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時計史小説(2) 1802 Litherland&Co /リバプール・産業革命と野心の行方

無名の(ような)男

 時計の歴史の中で、ピーター=リザーランド(1756–1805)という人物は無名ではない。懐中時計用の「ラック・レバー脱進器(ラック・ピニオン脱進器)」の発明者として認知されている。

 脱進器とは、時計の歯車を一定のリズムで進める機構で、時計の性能の根幹にかかわる部分だ。17世紀を通じて、携帯時計の脱進器は「バージ脱進器」という形式の一辺倒だった。これに対して18世紀は、様々な形式の脱進器が発明される。精度向上、サイズ縮小、ロバスト性向上、コストダウン、様々なニーズに応えるため、「脱進器の進化の大爆発」がおこった。リザーランドの業績もこの流れの中に位置づけられる。

 一方で、よほどの時計ファンでも、リザーランドの名を記憶している方は稀だろう。これは、 ラック・レバー脱進器が進化の徒花のような存在で、18世紀末に生まれて19世紀前半には早々に消えてしまったためだ。実質的に、市場にラック・レバーの時計を供給できたのは、リザーランドと、彼の後継者、ロバート=ロスケル(1776-1847)くらいと考えてよいだろう。

 だがそれでも、私は彼を取り上げたい。なぜならば、「普通の人が」 バージ脱進器以外の時計を手に取る最初の機会を、彼がつくったからだ。

Light my fire. (野心に火を点けて)

 ピーター=リザーランドは、イギリス・ウォリントンに生まれた。ウォリントンは、イギリス中部のマール川の中流にある。ローマ軍基地をルーツに持つ街で、彼の生まれる100年ほど前にクロムウェルと王政派がここで衝突した。父ジョン=リザーランド(生没年不明)の職業は不明だが、記録にないということは時計師ではないのだろう。都市生活者なら、もはや父の職業を子が継ぐような時代ではなかった。ギルド制度もとうに形骸化・崩壊している。

 父ジョンは、18世紀、都市を中心に急速に数を伸ばしていた中間層のひとりだったのではないかと想像する。後のピーターの目端の利く様子からかんがみるに、法律家あたりと考えるのはどうだろうか。拡大を続けるイギリスの人口は、農業ではなく商工業に従事し始めていた。このころイギリスは、小麦の輸出国から輸入国に転じている。初めて体験する商品経済の急成長の中で、訴訟も増えていた。中間層は、貴族やジェントリーなど既成の富裕層の消費文化を積極的に取り入れて、現世的な利益と快楽を追求していった。(エイザ=ブリッグズ、「イングランド社会史」、筑摩書房、2004)

 「ピーター、訴訟の準備に少しだけ打ち合わせに出かけるよ。まあ大口のクライアントじゃないからね。適当に切り上げて、昼までには戻る」
 「わかりました、父さん。夕方は確か観劇ですよね。準備のほうは俺がやっておきますよ」

 従順に答える口とは反対に、ピーターは内心で悪態をついた。

 (安い劇場で、派手なばかりで仕立ての悪い服を自慢しあって、いったい何が楽しいんだ。小銭を稼いで、うすっぺらな遊びに興じるだけの人生なんて、俺はまっぴらだ。)

 慣れない消費にふける中間層の滑稽さは、18世紀を通じて風刺のネタになっている。ピーターも、もしロンドンあたりに生まれていれば、グランドツアーにあこがれる、のんきな青年になったのかもしれない。しかし、ウォリントンの隣街、リバプールの急激な発展が彼の野心に火をつけた。

 リバプールは港湾都市だ。18世紀のリバプールは、世界史上で「大西洋三角貿易」と呼ばれる国際取引の中で発展した。首都に近く対外貿易の玄関口として発展した街という意味で、私は日本の横浜を思い出す。

 大西洋三角貿易とは、以下の三極の間の貿易だ。
  ①イギリス西部(リバプールなど)、
  ②アフリカ南西部(セネガル、黄金海岸など)、
  ③アメリカ東部(ヴァージニアなど)

 これらの三極の間で、以下のような取引がなされた。
  ・①イギリス西部から②アフリカ南西部に向かった商人が、②アフリカ南西部で奴隷を買い付ける。
  ・②アフリカ南西部から③アメリカ東部に奴隷を運び、③アメリカ東部で奴隷の労働力を使ってプランテーションを行う。生産物は、綿花や砂糖。
  ・③アメリカ東部から①イギリス西部に綿花や砂糖を運ぶ。
 この結果、①イギリス西部、リバプールのような街には、大量の綿花や砂糖が運び込まれることになる。

