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「我が子の妄想と問答」日記|小野寺

オーディブルを生活に取り入れてからというもの湊かなえ先生ブームが到来していて、先日『母性』を聴き終えた。紙本でも読んだことがあったが、音声でも面白かった。読了後の「面白かった」には人それぞれの捉え方があるけれど、私は「作品を踏まえて実生活を省みる余地の広さ」で測りがちである。

私にも両親がおり、育ててもらってここまで来た。その記憶を思い返しながら、読了後に思ったのは「成長過程での多少の強要や我慢は必要で、そのいずれもは呪いになる」ということだ。お守りになるかもしれないが。誰しもが、生育環境の偏見の中で生きていかねばならないし、それを解き放った先に見えるものがある。世間は何事にも正義だ悪だとうるさいが、世間にどう評価されようと、どの家族も誰かにとっての美しい家族であり、歪な家族である。完璧な人間などいないのだから、仕方がない。

私が子供を産むつもりがないのは、親になったら、正義だ悪だと決められないものに一旦答えを出さないといけないのではないか、と思うからだ。母親という役割を持つ人は皆、確固たるでもとりあえずでもいいから、物事への答えを正義と仮定して家族と付き合っている。気がする。小さな我が子が公園で遊んでいる時「なんで夜になったら家に帰らなくちゃいけないの」と聞かれたら、なんて答えればいいのかわからない。多分「夕ご飯の時間だからだよ」とか言う気もするが、「なんでみんなでご飯食べなくちゃいけないの?」と聞かれたらなんと言えばいいのだろう。

なんでもだよ、帰るぞ、と言える人は美しいし、強い。正解に近い気もする。私は自分に自信がないというか、自分の意見が他者の人格に悪影響を及ぼすのは怖い、と思う。子供がいなくたって無意識のうちに、現在進行形で悪影響を及ぼしているくせに。子供を傷つけるのは怖い。どれだけ愛情を注いでも、それが伝わるイメージが全くない。伝えられる気がしない。

得意なことだけやっている私は、人間関係が怖いので、無機物の文章に逃げているのだろうな、とよく思う。それでも歳を重ねて、向き合ってくださる方もいて、人間関係をがんばったりできている。まだまだだけど。このレベルの人間が、やはり子供を作るのは危険だと思う。人間には役割があるから、自分ができることをやろう、としみじみ思う。

だから小説を書く時、架空の我が子に伝えたいことを想像して、載せて書くようにしている。「やりたくないことを解決するには、やるしかないのよ〜」とか「協力関係を築けるパートナーを選びなさい。絶対的に自分のものにはならないけど、自分のものだって顔をしたい、自分のものだって言われても嬉しいパートナーと、一緒になりなさいね〜」とか。生身の我が子だったら、この考えは呪いになるかもしれない。でも、文章であれば、お守りにしたい人だけがすればいい。

ここまで書いて思ったが、私は人間に過保護すぎるのかもしれない。みんな大なり小なり呪いを抱えて、そのうち自分で克服するんだから。その克服を信じてやらない方が、残酷だ。とすら言われてしまうのかもしれない。

ね。答えは出ない。人間が子供を産んで育てる仕組みを眺めながら、当たり前のようにそれをやる方々に、いつもひっそりと頭を下げている。


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