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小堀遠州 書捨の文

利休の孫弟子で、三代将軍徳川家光の茶湯指南役だった小堀遠州が、茶の湯の道のありようを説明した言葉。

原文

夫れ茶の湯の道とても外にはなく
君父に忠孝を尽し 家々の業を懈怠せず
殊には朋友の交を失う事なかれ

春は霞、夏は青葉がくれの敦公
秋はいとゞ淋しさまさる夕の空
冬は雪の曉 いづれも茶の湯の風情ぞかし

道具とても さして珍器によるべからず
名物とても異りたる事もなく
古き道具とてもその昔は新し
唯先達より伝りたる道具こそ名物ぞかし

旧きとても形いやしきは用いず
新しきとても形よろしきは捨つべからず
数多きをうらやまず 少きをいとはず

一品の道具なりとも幾度も もてはやしてこそ
子孫に伝ふる道もあるべし
一飯をすゝむるにも志を厚く
多味なりとも志うすき時は早瀬の鮎
水底の鯉とても味もあるべからず

籬の露 山路の蔦かずら 明暮れてこぬ人を
松の葉風の釜のにえる音たゆる事なかれ

現代語訳

そもそも、茶の湯の道といっても、特別なことは何もない。両親を大切にし、家庭内の仕事を疎かにせず、そして、友達との親交を絶やすことなく。

春は霞、夏は葉陰のホトトギス、秋には寂しさが増す夕暮れの空、冬は雪の夜明け。そんな景色こそが、茶の湯の風情なのです。

道具も、奇抜なものを選べば良いというものではない。名物ばかりを使うこともないでしょう。今古く見える道具も昔は新しく、先人達に大切に扱われ、今まで無事に残ってきたから、名物になったのです。

古いからと言って品がない物は使わない。新しくても美しければ積極的に使った方が良い。沢山の道具を持っている人を羨む必要はなく、道具が少ないからといって恥ずかしがる必要もない。

ひとつの道具を、幾度も大切に使い続けることで、歴史を超える名物になることだって有り得る。貧しい食卓でも十分に心を込めれば良い。贅沢な食事であっても、心がこもっていなければ、新鮮な鮎も泥臭い鯉も、味に変わりはなくなってしまう。

垣根の露、山道に紅く染まった蔦。朝も夜も、風に揺れる松葉のような、釜の煮える音を絶やさず、ただ来ぬ人を待とう。

解説

小堀遠州 1579−1647

綺麗さびという美意識を生んだ小堀遠州が書いただけあって、非常に美しい文章になっている。利休ほど哲学的な難しさはなく、和歌に近い美が込められている。

ミニマルすぎて硬くなってしまった利休の茶、人の弱さや脆さを映し、歪みに美を見出した織部の茶という二人の先達の茶に対し、遠州の茶は詩的な綺麗さがある。これは武野紹鴎の歌心溢れる茶への回帰とも言え、武家がこの綺麗な茶に至ったという事実が面白い。徳川による揺るぎなき太平の世が訪れ、革新より安定を求める動きが強まったことが背景にあると捉えることもできる。

山上宗二の「茶湯者覚悟十躰」に近い内容ながら、文章に硬さや緊張感がないのは、本人達の個性もありながら、やはり生まれた「時代」の影響が大きいのかもしれない。

超訳

“ 色あせた花束  E.K. ”

父さんと人生を語り
母さんと今を笑い合う
たまには料理でも作りましょう
だんだん友達も増えてきたね

春先の霞んだ桜並木
夏の葉陰から鳥の声
秋の帰り道は寂しいな
冬の夜明け前に抜け出そう

少年は走った 見たかった
景色は未だ胸の中だけに
まだあった 消え去った
過去に色あせた花束のように

目立ちたがりやは寂しがりで
偉ぶっても本当は弱虫で
年寄りも昔は恋をして
ただ年を取ってきたわけじゃなく

歳月で強くなるわけじゃない
若さは甘さとは限らない
金持ちを妬んでも意味はない
人生をさげすんでもしょうがない

少年は走った 見せたかった
景色は未だ胸の中だけに
ただあった 消え去った
過去に色あせた花束のように

母さんが早起きをして 作った朝ごはんを
光が差し込む テーブルで食べる

父さんが帰ったら 家族で暖かな
食卓を囲む その味 そこにある色

年老いたお婆さんが一人
紅く染まった蔦を眺めてる
松風の音で埋まるベランダで
花束を持って走る少年を見る

少年は走った 見せたかった
景色が今は胸の外に
広がった 間に合った
未だ鮮やかな花束のように
過去に色あせた花束のように

過去に色あせた花束のように

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