 さて、これらの商品をどこでどう捌くかという点こそ真の問題だ。砂糖は紅茶文化の普及に伴ってイギリス国内でいくらでも売れた。一方、綿花は、近郊の工場で加工されてから、18世紀は主に国内市場に売られ、19世紀には海外市場にもどんどん輸出されることになる。この押し売りの販路こそ後の大英帝国のルーツだ。17-18世紀に茶や陶器の輸入で流出した銀貨を、19世紀に綿布の輸出で回収することで、イギリスは人類初のワールドワイドの覇権国家に成長した。(祝田秀全、「銀の世界史」、ちくま新書、2016)

 タダ同然で仕入れられる奴隷と生産効率のいいプランテーション。生産物を売りつける市場があるかぎり、大西洋三角貿易は金のなる木だった。リバプールにボトボト落ちる金の実につられて、イギリス各地から人が集まった。
 欲望は目に触れるものから喚起される。目の前で経済の急成長を見せつけられて、若いピーターが穏やかでいられるはずもなかった。1777年、21歳のピーターは、ウォリントンで妻リディアと結婚する。父ジョンには法曹界での政略的な意図があったようだが、ピーターは地元の政治など眼中になかった。結婚後ほどなく、ピーターは駆り立てられるようにリバプールに発った。

18世紀、時計は科学技術の最先端だったか

 18世紀は、イギリスを中心に産業革命がおこった時期として語られることが多い。鉄道が整備され、先述の綿花の加工は紡績機・織機により機械化された。ワットによる蒸気機関の発明もこの時期だ。
 そして時計史における18世紀も、ウォッチ(携帯時計)・クロック(置時計)とも綺羅星の如く大物がが名を連ねる時代だ。

 スイスで生まれてフランス・パリで活躍したアブアラン=ルイ=ブレゲ(1747-1823)。パーペチュアルカレンダー、トゥールビヨン、ブレゲヒゲなど現代でも利用される機構を発明し、ギョーシェ彫りダイヤルにブレゲハンドを合わせるフェイスデザインなど意匠への功績も大きい。マリー=アントワネットに贈られた超複雑時計や、「時計の歴史を200年早めた」という賛辞は、時計に興味がない方でも聞いたことがあるのでないだろうか。

 イギリス・ヨークシャーの片田舎に大工の息子として生まれながら、叩き上げで時計技術を習得したジョン=ハリソン(1693-1776)。「遠洋航海に必須となる経度の測定方法を発見した者に最大二万ポンドの賞金を与える」という「経度法」に彼はチャレンジした。ライバルの天文学者や委員会の理不尽な妨害にもくじけず、超高精度時計・マリンクロノメーターを完成させた彼の物語は本当に胸を打つ。ぜひ参考文献を見てみてほしい。(デーヴァ=ソベル、「経度への挑戦」、翔泳社、1997)

 17世紀のトーマス=トンピオン(1639-1713)以来、時計業界を牽引してきたロンドン・フリートストリートの時計師たちも負けてはいない。トンピオンの弟子、ジョージ=グラハム(1675-1751)は、師匠と同様に天文学・地球科学などサイエンスの世界と関係を築きながら時計の開発を行った。前述のハリソンの数少ない味方の一人でもあり、彼のマリンクロノメーター制作に技術的アドバイスを与えつつ、なんと無担保・無利子で出資までしている。「正直者のグラハム」という異名で呼ばれた。科学の功績で言及されることも多い人物だ。

 そしてグラハムの弟子、トーマス=マッジ(1715-1794)。彼こそこの物語に最も関係の深い人物だ。マリンクロノメータの改良に尽力し、王室に高級時計を納品するなど商売上手な一面も持っていた。
 時計学上のマッジの最大の功績は「デタッチト・レバー脱進器」の発明。そう、後にピーター=リザーランドの「ラック・レバー脱進器」を駆逐することになる脱進器の発明者だ。

 ところで余談だが、18世紀時計学の到達点、マリンクロノメータは何が技術的な決め手で完成したのか、正直なところ私にはよくわからない。脱進器の進化は顕著だが、もしこれが決め手なのだとすれば、懐中時計をマリンクロノメーターとして使えても良さそうなものだ。だがもちろんそんなことはおこっていない。
 温度補正、防振、宝石を使った軸受け、ヒゲゼンマイの曲線の最適化……等々、結局のところ決め手になる大発明などなく、小発明の積み重ねの結果マリンクロノメーターが生まれたのではないかと私は思う。産業革命がフランスでなくイギリスで起こった理由の一つとして、イギリスでは小発明が継続的に誕生し、それが一般に広がったからだと論じられることがある。(長谷川貴彦、「産業革命 (世界史リブレット) 」、山川出版社、2012)

