私たちは何者であるか、は「こうありたい!」という欲望が教えてくれる。はじめてのスピノザ
また改めて書くと思うが、取り急ぎ「私たちの本質は何か」ということについて本書の考えを簡単にメモしておく。
スピノザは「自分を維持し、より完全な存在にしようとする力(≒欲望)」をコナトゥスconatusと呼んだ。私が私であろうとする、さらにいうと「こうなりたい!」という方向性と内圧のことだと思う。
で、曰くは、このコナトゥスこそが我々の本質である。
スピノザまでは、(そして現代に生きる我々も未だに、)本質とは形相eidosに宿ると考えられていた。形相とは形のことで、まあ「属性」のように理解して良いと思う。
形相を本質として考える例としては、本書では、『競馬場の競走馬とサバンナに生きるシマウマは形が似ているので我々は両方とも「馬」と認識する』というものを挙げていた。
ところが、シマウマには乗ることはできない。乗ろうとすると嫌がるらしいのだ。つまり行動、欲望ベースでは(=コナトゥスを本質として考えると)、シマウマと競走馬はまるで別物であると言える。
これを人間にも適用すると、もし本質が形相である場合、「男性の形をした人間(=男性)は、『男らしく』あるべき」ということになる。でも男性にも色々ある。私のように繊細な精神の持ち主だっているわけです。そういう一人ひとりの性質の違いを本質の違いとして捉え、個人(の欲望)に対して本質を求めるのがコナトゥス的な本質観、ということだと理解した。
そして我々各個人の人生においては、この自分のコナトゥスにあった環境に身を置くことが重要である……が、本書では善悪とか自由とか色々な考え方を説明しているので、ここらへんはまたそこらもまとめ終わった上で綺麗にまとめられればと思います。今日はここまで。
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