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朝ドラ『虎に翼』でみたセクシャリティの話と個人的見解。

今期の朝ドラ『虎に翼』を私は毎日楽しく拝見している。

今週月曜日に放送された第51話では、セクシャリティに関する話がぽつりとこぼれ出た。今日はそのことについて書いてみようと思う。

※ 以下はネタバレを多く含みます。




轟が花岡へ寄せていた思い。それをヨネが「惚れていたんだろう」と表した。私があのシーンを見て思ったのは、「そうだ。この時代にだってそういう人たちはいたはずだ。」ということだった。

男性である轟が、同じ男性である花岡へ想いを抱く。ドラマの中だけ見れば、その感情は男同士の友情による友愛であったり、また同じ志を持つものとしての敬愛であったり色々な捉え方ができた。あのシーンを見た直後であってもそう思った。様々な類の愛情の中に、恋愛としての愛情が滲んだのかもしれないと。

けれど、『虎に翼』の脚本家である吉田恵里香さんは、ご自身のX(旧Twitter)でこう明言している。

よねが【白黒つけたい訳でも白状させたい訳でもない】と言っていますし、轟も自認している訳ではないのですが、一応、念の為に書いておきますね。

轟の、花岡への想いは初登場の時から【恋愛的感情を含んでいる】として描いていて私の中で一貫しています(本人は無自覚でも)。人物設定を考える時から彼のセクシャリティは決まっていました。 もし轟が女性だったら、きっと最初から花岡との関係の見えかたが違っていたでしょう。私も含めて思い込みや偏見で人をカテゴライズしています。私も日々無意識の決めつけをしてしまい反省してばかりです。 個人的なことを全て明言すべきとは全く思いませんが、その決めつけで傷つく人がいることは確かなことです。

特集ドラマ「生理のおじさんとその娘」でも、今回と似たような描き方で、レズビアンを登場させているですが、その時も「この設定はいらなかった」「盛り込みすぎている」というご意見をいただきました。そう思わせる私の本の未熟さは100%反省しますが、同性愛は設定でもなんでもないです。こういう意見があがる度、エンタメが「透明化してきた人々」の多さ。その罪深さを感じます。これは個々の問題よりも、社会全体の教育や価値観の問題です。

轟自身がまだ自認しきっているわけでも答えをだしたいわけでもないと思うので、これを機に視聴者の方々も色々考えてご覧いただければ大変嬉しいです。こういう機会を朝ドラでもらえることはありがたく感じています。 私は、透明化されている人たちを描き続けたい。 オリジナルの作品や理解あるスタッフとの作品ではそれを心掛けています(理解ある、はて?ではありますがこれ以外の形容がないです)。 それが特別なことと思われる世界が悲しく残念ですし、描き方には注意を払うものの、私は現実にあるものを書いているだけです。褒められたい訳でも説教したい訳でもないです。 長年刷り込まれてきた様々な嫌悪感や差別に対して、何か少しでも変わっていくことを望みます。 私なりに勉強や取材を重ねているつもりですが、間違えることも沢山あるし、やりかたや言葉の使い方に後悔もある。伝わらないこともある。私のやり方が正しいのか、それこそ当事者の方から不快じゃないのかも分からないこともある。でも私なりにやっている最中です。長々とごめんなさいね~。 こういうことを作家が書くことが嫌な人もいるだろうけど、言わなきゃいけないことは言わなきゃいけないんです。ごめんね!

吉田恵里香X(旧Twitter)より引用

轟が花岡へ向けていた感情は”恋愛的感情”であった。成程。

確かに轟が女性であれば、もしかしたら花岡と恋に落ちるのはこの人かも?という推測が頭をよぎることもあったかもしれない。けれど正直なところ、女性には分からない”男同士の友情”みたいなものがあると私は思っている。それが友愛であれ敬愛であれ、恋愛的感情と名付けられたものであれ、これまでの話を見返したとしても、轟の行動が花岡への恋愛的感情に即したものであるという風には見えないような気がしている。


吉田さんの先程のポストについたリプライに『轟はクエスチョニングなんだと思います』というものを見つけた。クエスチョニングはLGBTQのQに属する部分のことをいう。分かりやすい画像があったので載せておきます。

LGBTQとは

何となく「そうなんだけど、そうじゃないんだよな」とそのリプライを読んで感じた。というのも私はこの轟と花岡のシーンで重要なのは、轟のセクシャリティが何かを決めることではないと思うからだ。

