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行動が変われば意識が変わる。意識が行動を変えるのではないという考え。

死の恐怖を乗り越えた! だがいかんせん、知らない店に入る恐怖を乗り越えることはできなかった

 前回、僕はついに死の恐怖を乗り越えたつもりである。そして、その最大の恐怖を超えたがために、「軽率に生きていこう」「とりあえずやってみよう」という考え方を得た。にもかかわらず、「入ったことがないお店に入る」ということすらできなかった有様だった(改めて書いてみるとなんとも情けない話ですね)。
 これは「意識が実際には変わっていなかった」か、もしくは「意識は変わったものの行動は変わらなかった」か、だと言えるだろう。ここで「意識は実際に変わったのだ」と主張しても客観的に裏付けることはできないのだけれど、ただ生き様の論理として上記の「とりあえずやってみよう」には納得したままなので、いったんは「意識は変わったが行動は変わっていない」とさせてもらいたい。

 さて、これはあくまで推測だけど、これまで数十年かけて作ってきた脳の生化学的、物理的な構造は、考え方が変わっても容易に変わらないのだと思う。つまり、新しい考えに納得したとて、無意識レベルの思考回路、そしてその先の行動はそう簡単には変わらないのだと思われる。
 結局のところ、行動なくして学習はない、ということなのではないか。行動があって、結果(行動に対するフィードバック)を得て初めて学習(つまり脳の構造、もしくは意識や習慣の変化)がある、ということだ。例えば、僕の場合で言うと、「店に入ってみる」という行動があって、「楽しかった」という結果があって、それで「知らない店に入る」という行動が強化され習慣化されていく、すなわち意識が変わっていくということだ(もちろん、全く馴染めなくていよいよ知らない店に入るということを諦めてしまうかも知れない)。

意識が変わったことを証明するためには行動が必要

 ところで、少し話が逸れるが、「意識が変わったこと」というのはどのように証明できるだろうか。意識というのは(もしかしたらいずれ可能になるかも知れないが)今時点では客観的に観察可能なものではない。したがって他人はその意識の変化はアウトプット……つまり言動の変化で評価するしかないように思われる。
 つまり、客観的には、「行動が変わっていないのであれば意識が変わったとは言えない」ということである。最初の時点では、僕は自分について「意識は変わったが行動は変わっていない」と主張したが、これはあくまで僕からの見え方であって、客観的にはむしろ逆、「行動が変わっていないのだから本当は意識も変わってないんじゃないの?」である。本人が「意識が変わった」と思ったとて、それだけでは意識が変わったとは言えないのだ。

 そういった意味でも、行動が変わった結果意識が変わる、いやそもそも、「行動が変わったことが確認されて初めて意識が変わったと言える」、ということなのではないかと思う。
 つまりどういうことかというと、後先考えず憧れの店には飛び込んでみれば良いのだ。そこで良い経験ができればそういう行動習慣に一歩近付くし、あまり楽しめなかったのなら僕はそういう人間、他の楽しみを探しに行った方が良いという学びを得られるのではないかと思う。

 次回、ゴチョゴチョと考えた結果僕はついに音楽バーに入れるのか!? 乞うご期待!

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