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「掃除婦のための手引き書」 書評 

豊崎由美さんを講師にお迎えした書評講座第二回に参加しました。2つの課題図書のうち、こちらは「掃除婦のための手引き書(ルシア・ベルリン著 岸本佐知子訳 講談社)」のために書いたものです。もう一冊の「ハムネット」の書評もこちらに載せておきます。

以下、まず、講評後に手直ししたものを載せ、その下に講評前のものといただいたコメントを載せておきます。


講評後バージョン


 後悔の無い人生を送れる人が果たしてどれだけいるだろう。あの時ああしていたら、ああ言っていれば、言わなければ、行っていれば、いなければ---振り返って、そんな「もしも」に思いを馳せることないだろうか。本書は著者ルシア・ベルリンの振れ幅の多い人生を色濃く反映した自伝のような短編集であり、痛みを伴う過去の一つや二つ抱えた大人にこそ読んでほしい一冊である。

 幼い頃、父の仕事のためにアメリカ西部の複数の鉱山町を転々とした著者は、一家がチリへ転居してからは一転、上流階級の家庭の娘として過ごし、成人後はメキシコ、アリゾナ、ニューメキシコ、ニューヨークと移り住む。その間に三度の結婚をし4人の子をもうけ、アルコール依存症と闘いながら、掃除婦、看護師、教師など様々な職に就き子供を育てる。その後刑務所などで創作を教えるようになり、晩年はコロラド大学で教鞭を執り、准教授にまでなった。

 収められた24の短編のほとんどは、語り手の「わたし」が過去を振り返るという内容だ。本書のタイトルにもなっている「掃除婦のための手引き書」では、掃除婦として働く語り手が淡々と日々の仕事や通勤風景を描写する中で、ふいに死別した夫の思い出が差し挟まれる。もう会えない人を日常の何かの折に触れて思い出し、胸の奥がちりちりと痛むような苦しさを覚えたことがある人には、ここで描かれている心の動きには既視感があるだろう。

 「沈黙」では、隣家の女の子ホープと、語り手を家族の一員のように接してくれたその家族との思い出が語られる。ホープはほぼ唯一の友達だったが、語り手の「裏切り」で絶交され、そのまま隣家が引っ越してしまい二度と会うことはなかった。

 幼少期の性的虐待、機能不全家族、アルコール依存、パートナーの薬物中毒死など、タフなテーマが折り込まれているのだが、けっして重苦しくないのは、ユーモアを交えた飄々とした筆致のおかげだろう。例えば先の「沈黙」でのホープの登場シーンはこうだ。「なんだかヒヒの赤ちゃんみたいな感じの子だった。いい意味で。」…いい意味で?

 「星と聖人」の冒頭では、花にあふれた庭で小鳥が餌を啄むのを微笑ましく眺めていると、突然猫が来て鳥を貪り食い始める。あまりに急展開だったのでまだ表情がついていかないところを隣人に見られ、「惨劇を笑って見ている危ない奴」として以後露骨に避けられるようになる…という、マンガのような展開で笑ってしまう。「待って、これにはわけがあるんです」とその都度弁明できたら人生はもう少し生きやすかろうに。

 「このもしもも、あのもしもも、結局は起こるはずのなかったことだ。わたしの人生に起こったいいことも悪いことも、すべてなるべくしてそうなったことなのだから」。本書最後の短編「巣に帰る」で語り手はそう述懐しながら、それでも「もしも」に想いを巡らせずにはいられない。これらの短編で語られる波乱万丈な人生と読者の人生とで重なる部分はほとんどないかもしれないが、著者の文章を通じて得られる感情体験は個々のエピソードの特殊性を超えてリアルである。死期の近づく妹のすすり泣きを薄い壁越しに聞いた夜や、場末のコインランドリーで、老いたアパッチ族のチーフと並んで回る洗濯物を見ていた気怠い空気感は、語り手の視点と共に読者である私たちの一部となり、郷愁とも後悔ともつかぬ切なさを持って振り返らずにはいられない。

(1398字)


講評前バージョン

後悔の無い人生を送れる人が果たしてどれだけいるだろう。ましてや人生折り返しに入ったなと感じる年にもなれば、様々な「もしも」が頭を過ぎる。あの時ああしていたら、ああ言っていれば、言わなければ、行っていれば、いなければ。

