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私はひとり時間が好きな専業主婦で、ハンドメイド作家

こんにちは、sarariです。

今はハンドメイド作家をしている私は、数年前まで、建築積算士という仕事をしていました。

「大学を出て、就職をして、結婚をして、子供を産んで、働きながら子育てをして…」

そういう人生を、私も歩むと思っていた。

でも、実際は、違いました。

私の人生は、私の思い込んでいたものとは、まったく別なものになっています。

今日の話は、きれいな話ではありません。

「思い込みが変わったこと」

それをテーマに「私」という人について、私が経験したことについて、つらつらと綴りました。

月には、美しく輝く部分と、影となり、傷だらけの部分があります。

どんな人も、私も、それは同じ。

私もまた傷がって、沢山の色の糸が、複雑に絡み合ってできています。

でも、だから私は、ハンドメイド作家で居られるのです。

絡み合った糸の一本、一本が、私の作品になっているのだと、思います。


就職活動に連戦連敗

就職先が決まったのは、大学を卒業する1、2ヶ月前のことだったでしょうか。

特にやりたいこともなく、世渡り上手でもない私は、就職活動に連戦連敗。

一方、当時すでに今の夫と付き合っていましたが、彼は「ここ」と決めたところだけを受けて、するりと就職が決まり、私は焦っていました。

「このままでは、就職できないまま卒業式を迎えてしまう」
「皆と同じように、就職先が決まった状態で卒業ができない」
「彼と同じ高さに立っていることができない」

そんな焦りが、日に日に募っていたのです。

そんな頃、卒業ギリギリまで就職先が決まっていない学生向けにインターンシップが開催され、私はそれを介して、なんとか就職することができました。

本当にやりたいことがなくて、焦っていて、「とにかくどこでもいいから…」という気持ちで入ってしまった、大阪に本社のある設計・積算事務所の支社。

文系大学出身の私は、入社一年目、とにかく勉強漬けだったことをよく覚えています。

しかし1年ほど経った頃、支社に2人しかいなかった先輩が相次いで転職。

支社に新人社員しか居なくなるという異例の状況となり、「転勤なし」という条件で入社したにも関わらず、大阪転勤が急きょ決定。

社長が持っていた京都にある小さなアパートで寮生活をしながら、大阪本社で仕事をするという日々を送ることになりました。


過呼吸、涙、出勤

その生活はだいたい1年と数ヶ月ほど続きました。

初めての一人暮らし、初めての関西、初めての本社。

支社へ戻る頃には激務に耐えかねて同期が全員辞め、本社に入った後輩もまた、精神を病んで辞めていった。

そして、私も。

大阪本社で過ごしたのち、地元の支社で半年ほど一人で仕事をしていた時のこと。

繁忙期には毎日終電か、パートナーに迎えに来てもらう日々。

支社ではテレビ電話やチャットで本社とやり取りできるものの、業務連絡以外ほとんど会話はなく、毎日無言でパソコンと向き合うだけ。

家は食べて、お風呂に入り、寝るだけの場所と化していました。

ひとりぼっちの支社でパソコンに向かうたび、いつも思っていたことがあります。

「これが、会社の歯車になるということなんだ」
「私、このままこの会社で働き続けるのかな」
「この仕事へ時間を費やして人生を送っていて、私はこれでいいのかな」

気付けば、彼の前で以外、食事ができなくなっていました。

朝も昼も、ゼリーやヨーグルトをなんとか流し込む毎日。

帰宅して、彼の前になると一時は元気になれるものの、翌朝、出社前には過呼吸になったり、涙が止まらなくなったり。

それでも、会社へ行きました。

「共働きで、結婚して、子供を産んで…」

そういう生き方が、当たり前だと思い込んでいたから。


思い込みを壊すきっかけ

