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時計史小説(1) 1700-1710 AlxWarfeild  /ロンドン・時計師ギルドの風景

ごあいさつ

 私の手元にはアンティーク時計の小さなコレクションがあります。1700年ごろから1980あたりまで、「それぞれの時代の普通の生活の中で使うシンプルな時計」をテーマに収集しました。凝った複雑時計やレアピースの類はありませんので、市場価値は大したことはないと思います。しかし普通だからこそ、それぞれの時代の「工業製品の普通」、「装飾工芸の普通」さらには「社会の普通」を映す鏡として機能すると思うのです。

 このコレクションの時計について調べるうち、確認できた情報をベースに、不明な部分は想像で補って、短編小説にするという遊びを思い立ちました。これらの短編小説を時代順に束ねれば、普通の時計とその周辺を描いた時計史小説ができあがるのでないかというわけです。
 なお、私は研究者ではありません。情報の正確さについて最終的に保証することはできませんが、確認できたことはすべて事実に沿った記載を心掛けています。

 それでは皆さま、ちょっとした時計小話を通じて、それぞれの時代を生きた普通の人々の息吹を感じていただければ幸いです。

修業時代の終わり

 1692年 時計師ギルド(Watch Craft Company)親方資格を取得。
 アレクサンダー=ウォーフィールド(Alexander Warfield)
 ロンドン市。

 羊皮紙に飾り文字で書きつけられた証書を眺めて、24歳のアレクサンダーは苦しかったこの七年間を思い出していた。

 父の工房の徒弟として、七年間の奉公は決して楽ではなかった。徒弟奉公に入ることを英語では"bind"(拘束される)といい、奉公が明けることは"free"(自由になる)という。いちど徒弟につけば、その身はギルドの規定に拘束され、労働の提供をはじめ各種義務が課される。ギルド(あるいはカンパニー)というのは同業の親方の寄り合いだが、ギルドの規定は事実上は法律として機能した。人口流入が著しく行政に手が回らないロンドン市は、商取引に関する行政機能を積極的にギルドに「外注」していたきらいもある。17世紀にはギルドは王権に公認される存在にすらなっていた。(エイザ=ブリッグズ、「イングランド社会史」、筑摩書房、2004)

 現代のように機械化もされていない当時、親方たちは工房を回すための「単純作業の手」をどこから確保していたのか。徒弟がその答えだ。マスターピース(卒業作品)を作って親方試験に合格するまで、徒弟はひたすら工房に労働力を絞られ続ける。徒弟にとって工房は、「技術を学ぶ場所」ではなく、「労働力の提供と引き換えに技術を盗むチャンスを拾う場所」だった。さらに、多くのギルドは転向も禁じている。自分の運命を選ぶ自由がないという意味で、現代人の目から見れば彼らは「期限付きの奴隷」といえるかもしれない。

 そんな徒弟奉公が明けたのだ。開放感に浮かれるのは無理からぬことだ。

 アレクサンダーがロンドン・フリートストリートの工房に戻ると、兄弟子のトーマス=ファイネスが、フュジー機構の鎖を修理する作業をしていた。いくらかの専用工具を使えるとはいえ、太さ1mm以下の鎖のコマを手作りすることもあるのだ。作業は目に応える。

 「おかえり。やったなあアレックス。ギルドの規定どおりの七年で独立するなんて凄いもんだよ。うらやましいな。俺が自由になれるのはいつになるやら。近頃はどこの工房も人手が足りないし、このまま飼い殺しは勘弁してほしいけど……。」

 ファイネスは目を揉みながら、冗談めかして言ったが、その未来は十分現実味のあるものだった。親方株には限りがある。ギルドが商品の品質を管理し、よそ者を遮断し、価格を統制するためだ(現在なら完全に独占禁止法違反だが、もちろん当時そんな思想はない)。言い換えれば、親方は徒弟全員を解放することができない。ならば誰を開放するか。やはり優先されるのは実子だった。アレックスは幸運にも親方の息子であり、ファイネスは外から入った徒弟だった。

 ただし、ウォーフィールド工房の場合は、もう少し事情が複雑だ。アレックスの奉公期間中に後ろ盾である父・親方が死亡したのだ。

 「ありがとうございます、ファイネスさん。僕も年季中に父が死んだときには正直絶望しそうになったけど、ちゃんと努力を続けていれば、神様は見ていてくださるものですね。」

