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果てしない旅…

昨日の記事で「芸術、美術、書物、音楽…。作品に触れている時、たとえ作者の意図があるにしても、作品が世に放たれた瞬間から、何を、どのように感じても、自由がある。作品をただ、感じている瞬間、そこには、どんな人も対等に、尊厳がある。
みる角度、切り口によっても、感じ方が変化し、流転する。アートの世界が好きなのは、今、ここにあることができる。」と記述した。

人それぞれ、さまざまな表現があり、感じ方がある。作品を生んだ側、受け手側それぞれ互いに、対等に尊厳がある。
じゃあそもそも、その自由って、なんなのだろう…。(また、果てのないことを…。)

理由も意味もなく、ぐわっと込み上げて、眼湿らせることがある。作品について情報や知識が全くなくても、身体や心が勝手に反応しちゃっていることがある。

例えば、ハマスホイ「ピアノを弾く妻」のポストカードをみた時。

グスタフ・クリムト「接吻」を現地の美術館でみた時。大きさに驚いたのと、色彩の美しさ、陰影、醸し出され放たれる光、抱擁し、抱擁される安心。ただただ愛しか感じなかった。

suspended4thのLIVEで初めて「INVERSION」を聴いた時。惜しみなく、音のシャワーを浴びさせてくれて、バンドも会場内も渦となり、一体となった。

w.o.d.のLIVEで「モーニング・グローリー」を聴いた時。今って、その瞬間しかなくて。それを体感できるって、当たり前じゃないと感じた。

小城弓子さんの「またたきのは」展の馬を抱擁する人の絵に触れた時、たまらなく込み上げるものを感じた。

わたしの拙い言葉ではおさまらりきらない、本人も理解できていない、訳も分からず溢れ、反応した「なにか」。

自身の特性として、腑に落ちない、「なんか違う」となると心身全く動かない、反応しない、しまいには身体が動けなくなる。すとんと落ちて、「これ!」となると、動かずにおれないし、動いている。

出逢えた、巡り合わせ、触れることが出来る「喜び」と「感謝」。こんなに素晴らしい作品を生んでくれて、ありがとうのきもちが、自然の湧き水、源泉掛け流しの温泉の如く湧き続ける。

なにを、どう感じても「自由」。そうといっても、そこに尊厳がなければ、茶化しになったり、良い点・悪い点だけを指摘して価値を決めて、当てはめてしまうことになりかねない。
人が違えば、作品も感じ方も、それぞれ違う。その感覚は唯一無二だ。
そもそも、人も作品も、並べて比較できるものではない。「こうありたい/こうあってほしい」、「わかりたい/わかってほしい」と願望や欲望、「こうに違いない」「そうに決まっている」と正当性で詰め寄ったり、期待や価値を押し付けたり、はめたりして操作できるものではない。国家、権力、権威、大きなチカラの圧力がはたらいても、人は、感覚や感性は、操作されるものではない。
自身にとっては、ただ、感じて、反応した。その響いた、奥の奥から込み上げた、湧き上がった感覚は、かけがえのないもの。
今、ある。鮮明に。





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