食事がまともにできなくなって2週間経ち、仕事に一段落ついて、本社の先輩とチャットで連絡を取り合っていた時のこと。

「最近、体調とかどう?」

そんな風に聞かれたと思います。

その時初めて、私は自分の状態を伝えました。

「ここ2週間くらい、まともに食事していません」

他に何を伝えたか覚えていませんが、それを伝えたことだけは、鮮明に覚えています。

そして先輩に「病院に行った方が良い」とも言われ、すぐに病院を探して、会社から近い心療内科へ。

その時、先生に言われたことを、私は今でも鮮明に覚えています。

この言葉が、私の思い込みを壊す、きっかけをくれたから。

「その仕事は、命を削ってまでやる仕事なの?」


毎日、彼に「いってらっしゃい」を言えること

本社でいったいどんなやり取りがあったかは分かりませんが、数日後には本社から専務がやってきて、私は1週間だったか、2週間だったか…お休みを貰うことになりました。

その間、図書館でのんびりしたり、彼がドライブに連れて行ってくれたりしたのですが、一番覚えていること、一番嬉しかったことは、別にありました。

毎日、彼に「いってらっしゃい」を言えること。

それがすごく、幸せでした。

「いってらっしゃい」を言って、家事をして、夕方になったら夕食の支度をして、彼を待つ。

そういう暮らしに、「主婦」という暮らしに、すごく安心感を覚えたのです。


仲間じゃなくて、歯車だった

「しばらく休めばよくなって、また働けるようになる」

本社の先輩や専務、社長は、そう思っていたようです。

でも私は休み明け、本社から様子を見に来ていた専務に「辞めます」と伝えました。

小さな会社で、人も少ないこともあったので引き止められたものの、私はその会社に戻りたいと思えなかった。

退職届を出して、事務所の物を整理して辞めるまで、たいして時間はかかりませんでした。

本社の人とテレビ電話で挨拶をしましたが…「じゃ」くらいの、とても軽い反応で。

「ああ。私はやっぱり、この会社の仲間じゃなくて、歯車だったんだな」

それが、最後の出社日の、会社の印象でした。


ハローワークで、泣いたこと

ハローワークに行きました。

色々な手続きと、転職活動のために。

窓口で担当の人と一対一になった時。

私は、泣いていました。

理由は分かりません。

涙が止まらなかった。

「すみません、すみません」と、謝ったことだけは覚えています。

窓口の人はそんな私を見て「まずは職業訓練へ行って、資格を取りながら、精神面を休めてはどうか」と提案してくれました。

そこからどう手続きをしたのかは忘れてしまいましたが、簡単な面接を経て、私は職業訓練へ半年間通い、パソコンに関する様々な資格を取ったのでした。


彼を支える幸せと、私が望んでいた人生

職業訓練中は学生に戻ったように楽しい日々であり、「主婦」という、私が心から望んだ生活ができた、幸せに満ちた日々でした。

毎日同じ時間に行って、帰って、彼のために食事をつくって、一緒に食べて。

朝は彼に「いってらっしゃい」を言ってから、私も職業訓練へ行って。

私はその時知ったのです。

彼を支える幸せと、私が望んでいたのは、そういう人生だったということに。

職業訓練が終わりに近づき、皆が、就職活動をはじめていた時のこと。

私は、うつ病になりました。

子供の頃から「学校へ行く」「皆と一緒に居る」ということに強いストレスと違和感を覚えていた私。

私は子供の頃から、家族を含めた人の輪の中に入れない子供でした。

「いつか直る」と思っていたそれは、いくつになっても直らず、最終的には「集団に属すくらいなら、人生は要らない」と思うほどになっていた。

自分を責めました。

「就職しないなんて、仕事をしないなんて、甘えだ」
「主婦になって彼に頼って生きようとするなんて、私はなんてダメな人間なんだ」
「私も彼と同じように仕事をしなければいけないのに、どうして私はそんなこともできないんだ」