 アレックスの無邪気な答えを聞いて、ファイネスは苦く笑った。確かにアレックスは勤勉で腕もいい。自分はもちろん、このフリートストリートの誰と比べても遜色ない。だがそれでも、ギルドが故親方の遺志を尊重する気になったのは、ロンドンの時計師ギルドと彼の出自の関係によるところが大きい。比較的自由で「ギルドらしくない」時計師ギルドでも名跡の類はあるものだ。

 「そうだな。俺もうれしいよ。お前さんは技前で未来を切り開いたんだ。俺も頑張らなきゃな。」

 ファイネスの表情をみて、自分の言葉が兄弟子を傷つけたことに気づいたアレックスは、はっとして顔を伏せた。そして苦い思いとともに悟る。自分は他人の人生を踏み台にして時計師になったのだということを。

ウォーフィールド家の年代記

 ウォーフィールド家は三代続く時計師の家だ。「ウォーフィールド」は、書類によって"Warfield"とも"Warfeild"とも綴る。アレックスの祖父、ジョン=ウォーフィールド(1613-1665)が鍛冶屋ギルドから独立して時計師ギルドに入ったのが始まりだ。同名の父、アレクサンダー=ウォーフィールド(1639-1688)が祖父の工房を継いだ。そしてこのたび、息子のアレクサンダー=ウォーフィールド(1668-没年不明)にバトンが渡されたことになる。

 「学者三代」という言葉がある。技芸が真の洗練をみるには三世代はかかるという意味だ。アレックス(アレクサンダー=ウォーフィールド(子))は三代目。ロンドンの中心部、フリートストリートに工房を構えて、顧客リストには、貴族から新興のジェントリーまで、上客たちが名を連ねていた。

 「自分の代でウォーフィールドの時計の技は、真の洗練を見る。そうでなくては申し訳が立たない。」

 生真面目なアレックスは、自分の人生がどれほど多くのものの上に成り立っているか無頓着ではいられなかった。

 アレックスは祖父の顔を知らない。
 祖父ジョンは、イングランド・ケンブリッジシャーの牧師の家に生まれたそうだ。八人兄弟の末っ子だったという。当然、口減らしのために徒弟に出された。奉公先はどこでもよかったが、偶然ロンドンの鍛冶屋におさまった。鍛冶屋の徒弟奉公はギルドの規定では七年から十年。もっともこれは祖父の時代から既に空文で、更に長く拘束される徒弟はいくらでもいた。
 一方で祖父ジョンの時代は、ギルドというものの在り方が変化を迎えた時でもあった。大型ギルドから親方が分離独立し、その結果小ギルドが無数に生まれていたのだ。

 主な原因は二つある。一つは技術の多様化。17世紀の欧州では人類史上初めて、科学的思考が体系化されつつあった。サイエンスの萌芽はエンジニアリングの萌芽だ。織物ギルドの中に織機制作に特化したものが現れ、鍛冶屋ギルドの中に時計制作に特化したものが現れた。専門性の高い時計制作を蹄鉄打ちのような鍛冶仕事の方手間にやるのは不可能だった。

 もう一つの原因は、親方間の競争により格差が発生・拡大したことだ。ギルドとはそもそも、そのような事態を防止するために存在したともいえるが、商品経済の規模が拡大したことにより、どうしても商才のある親方とない親方の間に差が生じてしまったのだ。力をつけた親方が自分のギルドを持ちたくなるのは当然のことだった。後に彼らは、関連する小ギルドを統合して、資本家の原型となってゆく。(坂巻 清、「イギリス・ギルド崩壊史の研究―都市史の底流」、有斐閣、1987)

 祖父ジョンはこの流れに乗った。「鍛冶師」ではなく「時計師」として独立して時計師ギルドに合流したのだ。イングランドの時計師のキャリア形成としてはめずらしくないが、比較的早い例ではないかと思われる。祖父ジョンは腕もよく、商才もあったのだろう。父アレクサンダーをはじめ多くの徒弟をとり、育てた。

 しかし、父アレクサンダーが独立したほんの数年後の1665年、ロンドンはペストの猛威に見舞われる。祖父ジョンは祖母とともにこの波に飲み込まれて、あっという間に亡くなってしまった。何とか葬儀だけは出せたものの、父アレクサンダーは、ほうほうの体で郊外のバッキンガムシャーに逃れる。この地で1668年にアレックス(アレクサンダー(子))は生まれた。

