大工の孫というアイデンティティ

建設業界に入り、ちょうど一年が経った。

入社したのはコロナ禍の直前、4月1日。「大工の孫」というアイデンティティに賭けて挑戦した一年だった。

しかし丁寧に考えてみれば……、じいちゃんが生前に丸ノコやカンナを使って大工仕事してる姿なんて一度も見たことが無く、転職面接では美談にしてしまった所はある。

しかし、建築に対する興味がある事は間違いないし、過去に散々、noteやブログやツイッターで建築の事を書いてきた。小学生の頃から「製図」が趣味という、まぁ、人様にはウケにくい趣味を持っている。もちろんそれを仕事にしている人は立派だし僕の憧れだ。後述するが、なりたい自分のひとつである。ただ聞き手にとって「製図が趣味です」と言われても、話が広がりにくくて困らせてしまうだろうから、あまり人には言わないようにしている。
現代ツールを使って建築を表現する行為が、自分のアイデンティティなんだと改めて感じた。それが今の自分にとってはマインクラフトや写真になっている。丸ノコがパソコン、カンナはスマホや一眼レフといったところか。製図はマイクラでのクリエイティブ活動で活かしている。

2020年は施工管理向けの勉強をした。コロナの影響で約八ヶ月行った。時勢柄長期研修となったおかげで内容は幅広く、CADやRevit(BIM/三次元ソフト)や手書きの製図の勉強もした。その間に文を書くという天分にも気づいた。ただ恥ずかしながら長い期間かけたものの完璧とは言えない。情報量は多いし、CADに至っては対面研修がコロナのせいで実現されず、操作方法しか学べなかった。施工管理技士の資格取得プログラムも受けたが、そもそも実務経験が必須であり、現場を知らないので知識が入りづらかった。僕ら同期は毎日のように励まし合った。
ただ研修・現場配属を通して、趣味レベルだった以前と比べれば知識はついた。机の上での勉強(本、動画、eラーニング等)だけでは遥かに足りないと思っていたから、現場を体感して理解を深められた事・活かせた事はある。
ただ現場は過酷だった。「過酷」と言うと残酷すぎる表現かもしれない。事前情報と体験を重ねて考えれば、以前より緩和された部分は多々あるなと察しはついた。確かにパワハラは毎日だったし、個人的に非合理的と感じる作業手順、理不尽な指導は日常茶飯事だった。反面、丁寧に教えてくれる先輩もいたし、作業をテキパキ進める若い職人たちと食べ物やゲームの話で盛り上がったり、必要な資材・機材を買い揃えてくれる事もあった。ツールの進歩・活用も大きい。

ただ……自分の本質には合わない部分が多かった。

天秤にかけて受け入れ難い事の方が多かった。これは人に依るから自分の問題。いま思えば事前に考えがつく事ばかりだけど、ただどんなに他人に批判されようと、実験的にやってみないとわからない事でしたとしか言いようがない。加えて会社の問題、立場の問題もあり、本当に1年間問題だらけでずっと考えていて、疲れた。
そもそも、知らない世界の門を叩いただけでも、よくやったものだと思う。安定を求めて留まる人も多いだろう。もちろんそこが居場所ならそれは自然なことだし過去自分もそうしてきたほうだ。そういう人たちから見たら「転職」って異常に見えるんだろうけど…、「居場所」だったり「活躍できる場所・仕事」を探している、ただそれだけのこと。人類も鳥も魚も、豊かで生きやすい土地・環境を求めて居住地を変えるのだから、それと同じ。じゃあ渡り鳥は異常ですかと問いたい。

会社の問題やコロナという障害もあり、この一年だけで二社経験した。業務も事業も環境も異なるし何か状況や心境に変化があるかもしれないと、微かな希望をもっていた。これは実験に近い。問題の切り分けは、問題を目の当たりにして原因を追求していくプロセスが必要だから。結果、やはり自分の本質と合わない点がはっきりした。環境の問題ではなくて自分の問題なんだとやっと気づいた。
自分は異常かもしれない。ただお互い様だと感じる部分もある。今時、雇用契約書も労働条件明示書も用意しない企業があるのかと大変勉強になった(皮肉)

未来を案じて、職を変える準備にかかることを決めた。

そもそもそれほど長く勤めるつもりは無かった。期待されているのはとてもありがたい。本当に。ただそういったポジティブな面を優先し気持ちをおざなりにして長居した結果失敗する……というのは以前味わい勉強したから、それはもう避けたい。気が変わらないうちにと思っている。

「大工の孫」というアイデンティティを、全くそれてるわけでもない。走っているのは同じレールを真っ直ぐにじゃなく、途中で分岐したレールを走っている…というだけの事かもしれない。線路幅=やれる事(スキル)の幅と例えれば、片方の車輪は併設された違うレールでも、もう片方は同じレールを走っているというのは、鉄道マニアならよくわかる話。三線軌というもの。

思えば、「大工」だった祖父も晩年は、「タクシードライバー」をしていた。横須賀じゃ知らない道は無いだとか、高速使い神奈川から静岡までお客さんを連れてったと武勇伝を聞かされたものだ。よく一緒に日本地図や神奈川県の地図を見てた。自分が製図に興味あったり、土地勘もあり(おかげでイタリアを一人で旅できた)、地理も得意で桃鉄強い(笑)というのは、そんなバックグラウンドストーリーがあると思うと面白い。
祖父はとんでもなく厳しくて怖い人だったけど、亡くしてからまた一緒に地図を広げて話したいと思うようになった。叶わないのは悲しい。けど、自分だったなら死んでからも自分の事を覚えていてくれるというのは、嬉しいことだと思う。こうして文を書くと思っていられる。

製図や土地勘は、祖父が授けてくれた
「生きるための武器」なのかもしれない。

大工の孫は
大工には向いてないけど、
色々出来る孫になるのも、
悪くない。

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