金婚式どころか、銀婚式さえも実現不可能な私の現実
5月21日
両親の44回目の結婚記念日。
毎年、両親の結婚記念日には何かしら贈り物をしている私。
昨年はお揃いのブランドでデザイン違いのお財布。
一昨年はお揃いのブランドで形違いのカバン(父はショルダー、母はリュック)。
というように、これまでお揃いの何かしらのモノを贈り物として選んできた。
そして、今年は・・・
「佐賀牛のサーロインステーキ」を贈った。(母が佐賀牛好き)
両親は2人とも、昭和25年生まれだから今年72歳
私は焼肉に行ってもカルビやハラミを1切れ2切れしか食べられない人間。もっぱら牛タンとセンマイとミノとホルモン(臓物祭りで安上がりな私)
だがうちの両親は平気でカルビもロースも、何なら豚トロもいけちゃう人たち。(私は豚トロなるものを食したのは人生で一度きり)
今年のGW、コロナ禍でなかなか帰省できなかった実家に、旗日の3連休で帰省した。
お正月以来の帰省であった。
実家に到着するのが夕方頃になりそうだったので、私が夕飯を用意すると伝えていた。だが、予想外に混んでいた5月3日の高速道路(読みが甘かった)。
買い物して調理するなんて時間的余裕はなさそう。。。
そこで、私が故郷で社会人をしていた16年前によく行っていたおにぎり専門店と焼き鳥店にて持ち帰りを頼み、それをお土産に買って、実家にて簡単にお家居酒屋を開催した。
本当なら娘と孫が腕を振るうつもりだったのにテイクアウトでごめんと思ったが、これまた予想外に両親にたいそう喜ばれた。
街で飲んだくれて、はしごするような焼き鳥屋のお持ち帰り程度でこんなに喜ばれるのか。そんなに質素な暮らしをしているのか。よし、今年は結婚記念日に高級食材を贈ろう!そう決心したGWの帰省だった。
2人は60過ぎの定年退職するまで、仕事も家庭も一生懸命だったが、個々人のプライベートも非常に充実させている人たちだった。
高校から私は家を出た。
同じ県内だけど、少し離れた市町村の高校に進学したため、完全寮生活になった。
当時、一人っ子の私が家を出ることを両親はとても悲しんだし寂しがった。
そんなことを言われ、送り出されたものだ。(入寮時には両親ともに涙)
だが、しかし。
いざ、高校が始まってみると、私の忙しさ以上に、両親のほうが忙しくなっていた(特に週末)。
郵便局員の父は趣味のバイクやマラソンや登山。週末は泊まりがけでツーリングに行ったり登山に行ったり。そして職場の組合の幹部に就任…
看護師の母は看護主任職、新人教育関連の研修や、新しい診療科設置での専任研修等…
とにかく、2人とも、私が家を出たその時期に(当時40代半ば)キャリア的に盛り上がりを見せていたようで、義務教育の子どもの手が離れた途端、自分たちの人生が楽しくて楽しくて仕方ない、というような状況だったのだと推察できる。
(だって帰りたい時に迎えにきてくれなかったもん。⇦根に持っている)
そんな両親は今でもとても仲が良い。
私が幼少の時から、家族で出かけるとなると、当たり前のように2人は手を繋いだり腕を組んだりしていたものだ。(娘である私は父か母のどちらかの片方と手を繋ぐ感じ)
夫婦って、いつまでも恋人同士感覚でとっても仲の良いもの
両親を見て私はそう思っていたし、それが本来あるべき姿なのだと思って大人になった。
しかし、私の2回の結婚を振り返るとどうだろうか。
恐ろしくかけ離れている。唖然とするほどかけ離れている。
手を繋ぐ、腕を組むなんて、付き合っていた時のわずかな期間だけ。
結婚すると、そんな関係性は保てなくなっていた。
ワンオペ育児、ワンオペ家事に追われ、夫婦の時間を楽しむなんていう余裕はなかったという私側の問題もあるが、もともと夫にそういう素質がなかったことも原因の一つだろう。(人選ミス)
佐賀牛は、結婚記念日である今日の午前中にチルドで届くように手配していた。
届くと同時に母から連絡がきた。
ああ、なんて平和なの!!
そして、18時すぎに今度は父からLINEがきた。
私が贈った佐賀牛が綺麗に焼かれて盛り付けられ、サラダやお刺身が並ぶ食卓の写真と、ビールグラスを掲げる満面の笑みの母の写真が送られてきた。
おめでとう、結婚記念日。
44年経っても幸せな2人の姿を見られると、娘として、とても嬉しいし幸せな気持ちをもらえるよ。いつまでも2人仲良く元気でいてね。
でも、そこでふと、現実の我に立ち返る。
ああ、私は2回目の離婚目前。
結婚15年で終止符を打ちそうな現実。
ああ、私はどんなに頑張っても、金婚式どころか、銀婚式ですら迎えられずに人生を終えそうですよ(とほほ)
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