轟は花岡への恋愛的感情を持っていた。それは脚本の根幹としてあるかもしれないし、設定として轟自身はその感情について無自覚だという設定かもしれない。ゲイかもしれないし、バイセクシャルかもしれないし、はたまたクエスチョニングなのかもしれない。

けれど、轟がどのセクシャルに属するかというのは正直ここでは何一つ重要ではないと私は思う。

彼は同性愛者なんだとか、異性愛者なんだとか、そのカテゴライズがそもそも不要だと思うからだ。轟のセクシャリティが何であれ、あの時代にも言葉にならない、自分でも形容し難い感情を抱く人がいたことに気付かなければいけないのではないだろうか。

LGBTQという言葉は最近になって広く聞かれるようになった。マイノリティに属する側の人間からすると、嬉しいようなそれでいて少し複雑な気持ちもある。私は女性で現在のパートナーも女性だ。バイセクシャルかレズビアンか、どちらかに属するだろうと自分では思っている。正直なことを言えば、私は私をLGBTQのどれかだと認知されたい訳ではない。色んな人がいる中の一部になりたいだけだ。大多数とマイノリティとで分けて欲しいわけじゃない。

轟は花岡に対して恋愛的感情があった。それだけでいいじゃないか、と私は思う。轟がその想いを向けたのが、たまたま花岡という男性であっただけだ。彼には人間的な魅力があったのだろうし、人を惹きつける何かがあったんだろう。虎ちゃんが花岡に惹かれたのと同じように、轟もまた花岡という人物の人となりに『惚れた』のだ。それだけでいい。それだけでいいと思える世の中にならなければいけない。


脚本家の吉田さんは、「透明化してきた人々」という言葉を使っている。確かにこれまでセクシャル・マイノリティを扱うといえば、それ自体を題材にしていることが多かった。男性同士の恋愛、女性同士の恋愛。それを初めから分かって視聴者は見る。だから見える。けれど男女の恋愛を題材にした作品の中にマイノリティがいることはまだ少ない。マイノリティ側に属している私だって「もしかしたらこの男性はゲイかもしれない。あの男性のことが好きなのかも。(女性の場合も然り)」なんて思っては見ない。

それが差別かと言われると、何となく納得し難い部分もある。もし作品のストーリーが進んで、本当にそういう設定が出てきたとしたら、「ふーん、そうなんだ」と恐らく何事もなかったように受け入れてしまうだろうから。誰が誰を好きになろうが、自分をどう自覚していようが私にはどうでもいい。何だっていい。何にも正解だとか間違いだとかはないのだから。


轟の想いに気付いたのはヨネだった。それはヨネがカフェで色んな人の『惚れた腫れた』を見てきたからそうだったのか。その『惚れた腫れた』の中にも、もしかしたら男女だけてはない出来事があったのかもしれない。ヨネ自身が性に対する差別と向き合い続け、戦い続けてきたからこそ、周りの人よりも一歩引いた大きな視点で物事を捉え、受け入れられたのかもしれない。ヨネだから轟の想いに気付いて、受け入れることができたのかもしれない。

「惚れてたんだろ、花岡に」そう言ったヨネに、轟は「何を馬鹿なことを」と反論した。そしてヨネは「馬鹿なことじゃないだろ」と答えている。誰を好きになろうと、それが同性であろうと異性であろうと何もおかしなことはない。馬鹿なことをなんて、切り捨てる必要はない。

「別に白黒つけさせたいわけでも、白状させたいわけでもない」

ヨネのこの言葉は轟はもちろん、多くの人の心を解いたんじゃないだろうか。自分が何者であるか、自分が何を好きか。誰を想い愛し、誰に愛されたいか。他者からそれをカテゴライズされる必要は絶対にないし、自分自身も決めつけてしまう必要はない。まるで罪を吐露するかのように、自分のことを話す必要だってない。何も悪いことなんてないんだから。

轟自身の気持ちは、轟にしか分からない。彼が花岡に抱いた感情は、彼自身にしか分からないし、彼だけが分かっていればいい。そうして想いを胸に秘めた人たちがいることを、私たちは分かっていればいい。そしてただ単純に「あぁ、そうなんだ」と受け入れることができれば、尚良いと思う。


「あの戦争の最中、あいつが判事になって兵隊に取られずに済むと思うと嬉しかった」「あいつのいる日本へ、生きて帰りたいと思えた」

轟のこの言葉は、紛れもない、痛いくらいの愛だった。

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