそうで、ボールとストライクの判別がしっかりできていたことの証拠とも取れる。なのでパワプロでウィリアムズを再現するなら必ず「初球○」は付けてあげましょう。

上記のようにボールとストライクを見極める選球眼にも優れていたようで、1941年の四球数は147個。これは同年のリーグトップの成績のようだ。
四球を貰うと「打数」にはカウントしないというルールがあるため、四球が多いと前述の打率の計算式「安打数÷打数」の割る数が減るということになる。簡単に言えば四球が多ければ打率が上がりやすいということです。

上記をまとめると「テッド・ウィリアムズは選球眼が良く初球打ちを得意とした巧打者で、試合外でも自己管理に勤しんでいた選手だったので、4割打者になることができた」ということになります。

でもよく考えてください。動体視力が良かったという点はまぎれもなく個人の特性ですが、「初球打ち」に関しては当時常識ではなかった可能性を否定できませんが、現代でも通用しそうな戦術のひとつなはずです。そして自己管理に関してはスポーツ医学やら生理学も進歩してもっと効率的で素晴らしいメンテナンスを受けることができるはずに違いありません。なのに現代には4割打者が居ない。それはなぜなのでしょうか。

この問題に関してはもちろん色々な説が提唱されているわけですが、例を挙げるなら「投手の投球の幅が増えたから」だとか「ナイトゲームや長距離移動といった昔には無かった要素が増えたから」だとか。

これらは正しい部分があるにしろ、的は射ていないといった印象です。だって投手が直球とカーブしか投げなかったところをスライダーやらSFFを投げるようになったとしても、そのうちに打者だって技術を上げているはずだし、暑いデーゲームよりナイトゲームの方がやりやすい可能性もあれば、空調のない列車移動よりクラスの高い飛行機移動の方が快適なはずだ。

そんな中で今最も信じられている「4割打者が消えた理由」はアメリカの古生物学者「スティーヴン・ジェイ・グールド」が唱えた説で「4割打者が居なくなったのは、野球というスポーツが成熟したから」というもの。
この一文からはうまく想像できないが、次の項にてこの説はどういうものか、それがどう他の分野で起こっているのかということについて解説します。

なぜ「4割打者」は消えてしまったのか

「スティーヴン・ジェイ・グールド」が唱えた説については早川書房から出版されている『フルハウス 生命の全容』(スティーヴン・ジェイ・グールド著・渡辺政隆訳)に詳しく記述されているので、この本からいくつか引用するとともに、簡潔にまとめられたWikipediaの「4割打者」のページからも表現方法を借用しながら解説します。

そもそも打率とは、1人の選手のみで算出できる記録ではありません。対戦する投手の放ったボールをバットに当てて、さらにその後ろにいる守備陣を抜けて塁上に出ることで計算される数字です。だから「打率」は絶対的な数字ではなく、相対的に変動するはずです。その点を踏まえて、スティーヴンが唱えた仮説をまとめると、事実からわかる状況とそれを元にした推論。そしてその結論となる。

事実その1
20世紀における10年ごとのメジャーリーグのレギュラー選手の平均打率はだいたい2割6分くらいに収束している。(176ページ表2参照)

事実その2
メジャーリーグのレギュラー選手の打率の標準偏差は、時代とともに減少している。(187ページ図16参照)

上記の2点は、いつの時代も平均打率は変わっておらず、その一方で標準偏差は小さくなっているという事実を示しています。ちなみ標準偏差というのは、平均からの数字のばらつき具合程度の認識で大丈夫です。0点と100点の平均も50点だし、49点と51点の平均も50点ですが、後者のほうが標準偏差が小さいねという話。

推論その1
メジャーリーグでは投手有利・打者有利と傾かないように細かなルール改正が施され続けた結果、平均打率は一定の範囲を保った。

推論その2
初期のメジャーリーグは多様な技術が試されるとともに、一部の傑出した選手が無双したこともあり打率の標準偏差が大きくなっていたが、その中でも良い結果を残した技術だけが模倣されたために多様性が減少し、打率の標準偏差も減少した。

細かなルール改正とは、例えば「ピッチャーマウンドの距離の変更」だったり、「ファールをストライクとしてカウントする」などがあります。
前者は距離を長くする変更だったので、打者が有利になる改正。後者は打者のカウントが早まるため投手が有利になる改正ですね。
標準偏差の高かった初期のメジャーリーグとは、まだ守備についても投球についてもまだ未熟な状態で、前述したような「初球打ち」を得意とするウィリアムズのような人物が現れると無双しちゃう。みたいな流れです。
この例を引用するならば

ウィー・ウィリー・キーラーは「いねえとこに打つ」というモットーを易々と実行することで、1897年に打率4割3分2厘を達成した。当時の野手はまだ、守備位置の取り方を知らなかったのである。
ー『フルハウス 生命の全容』194ページ13行目〜15行目

とある。現代的に言うと三遊間とか二遊間を狙うみたいなもんですかね?
これはゾーンを狙ってバッティングをする技術の走りであって、これをいろいろな形で他の選手が模倣した結果、それに合わせて守備も策を練るので「ゲッツーシフト」だとか「引っ張り警戒シフト」なんかが考案されたんじゃないかと思います。