本書は著者ルシア・ベルリンの振れ幅の多い人生を色濃く反映した自伝のような短編小説集である。本書の元となった「A Manual for Cleaning Women」に寄せられた序文(本書では翻訳が巻末に掲載されている)および訳者あとがきによれば、著者は幼い頃、炭鉱技師であった父の仕事のためにアメリカ西部の複数の鉱山町を転々とした。学校には馴染めず浮いていたらしい。父親が第二次世界大戦に出征中に母、妹と共にテキサス州エルパソで歯科医をしていた母方の祖父のもとで暮らしたのち、一家でチリへ転居し、サンチャゴでは一転、上流階級の家庭の娘としてカトリック系のお嬢様学校に通う。成人後はメキシコ、アリゾナ、ニューメキシコ、ニューヨークと移り住んだ。その間に恋をし、別れ、また恋をし、4人の男の子を生み育て、アルコール依存症になり、父を介護し、妹を看取り、掃除婦、看護師、病院の事務員、病院の電話交換手、教師と様々な職に就く。依存症を克服してからは刑務所などで創作を教えるようになり、晩年健康を損ねリタイアする前までは、コロラド大学で教鞭を執り、准教授にまでなった。

収められた24の短編のほとんどは、語り手の「わたし」が過去を振り返るという内容だ。本書のタイトルにもなっている「掃除婦のための手引き書」では、掃除婦として働く語り手が淡々と日々の仕事や通勤風景を描写する中で、ふいに死別した夫の思い出が差し挟まれる。もう会えない人を日常の何かの折に触れて思い出し、胸の奥がちりちりと痛むような苦しさを覚えたことがある人には、ここで描かれている心の動きには既視感があるだろう。

「沈黙」で語られるのは、隣家の女の子ホープと、語り手を家族の一員のように接してくれたその家族との思い出である。ホープはほぼ唯一の友達だったが、語り手の「裏切り」で絶交され、そのまま隣家が引っ越してしまい二度と会うことはなかった。

幼少期の性的虐待、機能不全家族、アルコール依存、パートナーの薬物中毒死など、タフなテーマが折り込まれているのだが、けっして重苦しくないのは、ユーモアを交えた飄々とした筆致のおかげだろう。例えば先の「沈黙」でのホープの登場シーンはこうだ。「なんだかヒヒの赤ちゃんみたいな感じの子だった。いい意味で。」…いい意味で?

「星と聖人」の冒頭では、花にあふれた庭で小鳥が餌を啄むのを微笑ましく眺めていると、突然猫が来て鳥を貪り食い始める。あまりに急展開だったのでまだ表情がついていかないところを隣人に見られ、「惨劇を笑って見ている危ない奴」として以後露骨に避けられるようになる…という、マンガのような展開で笑ってしまう。「待って、これにはわけがあるんです」とその都度弁明できたら人生はもう少し生きやすかろうに。 

「このもしもも、あのもしもも、結局は起こるはずのなかったことだ。わたしの人生に起こったいいことも悪いことも、すべてなるべくしてそうなったことなのだから」。本書最後の短編「巣に帰る」で語り手はそう述懐しながら、それでも「もしも」に想いを馳せずにはいられない。これらの短編で語られる波乱万丈な人生と読者の人生とで重なる部分はほとんどないかもしれないが、著者の文章を通じて得られる感情体験は個々のエピソードの特殊性を超えてリアルである。死期の近づく妹のすすり泣きを薄い壁越しに聞いた夜や、場末のコインランドリーで、老いたアパッチ族のチーフと並んで回る洗濯物を見ていた気怠い空気感は、語り手の視点と共に読者である私たちの一部となり、郷愁とも後悔ともつかぬ切なさを持って振り返らずにはいられない。

(1596字)


講評でいただいたコメント

二段落目(著者紹介)が長い。全体の中でこれにこんなに文字数を割く必要があるのか。バランスが悪い。文字制限が1600字だからといってそれに甘えてはいけない。

与えられた字数が1600字なので、できるだけぎりぎりまで使って1600字に近い文字数にするのがよい、という思いがあったのですが、実際出版ということを考えると、ワードで自動カウントされる文字数ではなくて行数を制限数に抑えねばならない、ということでした。
さらに、「行数が収まっていればよいという話でもなく、全体の中でその内容に割くべきバランスというのが大切」。著者紹介は出典(原文の序文と訳者あとがき)もつけて正確に書かなくちゃ…と力が入っていたのですが、確かにここをそんなに詳細に記述するより、その字数を作品内容の方に当てた方が本の紹介としてはいいですよね。
「字数制限が1600字だったらまずそれ以上書いて、そこから削れる部分を削っていくべし。書いていって1600字になったところでやめる、という書き方ではダメ」というご指摘もいただいたのですが、講評前に出した版も、他の短編も紹介したりしてもっと文字数が多かったところからかなり削ぎ落としたのですが、なぜか著者紹介のところはこれ以上削る必要はないと思ったんですね。

無駄な言葉/文が無く、全ての文字が機能している そんな文章が理想ですが、ずっと同じ文章に向かっていると飽和してしまって、「無くてもよいところ」が見えなくなってくるので要注意です。


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