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食の真髄は、実践実食に宿る。

何にだって言えることは、実践が全てを凌駕するということであるのだが、殊、「食」においてもそれは言える。
ぜひ一度、私と五つ、歳の離れた妹が創る納豆を、食って頂きたい。

その不味さに、父も私も「降参だ、降参!」と、参ってしまうほどなのだ。

通常、納豆というのはやはり、なんと言っても粘りにこそ旨みがあるはずで、少量の醤油と、大豆の旨みが相まってワシワシ白米をいただくものである。そういう風に、決まっているのである。

ところが、妹の創る納豆と言うのは、全くもって軟弱そのもの。
まず、例のパックを開けると納豆より先に、顔をのぞかせる化学調味料と少しの和からしである。

そのうち、化学調味料、甘く、妙にべたつく醤油のようなものを、ドバドバとパック内の納豆に注ぐのです。

もうここからして、大変な、間違いである。

パック売りの納豆を食うとき、私たちは決して、この化学調味料など使ってはいけないのだ。冷蔵庫の中で、今か今かと出番を待っている、醤油を「さぁ」と取り出し、クルっと1まわし入れたら、供え付きの和がらし以上の量を入れ、右に78回、左に22回回して、これぞ納豆と相成るのであります。

父は、まず納豆を左に50回、右に8回回し、醤油をたらし、「コレでもか!」と和がらしを入れ、また左に145回、右に77回回し、全くもって理科の教科書に載っている木星のようになるまで混ぜるのである。

妹が創る納豆などは、蒸し豆の化調漬けなのだ。

そんな妹が、中学3年になる頃、いよいよ我々一家も、納豆の食い方というものを、教育せねばなるまいよとなったのだ。

いつものようにワンワン醤油らしきものを入れようとする妹の手を待てと、差し押さえ、納豆とはかくあるべき、と父特製の納豆を、実食させたのだ。

「私には私の納豆との付き合い方があるの。」と駄々を捏ねる妹に対し、父は毅然と、「どこの馬の骨とも分からん醤油らしきものに、お前をやる訳には、遺憾。」と、やるので、渋々、父の納豆を食うと、たちまち妹は、「あい分かった。」と、本格派の納豆を、自ら作るようになったのだ。

食の真髄は、やはりまず、「食う。」ことにあり、次いで、好奇心であろう。

美味い、不味いだけが食ではないのである。

美味い、不味いの二択しかないのであるなら、「食」というのは、これほど愉しいものでは、無いだろう。

今日の食事が、明日の自分を創るのである。
何でも食って、「なんじゃこりゃ!」とやるのも、また善いのである。

当時の妹の心境といえば、「今までの納豆とは一体。」という、遺恨の念で、そう間違いはないだろうな。

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