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実は酒をガバガバ飲んで不健康になっても良い!? 好きに生きるために構造主義を考えてみる

構造主義とは「我々は型にはまっているね」っていう考え方

 構造主義という考え方がある。要するに、「僕らって自分の頭で自由に考えて行動しているつもりだけど、実際は型にハマってるよね」という思想だ(違ったらスミマセン)。ここでいう「型」が構造。「社会制度」とか「言語」とか「文化」とか「立場」とか、そういう色々な制約にハマった上で考えて行動してるよね、ということだ。
 例えば、英語で"rice"と言ったら日本語では「米」と思い浮かべると思う。でも実際には、"rice"は「稲」「(炊いた)ご飯」とかいうものも表現できる言葉だ。これが何を意味しているかというと、言語圏や文化によって持っている概念が異なるということ。上の例は物体の名前のことなのでわかりにくいが、例えば日本語の「切ない」に対応する英語は存在しないというのは有名な話だ。ひょっとしたら"kawaii"や"mottainai"なんかもそうかもしれない。
 というように、「僕らは自由に一個人として考えているようで、実際には何かの制約に縛られているよね」ということ。思考の器とでもいうのが良いかもしれない。

実は酒をしこたま飲んでも良いのでは?

 ついに本題です。社会の構造もまた僕らの思考と行動をかなり制限している。義務教育のカリキュラムが僕らに集団行動の基礎を叩き込むように、ですね。「自由には責任が伴います」とか散々言い聞かされてきたけれど、そういう構造に従ってものを考える人をマジョリティにすることで現代日本の秩序は維持されているのかもしれない。
 というわけで、実は、「お酒を減らそう」「タバコはダメ!」などというのは、個人の健康とかの問題ではなくて、労働力と生産性を確保するために社会が用意した構造なんじゃないの!? と疑ってみたい。
 健康か不健康かどっちが良いか、と問われれば間違いなくほぼ全員が口を揃えて健康が良い、と答えるだろう。僕だったら即答でそう答える。でも、「人間万事、塞翁が馬」という故事成語がありますよね。この由来となった故事には、「若者が骨折をしたがために戦争に駆り出されるのを免れた」というエピソードが含まれている。というように、「健康」は「不健康」に絶対的に勝る、とは言えないのではないだろうか。認知症が実は死の恐怖を紛らしている、とかいう説もある。
 つまり、実は「健康が大事」という価値観は植え付けられたもの、用意された構造かもしれない。本当は好きなだけ楽しくお酒を飲んで、あるとき酔っ払って訳もわからぬままぶっ倒れてこの世を去る、まさしく酔生夢死な生き方が肯定されることもあるのではないだろうか。

 ここで何が言いたいかというと、「絶対に正しい生き方なんてないよね」ってこと。あらゆる価値観が構造によって規定されていて、そしてその構造の外を見てみると別の正しいが存在する。自分の価値観を盲信する必要はないし、「かくあるべき自分」なんてものもない。その時々で最も心が躍る方を選べば良い。好きに生きるしかないゼというわけです。

 ちなみに、このような、二項対立(AかBかならAが良い、という議論)をグレーにする方法を「脱構築」と呼ぶようです(ポスト構造主義)。脱構築、していこうゼ。

※ 最近になって哲学の勉強をし始めたので全然違ったらすみません、上記は自分が本を読んで得ている解釈です

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