 余談だが、父アレクサンダーの異母弟、アレックスから見れば叔父にあたるリチャード=ウォーフィールド(1645-1703)は、ロンドンから逃れて、新大陸に渡っている。彼は軍人となり、開拓の最前線に立った。祖父ジョン譲りの進取の気質があったのだろう。彼自身は早世したが、彼の家系はアメリカで長く続くことになる。

 ペストが落ち着いたころ、父アレクサンダーはロンドンに戻り、アレックスをはじめ徒弟たちと、時計制作を再開した。このころには、ウォーフィールドの名は、ロンドンの時計師ギルドの中で一定の地位を確立していた。アレックスが時計師としての独立を順調になしえたのもこの家名によるところが大きい。
 父アレクサンダーも祖父ジョンと同様に多くの弟子を育てたが、先述のとおり急逝したため、アレックス以外の徒弟たちは、鍛冶屋ギルドの勢力に巻き取られてしまった。彼らは、時計師ギルドではなく鍛冶屋ギルドのメンバーとして開放され、以降、鍛冶屋ギルドのために時計を作っていくことになる。

 「僕は、鍛冶屋ギルドの連中のように、おざなりな時計を作って安物を売りさばくつもりはない。時計技術は今、変革期にあるんだ。適正価格に説得力を持たせられるだけの圧倒的な精度を出すことは可能だ。」

 アレックスの自信には裏付けがあった。イングランドは当時、ある巨人の先導で時計技術の最先端を走り、時計の精度を飛躍的に押し上げていたのだ。しかも、件の巨人は、ロンドン・フリートストリートに工房を構えるご近所さんで、同じ時計師ギルドに所属していた。

異端の巨人の工房にて

 17世紀から18世紀にかけて、イングランドを中心に時計に分針が付き始める。それまで時計は、時針しかない一本針が普通だった。同年代のものでもフランスのものは、たいてい一本針だ。時計に分針がついた理由は、分を気にする意味がある程度に、時計の精度が上がったためだ。標題のアレクサンダーの時計は、1日におおよそ5分から10分くらいずれる。このくらいなら、今が何分か気にする意味があるだろう。

 この精度の向上は、「ヒゲゼンマイ」というパーツが時計に実装されたことに拠っている。

 「ヒゲゼンマイ」とは要するにバネである。バネのような弾性体の自由振動は、振幅にかかわらず周期が一定になる。単振動あるいは調和振動と呼ばれる現象で、現代では高校の物理学のクラスで習う。イングランドのロバート=フック(1635-1703)は、1657年ごろにこの現象を発見し、友人への手紙で解説した。一方、オランダのクリスティアン=ホイヘンス(1629-1695)も同時期にこの現象を発見して特許を取得したため、業績の帰属をめぐって両者が争ったのは有名な話だ。

 業績の帰属はともかく、この現象を時計に応用したのは、フックと親交が深かった、トーマス=トンピオン(1639-1713)だった。ロンドン・フリートストリート(正確には少し脇道に入った現在のホワイトフライアーズストリート)に工房を構える新進の時計師で、鍛冶屋に生まれ、彼の代で時計師として独立している。

 時計は一定のリズムで歯車を進める「脱進器」により時を刻んでいるが(この時代の懐中時計では「バージ脱進器」が一般的だった)、トンピオンは、ヒゲゼンマイの等時的な振動と脱進器を連動させることで、脱進器の脱進運動の等時性を高めた。これにより、時計の精度は飛躍的に向上したのだ。

 トンピオンとフックのつながりは、フックが天文関連の測定機器の製作をトンピオンに依頼したことに始まる。トンピオンは、この縁で王室ともつながりをもち、王族に懐中時計を納品したことも確認できている。
 トンピオンがヒゲゼンマイつきの時計を制作したタイミングは、フックによる弾性振動の等時性の発見の直後である。私見だが、このタイミングはあまりにも近い。フックはトンピオンとの実験機器の制作(あるいは、ずばり高精度時計の制作)のなかで、調和振動の理論を発見したのではないだろうか。

 アレックスが独立した1692年当時、トンピオンは53歳。功成り名遂げた大御所だった。若いアレックスが対抗意識を持つような相手ではない。だが、技術交流のため工房を訪れ、トンピオンを前にするとアレックスの心はざわついた。