責めて、責めて、責めて。

蓄積したストレスが原因で夜に自宅を飛び出したり、トイレに引きこもって泣き続けたり、腕にたくさんの爪痕をつけたり、眠れないうえに涙が止まらない夜を過ごしたり…。

そんな私を一番近くで見て、知っているのに「仕事をしてほしい」と彼に言われたことで傷付いたりもしました。

彼だって、不安なのに。


幸せなまま、人生を終えたい

ある日、夜になってまた家をこっそり抜け出そうとする私を見て、彼がついてきてくれました。

ふたりで、夜の町を、無言で歩いた。

私はその時「もう、生きていたくないんだよね」と、こぼしてしまったのです。

「就職しなくちゃいけないなら…また、人の中に無理して入って、あんな辛い思いをし続けないといけないなら…私、もう生きていたくない。

だって、今が一番幸せなんだもん。幸せなまま、人生を終えたいよ

私は、なんて卑怯なんだろうと思いました。

彼のことを思うと本当に卑怯なことを言ったと、今でも思っています。

でも私は、それを言わないと、伝えないと、本当に壊れてしまうくらい、限界だった。

ふつうの人のフリをしていることが、限界だったのです。


「その“ふつう”って、なに」

私は、彼の前でよく泣く人でした。

自宅でいい子を演じて、学校では輪からこぼれないようにしがみついて。

「本当の私」を、いつも置き去りにして生きていた。

その反動がストレスになって、火山が噴火したように、何かが爆発したように、彼に会うとよく泣きました。

彼の布団をかぶって、大声で泣いて、泣いて。

自宅に帰ればケロッとした顔をして「いい長女」を演じた。

学校では輪からこぼれないように必死になりながら、「皆と同じ」というレールから落っこちないように必死で過ごした。

家族に悩みを打ち明けても「気持ち悪い」と言われたり、「どうしてそんなことも我慢できないの?」と言われたりして取り合ってもらえなかったので、私は「耐えること」を選択して生きていました。

社会人になっても、ずっとそうで。

ある日、母と話していた時、「私はふつうに仕事をして、結婚して、いつか子供も産むから、安心してね」と、当たり前のように笑顔で話している自分に気付いて、ぞっとしました。

「なに、それ」
「その“ふつう”って、なに」
「私そんなの、一ミリも望んでない」

怖かった。

「ふつう」を刷り込まれている自分、「ふつう」に囚われている自分、「ふつう」が普通だと思っている自分が。

そしてそれを「そうね。ふつうが一番よね」と受け止めている母もまた。

私は、怖かった。


「ふつうの私」という虚像

「実は私、ずっと主婦になりたかったんだ」

彼と夜の町を歩いた、あの日。

私は、彼にそう告げました。

大学生の頃から「当たり前の生き方」「ふつうの生き方」を信じ、「結婚しても私ももちろん働くし、お互い頑張ろうね」と言っていたのに。

実は当時から、内心では「本当は、主婦になりたいんだけどな…」と思っていたけれど、私は、言えなかった。

だってそれは、「ふつうじゃない」から。

「私はこうしたい」なんかどうでもよくって、それよりも「周りから見てふつう」「親や彼が求めるふつう」が最優先だった私は、「一緒に頑張ろうね」と言うことにどれだけ大きな抵抗と違和感を抱いていても、それを言うことを選んでいました。