 なんにせよ、これら大小の発明の乱れ咲きをもとに、「18世紀、時計は科学技術の最先端だった」と言われることがある。確かに嘘ではないと思う。私も一人のアンティーク時計ファンとして、そう言いたくなる気持ちも理解できる。

 だが「生活の中で使う普通の時計」は、科学技術の最先端のマリンクロノメータのようなデテント脱進器やレバー脱進器をそうそう積んではいなかった。普通の時計屋は、昔ながらのバージ脱進器を作っていた。さらに、時計業界は分業が進んで、時計師の仕事は「粗造りされた部品を仕入れて、仕上げて、組み立てて、調整する」ことになっていった。
 その結果、少し大きな都市なら、レベルの差こそあれ時計屋は普通に見られる存在になっていた。現代ならオリジナルPCを売るPC屋のようなイメージだろうか(PC屋もオリジナルPCを組むときに半導体部品の設計・生産は普通行わない。組上げと調整の技術で差別化を図っていく)。
 もちろんピーター=リザーランドが息を巻いて乗り込んだリバプールであれば、レベルの高い時計屋もたくさんあった。その一つに転がり込んで生活費を稼ぎながら、ピーターは時計制作の地力を磨いていった。

 「俺の目の付け所は間違っていないはずだ。時計は高級品だが、別に原価が高いわけじゃない。ケースは金だの銀だのを使うが、このあいだ帳簿を見た感じでは、あんなもの売値からしたら些細なものだ。要するに時計ってのは、技術さえ身に着ければ利益率が高いんだ。」

 さらに、18世紀の時計屋と現代のPC屋で違うところが一つある。当時の時計は発展途上。時計屋はアイディアひとつで時計の性能を飛躍的に向上できる可能性があった。ピーターはここに賭けていた。彼は思いつく限りの伝手から資料を掻き集めて、夜ごと読みふけった。

 「あとは突破口になるアイディアさえあれば、頭一つ抜けられる。何か、何かないのか」

リザーランドの時計

 先述のトマス=マッジは1765年に時計の技術解説書を書いている。"Thoughts on the Means of Improving Watches, Particularly those for Use at Sea"というタイトルで、今ではインターネットで閲覧することもできる。大著ではない。ハンドブックといった分量だ。ちなみにこの本は懐中時計にも言及するが、その関心はレバー脱進器にはなく、テンワの振り角などに紙幅が割かれている。

 18世紀も末になれば、このような技術書は普通に流通していた。当然ピーター=リザーランドも目にしているだろう。入手できる文献はイギリス国内に限らず、大陸で発行されたものも含まれる。時計業界に属しているなら、論文の類を目にするチャンスもあった。そしてある夜、ピーターは彼の運命を変えるフランスの論文と出会う。

 「やっぱり精度を出すなら、テンプとガンギ車の間にレバーを挟む構造か。マリンクロノメーターもこれだもんな。確かにこれなら非接触(デタッチト)が実現できてテンプが自由振動に近くなる。
  ――でも、なんだこの設計。テンプとレバーがラック・ピニオン歯車で噛み合ってる。これだと振動が阻害されるんじゃ……。いや、シリンダーより薄くて、デタッチト・レバーよりロバストって言いたいんだろうか。なぜだか精度は出るらしいが……。」

 著者はフェルディナンド=ベルトゥード。心に引っ掛かりを感じて資料をひっくり返せば、過去に見たアッベ=ドゥ=オトファイユとかいうフランス人の論文とよく似た設計思想に思えた。そう、後にラック・レバー脱進器と呼ばれる機構について記載した論文だった。しかし実物を生産している様子がないのはなぜだろう。

 「ああ、フランスは革命の真っ最中だからか。たぶんこいつも貴族のひも付きの研究だろうし、いまごろはお気の毒ってところだな。だがまてよ、この設計、特許は取れてるんだろうか。――おいおい、まさかだよな。」

 翌日、ピーターはあわてて特許庁に赴き、震える手で書類を繰った。

 「ない。特許がない。いける、のか。俺が特許をとって販売しても、少なくとも法的には問題ないんじゃないか。」

 しかし、これは悪魔のささやきだ。違法ではないものの、倫理的にはグレーという他ない。ここが自分の人生のルビコン川だとピーターは感じていた。逡巡するピーターの脳裏に、父の生活が思い浮かんだ。小金と薄っぺらな快楽を求める人生が望みなら、初めからリバプールに出てくる必要などなかったのだ。

 「やってやるさ。俺はやる。俺は悪魔と契約するぞ。」

 そこから先のピーターは迷わなかった。1790年、ピーター34歳、「リザーランド&Co.」をリバプールで立ち上げる。1791年、「ラック・レバー脱進器」の特許を取得(特許番号1830)。1792年、レバーの振り切り防止の改良技術の特許を取得(特許番号1889)。(Max Cutmore、「The Pocket Watch Handbook」、David & Charles、2002)