仮説の結論
打者の能力は時代とともに向上している。それはなぜかというと、素晴らしい結果を残した技術を模倣していく過程でたくさんの打者が最良の打者に近付いたからである。
そのために最良の打者の打率と平均打率の差が小さくなり(=打率の標準偏差の減少)、結果として4割打者は消えてしまった。

ということらしい。

これを文章で理解するのも難しいなと思ったので、本にある表を引用して目で理解してもらえればと思います。

ー『フルハウス 生命の全容』204ページ 図19

打撃のみならず、投球や守備の技術も向上しているので、打率は最良に近くあるものの変異は少なく、人間の限界にも近付いている。よって4割打者は消えたのだ。

やたら長くなってしまいましたが、なぜこんなにも野球は事細かに研究がされているのかといえば「野球はすべての行動が数字として見ることができる」という一点に他なりません。
よく理解しているわけではないですが、サッカーって1人で相手チームと対戦するものではないですし、一瞬一瞬の行動がとても重要なリアルタイムバトルなので、数値化するのって難しいんだと思います。
その点野球はチーム競技でありながらも、投打のバトルや野手と飛来するボールとのバトルなど、細分化すると1対1の構図が作られている場所が多く、そのほとんどがリアルタイムバトルではなく、言うなればターン制バトルなわけです。

なので、数字をもってして論理的に4割打者が消えた理由が示されるわけですが、これをみて僕は「他の分野でもこういう事が起こってるんじゃないか?」と思ったわけです。それについて次の項で解説します。

なぜ心揺さぶるアニメーションは消えてしまったのか

申し訳ないですがここからは完全に僕の妄想です。根拠はありません!
上記の「野球が成熟すると4割打者はいなくなる」を、たまたま僕が興味のあるアニメーション映画に置き換えると「表現方法と審美眼が成熟すると歴史的超大作は生まれなくなる」という風にも言えるのではないでしょうか?
ひいては、「あるカテゴリーの中で技術や手法が成熟してくると、過去の作品や記録を越えることが難しくなる」とも言い換えられます。

もちろん作品は絶対的数値に置き換わることもなければ、観る人によって評価も変わるため一概に置き換えて比較することは難しいので、この理論が成立するのは、「映像対自分」の構図が作られたときのみです。映像は他の誰か(評論家など)に評価されたり、賞を取ったりというような要因はあるものの、それらをふまえて最終的な評価を下すのは自分です。その構図の中で、今観た映画と昔観た映画ではなぜか昔の作品が良いように感じる。絶対に現代の映像描画技術は向上してるはずなのに、昔の作画なんかは素晴らしいとか思っちゃう。
そんな「最近の若者は~云々、昔は良かったから~云々」という類いのあいまいな矛盾を解消してくれたのが、「4割打者消滅の理由」でした。

『機動戦士ガンダム』を観ちゃったら、緻密な設定に欠けた子ども騙し的ロボットアニメはなんだかチープだなって思っちゃう。『新世紀エヴァンゲリオン』を観ちゃったら、人間的深みの無いキャラクターはどこか作り物っぽくて受け付けなくなる。
だから、それ以降に観た映像はどんなに良くても「ああ、あの作品と同じ手法か」とか思ってしまう。
素晴らしい表現方法とは、言い換えれば新しいバッティングの技術で、それと対戦しているのはピッチャーではなく観測者である我々なワケです。

素晴らしい作品を観ることで表現者もより良い作り方を習得し、3Dやデジタル作画などの新技術も取り入れる事ができるので作品クオリティの平均値は上がっている(ハズ)。
それと同時に観る自分も素晴らしい作品を観ているから審美眼も上がっているので、新しい作品が過去の大作に迫るクオリティであったとしても強烈な衝撃を受けることが少なくなっている。
こう言えるのではないかと、今回の劇場ジブリを観ながら思っちゃいましたとさ。

まとめ

先の著書の中でスティーヴン・ジェイ・グールドは「これから4割打者が絶対に出ないと言いたいわけではない(要約)」と言っています。そしてまた「野球が成熟して全員が理想に近い機械のような動きになったからと言って野球がつまらなくなるわけでも無い(要約)」とも言っています。

たまたま観戦した試合で投げていた先発ローテ5番手のピッチャーが完全試合を起こす可能性だってあるし、全く期待していなかった低予算映画が思いの外大ヒットして熱狂的なファンになる場合もあります。見る側の心情や社会の空気によって大きく見え方が変わることだってあるのです。

だからこそ、我々はまだ見ぬ新作に期待して劇場に行ったり、贔屓球団が勝つか負けるかわからない球場に足を運んだりするのです。
幻の「4割打者」が目の前に現れることに期待を寄せながら。

おわり

参考にしたサイトと本
Wikipedia 4割打者

Wikipedia テッド・ウィリアムズ

『フルハウス 生命の全容』(スティーヴン・ジェイ・グールド著・渡辺政隆訳・早川書房出版)

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