でも転職活動の時、ずっと張りつめていた「ふつう」という緊張の糸が、ぷっつりと切れてしまった。

「ふつうの私」という虚像が、壊れて粉々になってしまった。

「いってらっしゃい」を言える幸せを知ってしまった私は、「ふつうのフリをする私」に戻ろうとは、思えなくなっていたのです。


自己全否定の思い込みたち

「sarariちゃんがそれで幸せになれるなら、それが一番だと思う」

たしか、そんなことを彼が言ってくれたと思います。

正直、「言わせてしまった」と思ったし、「私はなんてずるいんだろう」と、何度も何度も思った。

でもそれが私の本音であることも、確かだった。

当時、26歳。

子供の頃、本音を言って大勢の大人に笑われた経験がトラウマになった私は、「本音は言わない方が良い」と思うようになっていました。

「主婦になりたい」と言った日、そのトラウマの経験以来初めて、私は心の底からの本音を口にしたのです。

私は、自分の本音が分からない人でした。

だから「誰かがこう言ってるから、私もそう言おう」とか、「親がこういうことを求めているから、そうしよう」とか、そういう風にばかり考えていた。

自分がどうしたいかなんて考えたこともなかったし、自分で考える必要もないと思っていました。

「私の考えることはいつも間違っている」
「他の人が言うことは、いつも正しい」
「自分で考え、決めて行動すると、ろくなことがない」

これが、私が「主婦になりたい」とこぼしたあの日まで抱えていた、思い込み。

自己全否定。

そんな思い込みの塊だった頃の、私です。


私は、自分のことを何も知らなかった

時々料理を休むような、ずぼらな専業主婦であること。

毎日彼に「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言うこと。

子供は産まないと決めていること。

ハンドメイド作家をしていること。

交流関係をほとんど誰とも持っていないこと。

親や妹とは数ヶ月に一度会うくらいであること。

毎日ほとんどの時間をひとりで過ごしていること。

うつ病であること。

大人になって発達障害のグレーゾーンだと分かったこと。

おそらくHSPでもあること。

26歳のあの日まで知らなかった「私」の本当の姿が、今の私の「ふつう」です。

私は、自分のことを何も知らなかったのです。

自分がどんな人であるかよりも、「周りにとってどんな自分で居ることが都合がいいのか」しか、考えていなかったから。

だから生きることが辛かったし、「生き続けるなんてもう無理だ」と思うほど、自分を追いつめてしまった。

「主婦になりたい」と言ったあの日から。

私は、「私」について理解することを、はじめたのでした。


私の数少ない「本音」

ハンドメイドは、会社員の頃から好きでした。

京都に住んでいた頃、そこにはハンドメイドアクセサリーや雑貨を売っているお店がたくさんあって、週末になるとしょっちゅう覗きに行きました。

自分でもつくってみたし、「売ってみたいな」とも思ったこともあった。

会社を辞めて、主婦になって。

「売ってみたいな」と思った気持ちをもう一度、思い出すことにしたのです。

その気持ちはきっと、私の数少ない「本音」だと、思ったから。

ハンドメイド作家をはじめて、3年ほどが経つでしょうか。

ハンドメイドをはじめてしばらくした頃、彼に「よく笑うようになったね」と言われました。

今は、彼に「今のsarariちゃんは、いきいきしてる」と言われます。


理解してもらおうと思わない

家族に対して感じていたギスギス、ピリピリした気持ちも、今はなくなった。

でも、それはちょっと、諦めにも近い気持ち。

「家族だからって理解してくれるとは限らないし、『家族だから』は理由にならない」
「家族は、他人。別の人間の集まり」
「理解しようという気持ちの無い人に理解してもらおうとすることほど、不毛なことは無い」

私は私の出来得る限り親や妹を理解しようと努めて生きてきたけれど、彼らはそうじゃないということもまた、知っている。

私が人として面倒くさい人であることも、知っている。

だから、理解してもらおうと思わない。

家族にも、他の誰かにも。


「私は、この生き方がしたい」

ふつうであること、理解してもらおうとすること。

私が諦め、手放した思い込み。

「諦める」と言うと、なんだかネガティブに思われるかもしれないけれど。

私にとってはとても前向きで、とても軽やかなもの。

「女性として、こう生きなくちゃいけない」
「妻として、こうあるべき」
「家族とは、こういうもの」

そういう色んな思い込みを手放したり諦めたりしたら、どんどん心も体も、身軽になれたから。

私は毎日、ほとんどひとりで家に居ます。

毎日ひとりでなにかを書き、つくっています。

「私は、この生き方がしたい」

そう、思ったから。

私はひとり時間が好きな専業主婦で、ハンドメイド作家。

これが私の、本音の人生。

思い込みを壊した先にあった、私の望んだ、人生です。


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