 そして、ここにピーター=リザーランド(リザーランド&Co.)の時計が一つある。この時計は、T. P. Camerer Cuss、「The Camerer Cuss Book of Antique Watches」、Antique Collectors Club Ltd、1994 に掲載されている。同書によると、1802年(ピーター 46歳)の作品だそうだ。

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 ケース、ダイヤル、ハンドとも、当時流行っていた新古典主義を意識した意匠だ。的確なマーケティングといえる。普遍性の高いデザインだから、三角貿易に乗って新大陸で売るのもやりやすかったに違いない。
 セコンドダイヤルの表記を見てほしい。実はこの時計は15秒で秒針が一周する。内部の輪列の都合だが、このユニークな運針も「リザーランドの特許機構を積んでいる」ことを示すわかりやすい記号として機能したのではないか。

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 ムーブメントは、同時代のバージ時計より、やはり薄い。仕上げは驚くほど良好で、リザーランドが決して世渡りだけの男でなかったことがわかる。この時計自体の精度は計測できていないが、一般的に、ラック・レバー脱進器は、バージ脱進器よりも精度が出しやすいとされている。
 一方でラック・レバー脱進器は調整が難しいことで有名だ。この時計も動き出しが少し鈍い。メンテナンスの履歴は不明だが、ゼンマイを巻いてみると意外と巻きが重い印象がある。ひょっとしたら高トルクで無理やり回しているのかもしれない。

 リザーランドは、この時計を「従来より安価に海上で経度測定できる時計」と謳って販売した。確かにリザーランドの時計は、旧来のバージ時計よりいくらか薄く、いくらか振動に強く、いくらか正確だが、「海上で経度測定」は明らかに話を盛りすぎだ。ただそれでも「安価」だけは本当だった。おかげで、ラック・レバー時計は大量に出回り、普通の人が普段の生活の中で使う時計がおよそ100年ぶりに進歩することになった。

野心の行方

 悪魔との契約には皮肉な結末が待っている。

 ピーターの会社、「リザーランド&Co.」は、短い間にパートナーを次々と変更して、更なる事業拡大の道を探った。その一環として、同じリバプールで時計師をやっているロバート=ロスケルへの、特許権のライセンスアウトがあった。そして最終的には、このロスケルが、ラック・レバー時計の製造販売業の後継者として生き残ることになる。

 どのような経緯でピーターがロスケルに目をつけ、契約がどのようなものであったかは定かではない。しかし、ロスケルは、「特許されたロスケルの時計」としてラック・レバー時計を売り込んだ。そして見事、事業拡大を成し遂げる。現代のアンティーク時計市場でも、ラック・レバー時計の数量は、リザーランドよりロスケルのほうが圧倒的に多い。当人の意図は不明だが、結果的にロスケルは、事業の乗っ取りに成功したことになる。
 さらにロスケルは、マッジの発明したデタッチト・レバー脱進器が改良されて一般向け時計に実装され始めるのを見るや、リザーランドのラック・レバー脱進器をあっさりと捨てる。これにより、ラック・レバー脱進器は進化の徒花となり、ピーター=リザーランドは歴史に埋もれることになった。

 ピーター自身は、ロスケルとのライセンス契約の数年後に急逝していたため、この結末を見てはいない。年齢や、直前までの精力的な活動を考えれば、事故や病死など不慮の死であろう。がむしゃらに駆けて唐突に途切れた人生だった。

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 ピーター=リザーランドには、肖像画が残っている。時計師らしく、ムーブメントを見せて時計を持っているのが目を引く。肖像画は持ち物で人物のバックグラウンドを表現するのが常だが、ピーターの肖像画には時計以外に特徴らしい特徴がない。時計一筋の人物だったのだろう。風貌はアングロサクソン人の特徴を備えたなかなかの美男子にみえる。描かれた時計の形式を見るに30-40歳あたりのはずだが、ずいぶん若々しい。若い時分の姿に描かせた可能性はあるが、実際に若々しい人物だったのではないかと想像する。

 ピーターを駆り立てていたのは何だったのだろうか。18世紀は、大西洋三角貿易や産業革命にみられるように、新興国イギリスが大国への道を駆け上がる、イギリス近代文明の青春時代だ。ピーターはその時代の熱に背中を押されて短い人生を駆けたのではないかと私は思う。

 きれいなだけの人生ではなかった。非難されて当然の行いもしてきた。彼が「普通の人の時計」に画期をもたらしたのも、おそらく結果論に過ぎない。だがそれでも、自分の望みの在り処を自分で選んで世界と向き合う姿は、もう立派な近代人だった。神でも王でも生まれでもなく、己に従う男がそこにいた。


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