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幽霊、2022年の終わりに。

12月の仕事はZAITENサイゾーの連載コラムだ。

『時代観察者の逆張り思考』

ZAITEN2023年1月号

前者の『時代観察者の逆張り思考』は、武蔵野市の迷惑な話。
珍しく右曲がりっぽいけど、30年来の住人なので一度は書いておかないといかんな、と。
というか、子供の頃は横浜に住んでいて、やっぱり似たような構図だったよな、と思い出しながら書いた。
なので、基本的には、以前書いたベイスターズネタの回と変わらない。

……と書いたら、自分の原稿には珍しく、中途半端にパクってるひとがいたので笑ってしまったんだが、深堀りするんだったら、それはそれで好きにしてください。

『批評なんてやめときな?』

サイゾー2022年12月/2023年1月号

後者の『批評なんてやめときな?』「大麻とドラッグ」特集なので、90年代マイナー出版業界界隈のクスリ話。
80年代の野蛮さはもう不可能で、別次元の出来事として切り離して笑えるから、『全裸監督』とかになるけど、90年代は陰湿になってきたので、笑えるネタをチョイスするのに苦労する。

最近ではイースト・プレスであった回収騒動とか、90年代の「悪趣味」とかそういう言葉で括られている陰湿さを引きずっているよな、と思う。
正しくは90年代に80年代の野蛮さを模倣しようとしたら、結果として陰湿になってしまった人物と、そういう時代を嫌悪している純粋まっすぐ君な世代の相克なんですが。
形から入る模倣タイプの人間は、常に自分自身に枷をかけていないと、際限なく悪趣味になっていくもので。
片岡鶴太郎や長渕剛が分かりやすいと思うけど。(この2人は意識的に枷をかけている)
サイゾーの担当氏も、昔やっていた対談連載も含めると4代目になったので、かなり若返っていて、うっかり気を抜くと同じように嫌悪されかねないんだけど、幸い、そこまで90年代に思い入れはないから、そういうことは起きていない。

90年代に成功体験もないからね。

いや、昔の年末大掃除で中沢社長から「出てきた古雑誌は持って帰っていいぞ」と言われたので『写真時代』『Billy』を持って帰ろうとしたら、件のH氏に「てめえみてぇなクソオタが持って行くんじゃねえ!」といきなり後頭部を殴られて奪われたのも、今にして思えば、サブカルへの思い入れの差だったんだろうな。
ちなみに、後にも先にも接点はそれだけだが、この印象だけで見たらガチのレイシストだな。

なお、筆者が当時の会社で一番クソオタだったのかと言われると、実は別の編集部に、後に非モテ論壇でアジテーターとして大活躍した、もっとガチな方がいたらしいので、たぶん違うと思う。(退社して10年くらい経ってから知った)
本物でガチだったら、雑誌作りの参考資料とはいえ、『写真時代』『Billy』を持って帰ろうとは思わないだろうし。

2022年の終わりに。

漫画以外の紙の出版はだいたい瀕死なので、webの連載がなく、紙の実話誌に連載コラム2つという筆者の仕事は、いまとなっては珍しい。
webメディアでも何度か書いているが、結局、連載で残るのは紙媒体のほうだ。
どっちも、書き捨てであることには変わりはないと思うが。
90年代に思い入れがあるとしたら、90年代からの居場所だったマイナーな紙媒体へのこだわりなんだろうな。

2009年の大病で批評家の看板を下ろして、2015年にコラムニストとして戻ってきた。
大きく変わったことは、少しは世直しできる程度の人物に成り上がりたいという欲望を断念したことで、だからこそ幽霊を自称している。
幽霊とはいえ、霊障のひとつも起こさなければ商売にならないから、そりゃ起こすけども、それ以上でもそれ以下でもない。
だから、もうひとつの軸として、時代観察者を自称する。
正史には入らない些末な事象をオーラル・ヒストリーとして書き残す役回りだ。

だから、滅びゆく紙媒体の雑誌で書くことは性に合っているし、2005年以降、紙媒体はずっと下り坂だけども、2023年も雑誌が続く限りはコラムを書く。
このコラムが人生で最後の仕事になるはずだ、と思いながら書いているが、晩年の山口瞳が『週刊新潮』連載の『男性自身』だけ書いていたような晩年になるのかね。

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