日出る国のもやし、あれこれ。

1人暮らし中のカノジョに連れられてスーパーで買い物などすると、大人の私は、最大限もやしを買う。

1つ年上で、社会人のカノジョと言えど、まだまだアマちゃんで、もやしの偉大さを知らんのだろうな、「まだ一袋あるからいいよ」と買い物に来たのにもやしを時として拒むのだ。

それこそオトナ失格である。

考えれば分かるのだけど、「もやしを買いに街まで」行くことがどれだけ愚かなことであるか、なんたるガソリンの無駄であるか。

知らぬのであるな、もやしは不死鳥の如く復活することを。

そもそも20円くらいで売られているもやしが尚も値引きされているにも拘らず、「まだ冷蔵庫に入っている」など、言語道断で、もやしって、そーゆーんじゃなくて、来たら買うものなのだ。

親戚のうちに行ったらまずは挨拶して、次いでお線香をあげるのと同様にして、スーパーでカゴとゴロをセットしたなら「お一人様x袋まで」のx袋カゴに入れるものなのだ。これまでも、これからも、そうやって世界は回るのだ。

東に日が昇り、西に日が沈むように、人はまず、もやしをカゴに入れるところから買い物が始まるのだ。カゴにもやしが入っていないのであれば、それはまだ、買い物のスタートラインにすら立っていない。遠足に行くのにおやつを買っていないことと同義なのだ。

もやしの偉大さを語るにあたって、その価格破壊ぶりは特筆すべき点ではあるが、私がここで挙げたいのは、上記したように、さながら浅田真央の如き転んでも立ち上がるもやしの精神力である。

スーパーなんかで時折、20円のもやしのさらに半額なんかで売られていて、そんな賞味期限間近のクタクタのもやしも、水に晒しておけば、元のシャキシャキ元気ハツラツもやしに元通りなのだ。

サッとゆで、水気を切ったシャクシャクもやしに塩コショウ、ごま油でササッと和えれば一級品のおつまみになる。

もやしなどと言う弱弱しい名の下に、私達は、もやしを無意識のうちに甘く見ているのだ。時にダメな奴を「もやし野郎」などと揶揄するが、それではもやしに失礼ではないか。

20円で家計を支え、炒めてよし、茹でてよし、何にだって成れるさながら遠藤憲一ばりの名脇役ぶりではないか。それをいけしゃーしゃーと「もやし野郎」などと、まったくもって悪である。

もやしがどれだけ、私のお財布事情、はたまたカノジョのお財布事情のタスケとなっているか、一度考えていただきたい。

水に晒せば、半永久的にイケル野菜が、他にあるだろうか。もやしのようにいかなる経済情勢にも踊らされることなく凛然と20円で取引される野菜が、他にあるだろうか。

もやしの模倣不可能性に、私達はまだまだ気がつけていない。

来るたびごっそりもやしを買うから、スーパーの従業員の一部から「今日ももやし野郎が来た」などと言われても。私は一向に構わない。

もやしから始まる世界があっても、イイではないか。

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