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全裸じゃなければギリセーフ

西野カナが復活したらしい。

ガラケーに携帯本体よりも大きなマスコットキーホルダーをじゃらじゃら付け、好きな音楽を「着うた」に設定していた平成女子にとっては一大ニュース。
西野カナの音楽は数曲しか知らないが、その名前を聞くだけで、当時の風景や匂いがよみがえる。

私にとって、音楽と服は「記憶」だ。
西野カナのように、当時大ヒットした曲を聴けば青春の日々がありありと、やけにリアルな質感で思い出される。
真冬の玄関で校則違反だと没収されたブルーのカーディガン。
はしゃぎすぎてビリビリに破れた友人のブレザー。
過去の日々は、音楽と服と共に、突然私の前に表れるのだ。

「もうダメかもしれない」という瞬間、縋るようにして音楽を聴く私が思い出すのは、キラキラとした良い思い出ばかりではない。
恐らく俯いてばかりいたからだろう、思い出すのは地面と、足元、音楽プレイヤーを触る手元ばかり。

RADWIMPSの「夢番地」を聴くと、高校生2年生の冬を思い出す。
このまま私はどうなるのだろう、なりたい自分になれるのだろうか、そんな不安に押し潰されそうなテスト期間の帰り道。
ガチガチに固まった圧雪を踏み締めるようにして歩く足元は、コンバースのハイカット風に見える長靴。
何度か折った制服のスカートからのぞくジャージ。思春期ならではの矛盾。だ。
「僕はなんで立ち止まって明日を待っていたんだろう 明日はきっと明日をきっと迎えにいくよ」という歌詞を、雪に陽の光が反射してチラチラ光のを見ながら聴いた、あの日。


GO!GO!7188の「神様のヒマ潰し」を聴くと、大学時代に乗っていた阪急電車からの眺めを思い出す。
彼氏の浮気に気付いた帰り道だった。
夏の暑い日で、当時大好きだったAMBIDEXで全身を揃え、足元はベージュの厚底ウェッジソールサンダル。
青と白のストライプが可愛いお気に入りロングスカートの裾が黒く汚れていることに気付いたけれど、「ああ」としか思わなかった。
悲しいはずなのに、なんだかもう慣れっこみたいな、そんな気持ちで、「ずいぶん悪趣味なヒマ潰し 退屈を弄ぶ 神様のヒマ潰し」という歌詞を聴いていた。


私はいつも、音楽と、その歌詞に救われていた。

ただ、離婚を決意するまでの日々は少しだけ違う。

どんな歌詞も頭に入れたくなくて、心をこれ以上揺さぶられたくなくて、group_inouの「SAFE」ばかりを聴いていた。

「パンダの野生さく裂です 続けていいですか カブトムシの力強い木登り」

全く意味がわからない歌詞。
なぜか聴き馴染みの良いワードが軽快なサウンドに乗って流れる。
繰り返される「湯気越し揺らぐウズラの卵」という歌詞がぼんやり靄がかかったような頭の中を駆け巡ると、もう一種のトランス状態だ。
会社から自宅までの道を、group_inouを聴きながらニワトリのように頭を揺らしながら帰っていた。
今思うと、暗闇で奇妙なダンスを躍るヤバい成人女性だったかもしれない。


その頃、自分がどんな服を着ていたのか、よく思い出せない。
おそらく適当にその辺に転がっている服をかき集めて着ていたのだろう。

「明日、何着て生きていく?」

という某アパレルブランドのキャッチコピーはいつ見ても秀逸だが、「明日、どうしたら生きられる?」という日も、確実に存在する。

深淵を覗くどころか、深淵に肩あたりまで浸かってしまっているような日に、服を、生き方を、選べるだろうか?

歌詞に耳を傾け、内省することすらできない日は、心拍数をかき乱すようなビートに乗って、流されるように踊るしかない。

どれだけダサい格好だっていい。

全裸じゃなければギリセーフ。

どんなに奇妙なダンスだっていい。

生きていればギリセーフということで、どうかひとつ。


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