 「やあ。今日はヒゲゼンマイの制作を見に来たんだよね。おーい、ゲオはいるかい。ウォーフィールドさんの案内を頼めるかな。」
 「はい親方。こんにちはウォーフィールドさん、どうぞこちらへ。私はジョージ=グラハムと申します。」

 細面の利発そうな弟子の作業を見学しつつも、アレックスの心は乱れていた。

 「ギルドがどうしただの、家名がどうしただの、僕はなんて小さな世界で生きてきたんだ。時計技術の改良のために、僕は一度でもアカデミーに友人を作る努力をしたことがあったか。」

 自身の力で立ち、外の世界からチャンスを手繰り寄せる。老年に差し掛かるはずのトンピオンが、アレックスには若々しく輝いて見えた。新時代の時計師の在り方を体現しているように思えたのだ。

 さて、イギリスで時計技術が発展したのは何故だろう。イギリスが二人の天才に恵まれたことは確かだ。華美なフランス時計に対して、イギリスのピューリタンの文化が、時計に計器としての実用性を求めたからだと論じられることもある。そうかもしれない。確かにこのころから「神を時計師に例えるレトリック」はイギリスでは使われなくなってくる。時計師が作るのは、世界のモデルではなく、シンプルに時を測る計器だ。余計な付加機能より時を測る基本性能を洗練させることにイギリスの時計師は集中できた。(ジョン=ヘンリー、「一七世紀科学革命 (ヨーロッパ史入門) 」、岩波書店、2005)

 だが私は、ギルド制度の崩壊がフランスよりイギリスでいち早く進行していたことも一因だと思う。トンピオンの工房は徒弟を多く抱え、分業化も進んでおり、意外と商売上手だ。ちょうどアレックスの祖父ジョン=ウォーフィールドの工房を進化させたような形で、ギルドの枠を超えて突出した存在となっていた。誤解を恐れずに言うなら、トンピオンは、労働集約的な事業をうまくマネジメントする資本家の走りのような存在ではなかったか。
 彼のような変わり種を受け入れる素地がイギリスにはあった。トンピオンは王室御用達にまでなったのだ。

アレックスの時計

 ここにアレックス(アレクサンダー=ウォーフィールド(子))の時計が一つある。現代の感覚で見れば華やかに見えるかもしれないが、当時の時計としてはシンプル、質素といってもいいくらいだ。作風やシリアルナンバーから考えて、1700-1710ごろ(アレックス 32歳-42歳)の作品と思われる。

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 シンプルな作りは、イングランド人の好みもあるだろうが、まあ注文主の懐具合に合わせたものだろう。当時のイングランドをのちの大英帝国の感覚で見てはいけない。もちろん当時時計を購入できるのは富裕層に限られるが、それでも、この時計が、工房の看板を賭けた高級品ではなく、普通品だったことは間違いない。ムーブメントのつくりも、トリッキーなところは何もない。

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 しかし注目してほしいのは、この時計から、手抜きの気配が全く感じられないことだ。たった3巻しか巻かない初期様式のヒゲゼンマイは300年たった今もきれいな曲線で危なげなく機能している。軸にぶれもない。しっかりしたパーツが組付けられ、彫刻は少々野暮ったいが丁寧だ。アレックスは残念ながら天才ではなかったが、堅実に努力を積み重ね、壮年の熟練した技を普通品にも惜しみなく注ぎ込んだのだろう。

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 若いころにトンピオンと会って感じた焦りも劣等感も、無くなったとは言わないが、昔よりは御せるようになっていた。どんな輝かしい栄光も、目の前の堅実な「一歩」の先にしかない。そう思ってアレックスは注文主に寄り添った。「一歩」を積み重ねるうち時は流れ、終ぞ栄光とやらにたどり着くことはなかったが、来し方を振り返れば、そこには無数の時計が残った。ここにあるのはその一つだ。

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 さて、私はこの時計を英国人コレクターから入手したが、その時点で、ウォッチペーパーとして手作りと思しき可愛らしいシルクの刺繍が入っていた。18世紀のものではないだろう。歴代の持ち主のだれかにとって、この普通品の時計は、刺繍を作りたくなるほど大切なものだったのだ。私はこれを、アレックスに見てほしいと思った。

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